マリーゴールドの現実

「幻惑」から「現実」へ

井の中の蛙的

 英語ができないということは、パソコンをする上で、とても障害になります。文法もですが、語彙力がないということは響きます。私の場合、ごく基本的な語彙力にも欠けているので、それはそれは、不自由です。一々、なにそれ、という感じでドギマギしてしまいます。疎いということは、まっこと不自由です。普通知らないもの、未知のものを探索するため、つまり疎いから、冒険もあるのでしょうが、私はパソコンの前で疎いがゆえに、冒険心をなくします。パソコンという機械を前にすると、これを壊さないようにしないと、このプログラミングを壊さないようにしないとという気が働いてしまうのです。それと言いますのも、約2年前は、分からないながらも、勘を働かせて、いろいろやってみた挙句、パソコン内を、めちゃくちゃにしてしまった経験がありますから。修理に大分かかりました。今回また壊してしまいました。しかし、今回のは冒険心のゆえではありませんでした。いわば不測の事態でした。

 こんなにパソコンを扱うのに不向きな私が、パソコンにお金をつぎ込まねばならなくなるのは、必至でしょうか。英語ができない上に、機械音痴であります。しかも人には不測の事態もありうる。ここはやはり、疎いという言葉の語感からくる、とろさ、なまくらさ、そういうものが不測の事態を呼び起こした感があります。不測にもかかわらずです。グーグルの翻訳は見ないほうがマシな気がしますが、ネット上に以前だったら、私にも解せる英文があったのですが、最近ではついぞお目にかかれません。いろんな分野の英語がありましょうが、私にも分かる英語というのは、とても分かり易かったということかもしれません。私は漱石の英訳された「こころ」を読もうとして1ページ目から落ちこぼれた経験がありますが、日本語の方は読んでいたので、大丈夫かなと思っていましたら、全く歯が立ちませんでした。漱石を翻訳で読む人には、漱石はあまり評価されない傾向にあるそうですが、あんなにテリブルな英語だと、さもありなんといった気がします。いや、テリブルなのは私の英語ですが、漱石の英訳をしようとまで思った人は、漱石の作品を愛してやまないのでしょうが、難解この上ない訳になっています。漱石の独特の文体は、日本語で読むに、しくはないのでしょう。

 最近家人に、ブックカバーをもらいました。文庫本サイズです。それをつけて読むのに今、4冊目です。ドストエフスキーの「悪霊」を読み始めました。これは何十年も前に買っていたものですが、当時はなぜか読めずにうっちゃってしまいました。今読み始めると題名のおどろおどろしさにもかかわらず、ドストエフスキーには珍しく軽妙なタッチで描かれた作品で、江川卓訳です。お読みになっておられる方は多いと思いますが、自分に何か拘りがあったせいか、全然違った印象を持っておりました。まさにドストエフスキーは、良き翻訳者に恵まれ、軽妙なタッチを損なわずに、翻訳されたものを楽しむことができます。世界の広範な地域の作品の翻訳が多くある日本で、読むことができるというのは幸いなことです。しかしなぜドストエフスキーカトリックを目の敵にするのでしょうか。これが疑問でした。ある司教様に聞くと、ちょっと教えていただきました。それはカトリックの組織としての官僚的なところとか、そういったところをやり玉に挙げているようです。実際読み始めたばかりの「悪霊」にも早速そのようなところは出てきました。バチカンは近いうちにイタリアの一大司教区になりさがるだろうとか、書いてありました。そんなところも日本人に受けるのかもしれませんが、ロシアを愛してやまないドストエフスキーにしてみれば、ロシア正教を愛するのは当然です。宗教的な要のところは、情報の坩堝ですから、バチカンに情報が集まるのは当たり前で、日本でも仏教や、神道の指導的立場の人々は情報が豊富です。

 私の昔の知人に、神学校で勉強した経験のある人がおられましたが、テレビなど全然見なかったそうですが、もの凄い情報が集まってきていたと言われました。昔の宣教師は手紙というか文書というか豊富に書きましたから、つまり報告でしょうか、世界中から宣教師たちを通して情報が集まるわけです。天正少年使節団については世界で知られていたわけですし、26聖人殉教についても世界で知られていたわけです。明治に入ってからのキリシタン弾圧についても、世界で知られていたのでした。彼らの犠牲の上に今の日本人は、信教の自由を手に入れたのでした。それは日本政府が世界の言論に抗することができなくなって、しかたなしに信教の自由を認めることになったのでした。日本の常識は世界の非常識、ということは今に始まったことではありませんでした。私は先祖伝来の信者ではありませんが、たまたまそういう地域に住んでおり、今はカトリックです。今度の集団的自衛権の問題は複雑です。この地域は原爆を受けた地域でもあります。私の両親は戦後この地に住み始めました。日本はこれによって、より自立しますが、それによって担うものも増えるでしょう。日本は米国の核の傘のもと守られているのですから、自立した防衛能力はありません。あくまでも比較的にということですが、イランの態度が軟化したのは、この法案と無関係ではないかもしれません。その認識がないと、ただ核廃絶を闇雲に言っても、あまり意味がないような気がします。そういう運動は長い目で見ると非常に意義のあることと思われますが、今現在は日本は米国の核の傘のもと守られているという事実があるのですから、今の政権が目指しているものは、9条を守りながら、より防衛能力を高めるという方向性でしょう。日本人にとっては、はなはだ皮肉ではありますが、それが現実でしょうか。私自身はむしろ改憲したほうがいいのではないかと思っていますが、安倍さんは9条は守りたいようです。つまり恒久平和を求める点では、なんら変わりはないものと思われます。しかし防衛の諸相は変わりゆく可能性はあります。なにせアーミテージのような人がいるわけですから、日本はより自立した国として、どのように対するのか、アメリカがオバマさん路線で行くならば、対話で解決という方向も考えられますが、アメリカの人々はどう考えているのでしょうか。日本としてはアメリカが対話路線で行ってくれるとありがたいのですが、なにせ日本の行く末はアメリカが大きく負っているのですから。とにかく今の所、日本は軍事にさほどお金をつぎ込まなくてもやってこれたわけですが、日本のGNP費は大したものですし、1%はとうに越していますが、中国ほどの軍事費もかからないでしょうか。平和の恩恵の中でぬくぬくとしてきた日本は、今から先も平和でありたいならば、変わってゆかざるをえないところもあるのではないでしょうか。

 英語のできない私は、外国の人と意思疎通ができませんが、代わりにやってくれる人々は多いですし、翻訳文化が進んでいる国ですから、外国の本もたくさん読めます。日本は自分の危機を認識したという点では、さほど平和ボケもしていなかったかもしれません。様々なご意見がおありでしょうが、私も久々に書いてみました。ここまでお付き合いくださってありがとうございました。

現実で繋がるということを目指して

 ソーシャルメディアをやっていると、止めてしまいたいときがときどき訪れる。このブログもその一つだが、以前「マリーゴールドの幻惑」を書いていたが、止めた。そしてまた今回の「マリーゴールドの現実」を書き始めた。他にももう一つだけソーシャルメディアを使っている。メディア上で存じ上げているだけであるのだが、砂を噛むような現実の中で、それらの人々の存在に、慰められたこともある。しかしわたくしは、それでも止めてしまいたいときがあって、実際ほぼ止めてしまったことがある。わたくしはTwitterFacebookなどのソーシャルメディアは用いない。Lineも用いない。Google+を使っているのみである。しかし、一つでもやっていると時間を喰う。ブログの更新は任意だが、G+は毎日やらないと気が済まなくなってくる。というのもメールを頂くので、一日でもやらないと、溜まってしまうからである。いちいち、不在時のお知らせなどするほど忙しくはないし、かと言って、半日家を空けるだけでも、メールは溜まっている。そのメールに勇気づけられたことはたくさんあるのだが、溜まると機械的になってしまう。

 ネットというものは不確かなものである。わたくしは高々、二、三名の人と交信したいがために、G+を始めた。そのために多くの人々を犠牲にしてきた。申し訳ない話である。しかしその二、三名の人々とは、限定公開ではお返事をもらえない。共有の印が残るのみである。一般公開の場では、お返事を頂いたことはある。仏教の絵巻物を通して諸国を渡り歩き、信仰を伝えてきた話がある。地獄に堕ちて、その地獄を遍歴すると、最後には極楽が待っているという話があった。つまり地獄と極楽は繋がっているというのである。わたくしは今、地獄を遍歴しているのだろうか。お返事がもらえない訳は、その人々は忙しい身であったり、ソーシャルメディアなど端なからやる気ないという人であったり、わたくしの勘違いであったりする可能性がある。ネットは不確かなものである。ソーシャルメディアでの繫がりを現実のものにしようとなさっている方々もいらっしゃる。それがソーシャルメディアの賢い使い方なのかもしれない。

 日本人も、フランス人やイタリア人のように、遊び好きになってきているのだから、そのような遊びがあってもいいのだろう。無論、日本人にも昔から遊び好きはいた。それは文化として残っている。ソーシャルメディアは文化と言ってしまえるだろうか。ネット上に写真や動画や文章が遣り取りされはするのだが。これこそまさに儚い文化現象のような気がする。それにわたくし自身は写真や動画はやらない。もっぱら文章のみである。他の方の写真付きスレッドを再共有することはあるのだが。わたくしは極楽にたどり着けるだろうか。つまりその二、三名の方々と現実にお付き合いができるようになるだろうか。一人の人は最近、連絡がついて別途、付き合いができそうなところまできた。もう一人の人は、現実では公的な繫がりしかない。私的には繫がりはない。もう一人の方は、直接繋がらなくてもよいのだが、返事ぐらいしてくれても良さそうなものである。

 人というものは思うようにはならないものである。しかし動くときにはあっという間に、状況が変わる。それはそれは目を見張るような出来事である。わたくしにもささやかな夢がある。わたくしも含めた四人のもの達が、それぞれカップルとして、四人で顔をあわせることである。この関係をもととして、他二組のカップルも加わればいいのだがと思っている。しかしわたくしは呆れるほどの恥ずかしい諸行をしてきた身である。だから現実感はあまりないかもしれない。ただわたくしの相手に予測している人は、わたくしのほぼ全てを知っている。その上でわたくしを相手にしてくれそうに思えるのだが、わたくしの勘違いかもしれない。それに最近連絡のついた人は、またしても絶交状を叩き付けてくるかもしれない。もう一人の人はこのチームのリーダー格なのだが、今のところ、さほどのリーダーシップは果たされていない。ヒントは頂いたが難し過ぎて分からない。つまりこのリーダーと最近、連絡のついた人が、カップルになってくれればなあと思っている。

 それから他二組のカップルは、わたくしの姉妹とその相手となる人であり、ご近所の早くに結婚されている夫妻とである。もうお子さんたちも社会人だろう。わたくしはこの方に恥ずかしいことをしたことがある。わたくしがまだまだ家族を信じきっていないときに、住所をお借りしたりしてご迷惑をかけた。これらの人々のお陰でわたくしは家族を信じ、他者を信じることを少しずつ覚えてきた。やはり歳のせいもあってか、最近は自分がいかに惚けたものであることか、分かりかけてきた。今まで、人様を疑ってきたが、自分の間違いだったことが判明し出した。まだまだ自分の間違いは、続出してきそうだ。そうなると、カップルも何もないかもしれないのだが。しかし今、一人の人とは連絡がつき、一人の人とは現実に公的には関係がある。もう一人は単独では連絡はつかなくても良い人である。皆どうして返事の一つもくれないのだろうか。いやくれている。しかし今一なのだ。今日は運命の分かれ道となる日かもしれない。現実は動き出している。

 ソーシャルメディアを個人的に使おうとした結果、多くの善男善女とネット上で繋がった。勝手にぶちこわしたりしてきたが、お赦しください。こんなわたくしでもよろしかったら、これからもよろしくお願い致します。

お金がないからには

 わたくしはテレビを殆ど視ません。それを利用して、治療のシナリオが組まれたことすらあります。つまり世の中のことをよく知らないので、それが利用された訳です。わたくし自身のことを、自分よりも他人の方がよく知っているように思われることがあります。でも噂話を信用してしまうのもどうかと思われます。世の中の人々は、わたくしにはお金があると思っているようですが、お金の入ってくる理由がありません。わたくしが大学予備校の国語教師をしていたときに、わたくしの授業は録音されていたように感じました。そこを去ってから、折に触れて録音された授業は人に聴かれたような気がします。でもそれだからと言って、それが収入に繋がるとは考えられません。また、わたくしが書いた小説が何者かによって、パソコン上から取り去られたことも多くありますが、それが出版されて売れているような気配もありません。なにか知らないうちに、お金儲けに繋がることがあったともあまり考えられません。

 根拠の薄い噂に振り回されて、預金通帳を穴のあくほど見つめたこともありました。お金が入ったら税務署から何か言ってくるでしょう。しかしわたくしにはそのようなこともありません。つまるところ、わたくしにはお金の入ってくる余地はないのです。分離課税という言葉を皆さんはご存知でしょう。誰の預金通帳にも記載されているそうです。わたくしは年間101万円未満の年金生活者ですが、その場合一切税金はかからないそうですが、銀行員さんは年金の利息にかかる税金が引かれているのだと説明されました。もしそうだとしたら、酷薄な国家です。というより、市でしょうか、県でしょうか。来期の市の予算は大幅にアップしました。通帳には一切利子が引かれた痕跡はありません。利息にかかった税金だから利息が記載されていない分、きっちり引かれているという訳でしょうか。利息と税金が相殺されているというのでしょうか。本来、課税対象者ではないわたくしから、微々たる利息が引かれているのでしょうか。酷薄なお上である。

 誰でもそうだそうです。誰の通帳にもそう記載されているそうです。本来、課税対象者ではないわたくしでさえ引かれているのですから、皆さんのはもっとでしょう。分離課税とは、ある所得を他の種類の所得と合算せず、分離して課税することをいう、とあります。わたくしの場合自分自身の知った限り、他の種類の所得はない訳ですが、つまり年金だけなのですから、合算も何もない訳です。それとも、わたくしが障碍者だから何も知らされていないのでしょうか。もしそうだとしたら、不正です。長崎市は昨日2月13日に予算を計上しました。今年度より43億円ものアップでした。わたくしの通帳にはよく見たら、利息は27円ありましたが、銀行員さんは、年金の利息に課税されて引かれているのだとおっしゃいました。分離課税の意味はそういうことだと言われました。年に2度、2月と8月に利息が入っているようですが、なぜ意味もなく、分離課税の言葉があるのか。

 もともとお金がないのならば、それですっきりもするが、噂話に耳を傾けていると、碌なことはない。お前さんにははなからお金はないのだよと、誰かはっきりと言ってくれないものだろうか。なぜわたくしのお金のことを人が知っているのだろうか。恐らく彼らも噂の虜なのだろうか。わたくしにはお金の入ってきそうなことがなくはないが、普通の感性からすると、ちょっと非常識だろう。なぜ作品が盗まれるのか。それは分らないが、どうも遠隔操作でそうされているのか、それとも、CDに焼き付けて去って行くのかよく分からない事態が起きている。それとも過去に拘泥せず、新しいものに向かうように、誰かが仕向けているのだろうか。

 わたくしは今度の入院前後では書く力が変わってしまったように感じている。この二、三年は模索状態だったように思える。お金があるようでないのは、わたくしに発奮を促すためであろうか。どうやってもお金は出てこない。わたくしにそれだけの働きがないことはいえるかもしれないが、善意で作品を取り去る人がいるだろうか。いたら名乗り出てもらいたいものだ。過去の作品に捕われずに、新しく書くことはわたくしにとって必要なことである。似たようなことは入院前にもあった。わたくしは処女作を含めて始めの三作を盗られた。おまけに、近作も盗られた。今回の入院後、また盗られたものがある。

 自分を救うために、どうすればよいか。わたくしには新しく書くことしか残されていない。嘆いてばかりはいられない。今まで書いても書いても、賞に応募しなかった。比較的短めであったこともいえるが、この2年間は学校生活に身を入れようと思っている。発表したら、チャンスはあるかもしれない。それにしても、稼ぐ当てのないものとしては、不遜に過ぎる遣り方かもしれないが、わたくしとしてはそれしかできないのであるから。

明けましておめでとうございます

 正月の二日には、子供時分に習っていたお習字の先生の家で書き初めをしたあと、善哉を頂いたものでした。日本舞踊の新年宴会は大概、成人の日でした。当時はまだ十五日でした。長崎由来の卓袱料理を頂きながら踊ったりしたものでした。今ではお習字を習ったとは思えない悪筆です。文字の整いは、心の整いと関連があるようですが、下手だからと言って必ずしも悪い心根という訳ではなくて、丁寧に書いているかどうかです。気分がせわしないと、字はきれいには書けません。今のところ、わたくしはあまりいい状態じゃないようです。四年ぐらい前にはきれいに書けていたのでしたが、その後病気で回復しきってはいません。

 結婚もしておりませんので、家ではお正月の伝統は廃れてゆく一方です。年明けのすがすがしさはないものの、のんびりとはしております。昆布締めと、蒲鉾と、数の子はありますが、あとは料亭のお節料理をとるようになりました。そう云えば、今年のお雑煮は地味でした。長崎のお雑煮は案外派手ですが、今年は鶏肉もなくかつお菜もなく、白菜で代用して、蒲鉾とお餅が入っているだけでした。今年は年末に白菜をたくさん買い込み、他の菜っ葉類もたくさんあったから、かつお菜まで買いはしませんでした。チンゲンツァイに小松菜、高菜までありました。頂き物ですが。クレソンブロッコリーも蕪もありました。もう冷蔵庫はいっぱいです。薩摩芋も里芋もあります。家人の誕生日には牛肉のステーキを頂きました。

 我が家は、平均所得からいうと貧しい方だと思いますが、母がいいお付き合いをしてきましたので、今のところこのように恵まれております。母がいないと家は極端に冷え込むでしょう。兄妹間の信頼感はピカイチだとは思いますが。母がいなければ、自分の付き合いでは何にもないということは分ってはいるのです。家の両親は小さな人々ですが、きちんと礼節を弁えている人々ですので、いろいろと頂き物もあります。小さなころは、そんな虚礼はしなくてもと思ったりしましたが、この歳になると、さすがにお礼の気持ちを伝えるということが、大切なことであるということを知るようになりました。如何に親の力がものを言うか、思い知らされる昨今です。

 家のものは小さな人々なので、政党の支持も野党です。わたくしだけが与党です。家族の中で一番小さなわたくしが与党というのも、珍しい現象かも知れません。しかしわたくしは民主党政権下で、不当に年金をもらっているということになりかけたのです。あの気違い染みた追求には怖れをなしました。わたくしは年金基金を支払ってきておりました。支払ったから貰える訳ですが、わたくしが働けるのに働かないと思われていたのです。わたくしは一見したところ健康そうに見えますが、それはお薬をきちんと飲んでいるからに過ぎません。教会にさえ行けなくなったわたくしが、厳しい世間で働ける訳がないのです。

 わたくしは外国へ行ったこともなく、日本でも栃木県が最北、南は鹿児島本土が最南です。それも随分前の話です。皆さんが普通にしている旅行や行楽も、病気ゆえにあまりしたことがないということです。最近では近場の温泉に行ったくらいです。母が未だに主婦であるということは、残酷なようでも、元気でいてくれているということです。子供が弱いと親は強くなるものです。しかし母も疲れやすくなりました。でもちょっと休むだけですぐに回復します。元日にはのんびりし過ぎてか、夜の後片付けまでしてくれました。お互いに支えあって暮らしているということです。この状態がずっと続く訳ではないことは、当たり前であり、一人で生きて行かねばならなくなる可能性だってある訳ですが、その時はその時です。誰一人訪なうことのない家になるかもしれません。

 わたくしの今後は恵まれたものになるようです。でもまだ実現しておりません。夜明け前というところでしょうか。そのためには勇気を振り絞らないと、いけないかもしれません。「◯◯さん、いいお友達」と言ってくれたからには、その人物は、帰って来てくれることでしょう。勇気を振り絞って書くと、多分、結婚するかもしれません。今からそんな話があるでしょうか。それこそ気違い染みているでしょうか。母が安らかな老後を送ることができるように、そうなることを願っております。わたくし共子供二人の結婚ということは何も非常識なことではないでしょう。相手はすぐそこにいます。わたくしの顔を見ると、嬉し恥ずかしといった顔をするその人が、わたくしには必要なのです。彼なしでは、眠ることも、勉強することも、食べることもできないのです。これは字義通りです。

 彼はわたくしが一人でも生きて行けるようにしてくれているのですが、その上でパートナーになってくれることでしょう。家人もその繫がりで結婚に至ると思います。今までわたくしのことで、ずっと心配をかけてきました。いつもの呼び声が聞こえてきました。それではこの辺りで失礼致します。皆様、良きお年をお迎えください。

病と死

 同人誌と文学学校にそれぞれ投稿し終えまして、昨日は洗面所に置く棚を家人と共に組み立ててしまいました。それで時間がぽっかり空いたところで、ブログを書こうと思い立ちました。すっかり月一のペースになってしまいました。

 最近、過去のことを思い出して、人様に対してよかれと思ってしたことや言ったことが、あれで良かったのだろうかと、随分悩まされます。またしなかったことも悔やまれます。それも悪意はなかったのですが、ただ知らなかったというだけで、今頃になって当時の情報が入ってきて、陰惨な結果になっていたことなどが悔やまれます。知らなかったというのは、愛が足りなかったからかもしれません。言い逃れかもしれません。胸に楔が打たれたようです。わたくしに何ができただろうかという気もします。今頃になって、ああしておけば良かったのじゃないかなどと、もっと相応しい言動が取れたのじゃないかと、昔の自分の無知を恥じます。

 今でも十分に無知ではありますが、以前よりは少し記憶を失った分、また新たな知識も加わっております。「無知の涙」は読んではおりませんが、無知というのはやはり良くないです。自分の経験からだけで言動しても、それが他の人にとって相応しいかどうかは分りません。よく自分の呑んでいるお薬を似た症状というだけで、素人判断で呑ませる方がいらっしゃいますが、自分に処方されたお薬を他人に呑ませるのは危険です。キャベジンやバッファリンであっても、呑むのにはお薬は細心の注意を払うべきです。最近、危険ドラッグを使った人が、犯罪を犯していますが、やはり溢れかえる情報の渦が、結局は本当の知識としてではなく用いられた結果そうなったようです。現今、お薬がたやすく手に入るようになりましたが、わたくしは病院に行くことをお勧め致します。でももしそれが精神的なものならば、心理療法士にかかることもお勧めするかもしれません。心理療法で、一度の施療で良くなる人もいらっしゃいます。また何回か回を重ねるうちに、精神病を発症しそうだと判断されると、精神科にかかることが勧められているようでもあります。お薬を必ずしも呑まなくて済む場合もある訳ですから、急性期でなければ、心理療法をお勧めします。

 ただ、精神科のお医者さんと心理療法士が仲良しかどうかは分りません。自分の持ち分で、働いている場合もあります。最近子供社会で事件や災害があった場合、心理的ケアがなされるようになって参りましたが、精神病は何かのきっかけで起こる場合があるからです。何かのショックがあった場合、その当の人物の一番弱い部分に負荷がかかるそうです。そして何らかの病気に罹るそうです。勿論病気にならない人もいます。健やかさとは一体なんでしょうか。病気になって初めて分る心境というものもあります。知りたくない心境かもしれませんが、ほぼ99%の人が病気であるという見地からすると、病気の心境を理解しないというのは、大きな欠陥でもあるような気もします。兼好法師も、友人にしたくない人の中に、病気になったことのない人をあげています。つまり弱さで苦しむ人を理解しないというのは、欠点でもある訳です。

 わたくしは特に皇室というものに関心はありませんが、雅子妃には関心があります。彼女は最高の教育を受け、最高のご身分でありながら、ご病気も知っておられます。彼女は今後、弱い人々の支えとなって、歩んでゆかれることでしょう。身を以て苦しみを知るということは、左程悪いことではありません。英雄や大人物の心境を知るのは難しいかもしれませんが、それはプルターク英雄伝や、回想録を見れば案外知った気分になるかもしれません。でも人間は、ほぼ凡人です。わたくしは大人物の影の部分にも興味があります。彼らもやはり病を経験したりしております。英雄も流行病には勝てない場合もあります。それならば、ミソもクソもない訳です。

 近代は、作家と言えば東大卒でした。その東大卒の作家達は多く自殺しました。漱石も、胃潰瘍と気の病に苦しみました。しかし彼は自殺しませんでした。彼は分裂病だったという人さえいますが、相当変わった人であったことには違いないでしょう。しかし、漱石山脈の人々への面倒見は良かったようです。鴎外は孤高の人であるかのようでしたが、自宅で観潮会という文学の会を持っていて、他者との交わりも深かったようです。彼は医師で軍人で作家でしたが、最後は一人の人間として死んでゆきました。やはり死の淵に近かった人として、自分の死をあらかじめ想像していたと思われます。芥川龍之介は親が病気持ちでしたが、その怖れがあったのでしょうか、「漠とした不安」を感じて自殺しました。痛ましいですが、彼はエロスの人でもありました。多くの女性と交わり、ポルノまがいも書きました。これは漱石や鴎外とは違う側面ですが、やはり正直ではあるでしょう。彼の死で近代は終わった訳ですが、現代も長くなりました。そのうち戦争でも起こるでしょうか。でも戦争は時代の画期ではありません。人は寧ろ個々人の死によって、一つの時代が終わったと感じるものです。日本が元号制を廃棄するかどうかは分りませんが、明治からは天皇の着位から死までが一つの元号となりました。面倒くさいですが、日本独特のものでもあります。天皇制が続く限り元号制も続くのかもしれません。皇太子が天皇になられるころまで、わたくしは生きているかどうか分りませんが、惚けて生きているかもしれません。それを計算に入れて、生きて行くつもりです。でも今でさえ、惚けていてもおかしくはない脳の状態かもしれません。切りがないのでここら辺で終わります。お付き合い頂いて有り難うございました。いつの間にか原稿用紙6枚分は書いています。脳は縮んでも、大丈夫のようです。ではまた。

高貴な狂気

 先日書きました文学賞は逃してしまいました。残念と言えば残念ですが、仕方ないですね。今の実力でしょうか、それとも才能がないのでしょうか。同人の方に見て頂いたときには、「ここは田舎だから理解されないかもしれないよ」と言われました。県庁の息のかかった人々の選出ですから、まあ、田舎と言えば田舎ですね。毎年三万人からの人々が自殺してゆく時代ですが、そのようないびつな社会に生きているわたくし共は、まだまだ心の病に不寛容なのでしょうか。不寛容だから自殺者が多いのでしょうか。わたくしの作中人物は、自殺してもおかしくない状況下にありながら、生き延びており、ハッピーエンドですが、甘いでしょうか。でも実際にそういう人物はいるのです。ですからあり得ない話ではないのですが、あり得ない話を書いても良い訳ではあります。古典作品はあり得ないような話が多いです。我が国の「竹取物語」「源氏物語」にしましてもそう云えます。「ドン・キホーテ」「白痴」「城」、その他もろもろもそう云えます。勿論わたくしの作品など、そのような作品とは比肩されるようなものではありませんが。

 それにしましても、選考中の裏話はいろいろあるようです。よく分からないので書きませんが、裏話というものはつきもののようです。あとで、食事を共にしながら、グチグチと話しているかもしれません。或は自分たちには権限はないからとか、まあいろいろですね。お役所の文学賞というのは名折れだなと感じておりましたが、やはり選考されなくてよかったと思うべきかもしれません。おまけに、芥川賞直木賞に殆ど関心がなかったというわたくしですから、その賞を得た人々から芥川賞作家が多くても、あまり意味がないのです。それに最近の芥川賞直木賞は迷走しているように聞きます。第一回の芥川賞からして様々の裏話があったようです。有名な話ですので敢えて書きませんが、いい作品が選ばれるとは限らないもののようです。

 しかし賞を貰うことに依って書く場が与えられ、才能を伸ばしてゆくことができる可能性はあります。また賞の重みで潰れる場合もあるようでもあります。また、受賞作を超えることができないという場合もあるかもしれません。まさに悲喜こもごもですね。最近の作家さん達は、芥川賞直木賞は貰わなくても、活躍している方々は多いようですね。賞の数が増えたともいえるでしょうが。知っている人物とか、義理や人情もからんでいるようですね。それから仕事をしているかどうかとか、学生さんだとか、そういった人々は有利ですね。無職、ニート、などは不利でしょう。わたくしにも細やかな職歴はありますが、今は無職です。この無職というのを嫌うのですね、人々は。このような無料ブログしか書くこともできません。しかも読まれてはいないようですが、読まれていたとしてもあまり共感は得られてはいない模様です。たまにスターをつけて頂くことはありますが。

 わたくしには運良く家族がおります。お陰で生きて行っております。細やかな障碍年金もございます。障碍者を見くびらないで頂きたいのです。わたくしもデイケアに通っておりますが、弱っているとは云え、皆きれいに生きている方々です。そこには他の芸術分野で認められている方もいらっしゃいます。身体にも生まれつきの体力差や、運動神経の良さの差があるように、精神の世界にも差があるかもしれませんが、それは病気だからという訳ではありません。一つのことの裏表といったようなものです。大概障碍者は、傷ついた人々かもしれませんが、それが先ず先天的な清い心に負担がかかってしまいますが、持ち前のものでちゃんと立ち直って歩き出す人々です。ただ世の中は無理解であると云えるかもしれません。健常者の世界と障碍者の世界は、同様に美しくも汚くもあります。でもえてして障碍者は忍耐強いです。弱くて強いのです。大体、健常者の中にも狂気はあるものです。

 ぱかっと両方に別れている訳ではありません。誤解を怖れずに申しますと、パラリンピックは身体の障碍のある方々のものですが、あんなにきれいに別れてしまっているのは如何なものだろうかと思います。同じ土俵で戦ってもいいのではないかと思います。スポーツの限界でしょうか。わたくしはそこに垣根のあるのが不思議です。パラリンピックも凄いからです。盲人の方がカメラを持たれる時代です。ピアノを弾かれる時代です。芸術分野でもここまできました。心と身体は二つで一つです。「谷間の百合」では、副主人公の夫人が精神の危機を迎える場面が描かれています。それは作家が狂気についてよく理解していたからでしょう。恐らくそのような経験があったか、身近に見てきたかしたものでしょう。夫人は狂気が見舞っても、常軌は逸しませんでした。寧ろ主人公に、こんこんと言って聞かせます。高貴な魂ならば健常者であれ障碍者であれ、高貴に生きることができます。

 ここまでお付き合いくださって有り難うございました。

文学賞前夜近く

 わたくしは若い女性でもありませんが、学校の先生に気に入られたことも、一度たりともありません。それに無料ブログですので、そんなに読まれているとは思えないです。そういう風にしか思えないように、パソコン上では反応はありません。ときどき、温泉卵は作れないさんにスターをつけて頂くことはございます。一度他の方がスターをつけてくださったのも知っておりますが、一回につき4個が最高でした。コメントもありませんし、何にも反応はございません。終風さんが皮肉を籠めてブログを書いておられるところは、丁度拝見致しました。

 今、家ではお風呂の工事の真っ最中です。温泉に行けるので珍しいことですので、そういう生活も楽しんでおります。でもお風呂工事にはお金がかかります。それでわたくしもその一部分を荷なうべく、稼がなければなりません。親はそう言ってくれるだけでいいよと言ってくれますが、わたくしは是非とも加勢したいと思います。今、ある文学賞に投稿しておりまして、先ず第一の発表が11月の初旬にあります。そこをクリアすれば、次の段階に進みます。そうして最優秀賞に至れば、50万円ぽっちの賞金が頂けます。

 実は当選しましたら、その小説に付いては著作権を失います。ですから、本当は当選しなくてもよいのです。でもお金は欲しい。でも50万円ぽっちで終わるか、落選してもっと実入りのある賞に持ってく方がましかと思ったりしております。お気付きのように、わたくしは落選した時のショックをできるだけ少なくしようと思っているのです。でも真実でもあります。だって50万円ぽっちですもん。工事費のほんの一部分にしかなりません。普通の新人賞は大体200万円くらいの賞金ですよね。

 わたくしは芥川賞直木賞も読みませんが、どんなのが当選しているのか最近の直木賞を読んでみました。実につまらなかったです。わたくしの書いたのが、もっとましじゃないかと思いました。偽らざる思いです。でも人には運命というものがあるのですよね。大したことなくても何かの運気で、当選したりするものです。それにしましても、商業誌ではなくても、同人誌からも選ばれているそうです。そういう情報は、同人の方から得ます。今度も原稿をチェックして頂きました。お陰さまで大部ましになったと思われますが、その方のご親切に報いるためにも、当選したらなあと思います。

 同人誌の方の作品ももう少しで完成します。完成と言っても締め切り後にチェックが入ると思います。それで、手を加えます。それが約3か月くらいかかって、印刷、発行の運びとなります。わたくしは勿論、編集者ではありませんので、自分のだけにかまけていることができます。編集者は大忙しです。わたくしは一会員で同人ではありませんが、会員でも投稿できる会です。入会してから一度だけ、掲載されなかったことがありました。独身者の性を描いたものでしたが、勿論、純文学と思っておりますが、当時は会風に馴染まないと却下されました。次の作品は右翼が怖いと言われて、前のがよかったと言われました。つまり案外、いい作品だったのでした。次の作品は大幅に削って、右翼に睨まれない程度に仕上げました。お陰さまで、地方新聞の書評欄に少しだけ講評が載りました。

 人様の目を受け入れるということが、如何に大切なことであることか、よくよく分からされたことでした。話は変わりますが、今、プルーストの「消え去ったアルベルチーヌ」を読んでおりますが、彼は政治にも通じているのですね。彼の階級からすると、そういうお付き合いもあったことでしょうか。素晴らしいです。勿論翻訳で読んでおりますが、新しい訳で読んでおります。今、訳出されているので3冊、文庫で出ています。溜まらないうちにちゃんちゃんと読みたいと思います。多分、平行読書するでしょう。1冊に嵌るというのは、あまり好きではありません。今は書いているので1冊読んでおります。書いてしまったら、暫く読書に励もうと思っておりますので、また平行読書になることでしょう。

 書くのもあと1枚くらいになりました。予定ではですね。もっと増える可能性はありますが、予定通りに行けばそれがいいかなと思います。こんどはいつもより少なめで、たかだか50枚ぽっちです。長ければいいというものでもないのでそうします。一度、超短編に挑戦しましたが難しいです。今は亡き同人誌の先輩が、晩年お書きになられた超短編に、感動致しました。老境というのはあのようなことを言うのでしょうか、素晴らしかったです。ところでわたくしは、芥川賞直木賞に関心があまりありませんし、読んでも来ませんでした。だってあれは新人賞ですから、まだまだ経験薄の人の作品ですよね。わざわざ読むこともないかと思います。読売新聞社賞くらいなら読んでもいいかなと思いますが、なにせ現代のものにも疎くて、日本文学も、世界文学も、名作を読んでいないものですから、そちらから先に読もうとしております。

 自分が現代人なのに、その現代人のわたくしの作品を、読んでもらいたいと思っているのですから、勝手なものですよね。古典的名作ばかり読んでいるのも、どうかなとは思いますが、日本でも書く人はたくさんいますから、そんな中で読まれるべくなるのは難しいことでしょう。時代や地域を超越するような作品が書けるといいのですが。

 無料ブログですので肩身が狭いです。前回より一か月が過ぎると切れてしまいそうになります。前回も一か月以上前でした。Googleで検索してからログインしました。自分のブログなのにですね。あ、無料ブログでした。肩身が狭いです。では今日もここまでお付き合いくださって有り難うございます。また次回。