マリーゴールドの現実

「幻惑」から「現実」へ

夢想する私

 夢想するということは、悲しくも楽しいことである。夢想するのは満たされていないからで、悲願の要素がある。そして願っていることを手に入れた状態を想像して楽しむのである。寒い冬には暖かい着物や、寝具に包まれることを願う。今、持っている古びたものには飽きたりてはいない。本を読んでは知識のなさを省みて、この本を読んでいたら、と残念がる。そして本ぐらいだったら、図書館に行ったり、本屋さんに行ったりして調達して、暇があったら読むこともできようか。寝具はありあわせのもので、どうにか暖かくしているが、服となると経済力がよく現れるところではないだろうか。日本の地方のお年寄りは、皆似たり寄ったりの、地味な服装をしている。日本のお年寄りはさほど豊かではないのだろうか。それとも、戦後の貧しい時期を通過しているから、贅沢はできないのだろうか。お年寄りは身綺麗にすることを願ってはならないのだろうか。先日亡くなられた平良とみさんの生前の録画を見て思ったことは、ピンクの口紅がよくお似合いで色っぽいなという感慨である。素敵だなと思った。私のよく見かけるご老人たちには夢想するということがないのだろうか。私自身、初老の年代に入って、美しくありたいという願いは強まる一方である。若い頃はかえって構わなかった。服装には少し気を使ったが、肌の手入れなどには無頓着だった。私は学生の頃はまだお化粧はしなかったし、基礎化粧もほとんどしなかった。今とは時代が違うのかもしれない。私の若い頃には今のように何から何まで揃ってはいなかった。私はニキビ肌だったので、母が洗顔クリームのいいのを買ってくれたりもした。でも手入れはしなかった。初老のこの歳になると、かえって肌を気にしたりする。気にする暇があるだけだろうか。その割にはマメに洗顔しないし、基礎化粧もさほど行き届いてはいないのだが。お化粧は外出するときだけするし、服装も外出するときだけまともに考える。ただ私の外出先は飾り立てて行くほどもないところであるのは、普通だろうか。まあ、おかしくない程度に考えるだけである。慎ましく暮らしたいとは思うものの、このような調度品に囲まれて暮らせたらいいなと、カタログを見ては嘆息する。家よりも劣悪な住環境の方は案外いらっしゃるだろうが、築45年の家には不満も多い。3階建てのビルなので平家の広い家を夢想したりする。「本朝文粋」に家の図面を引くのが趣味の男が出てくるが、私も実際、図にしたりしていた時期があった。そういえば高校生の頃までの私は、性欲の充足に満足できない状況に明け暮れていた。性に対して知らない夢想をしていた。それが大きかったようだ。この歳になると性欲はほぼなくなるし、他の所有欲や何かが出てくる。あんな暖かそうな寝具に包まれて眠りたいとか、こんな素敵な服が着たいだとか、こんな部屋でこんな調度品に囲まれて過ごしたいだとか、そのような低級な夢想にあふれている。実際は買えないことが多いし、代替品はボロでもある。同じことなのか知らないが贅沢に暮らすというより、美的に暮らしたいと思う。いらないものは全部捨てたい気がする。少ない品数で、あっさりと過ごしたい気がする。45年も経つと余計なものがたくさんある。我が家の食器棚には使わないお皿や器がたくさんある。もっとスリムに暮らしたい。冷蔵庫の中だってもっとすっきりしないものだろうか。カタログを見てはこれが欲しい、あれが欲しいと思っていたが、それがならないとなると、余計なものは捨てて、身軽に過ごしたいという欲求が高まる。そのように夢想する。廊下に積まれている不要な品々はなくなり、収納庫にきっちりと収まり、無駄のない生活。家族の中でそれにほぼ成功しているのは私だけである。その私でもまだ捨てたいものはある。着ることのない服をまだ持っている。いつか着ることのできる体型になるかもしれないという思いでとっているものもある。この歳になってはほぼ無理であろうことはわかっている。だから次の機会には手放そうと思っている。来年の末の話である。グレードアップしたものを持ちたいという欲、叶わないならもっとすっきりと過ごしたいという真っ当な欲。夢想の種はあれこれある。そして何と言っても、この歳になってもできる仕事で稼ぎたいという不遜といってもいい欲がある。しかし現今、私のようなふらふらしたものには与えられそうもない仕事である。夢想と欲は切り離せないだろう。しかし夢想は欲とは違って、楽しいものである。夢想は夢想に過ぎず、それ自体人畜無害だが、夢想に浸って半日を潰すという時間の無駄をもたらす。夢想は日常的になると困る。夢想はお祭りのようでなければならない。普段はちまちまと暮らさねばならない。その暮らしをもうちょっと美的にしたいという欲とも夢想ともつかないものは、捨てることしかないような気がする。しかしそれがまた贅沢であるとも言える。捨てるということは贅沢なのではないか。だから、捨てるというより、お譲りしたいという気がする。私の夢想などごくつまらないものだが、理性と情緒の織りなす祈りにおいてはもっと真っ当なことを祈っている。世界の平和や人々の幸福などなどである。人間の精神生活にも様々な局面がある。この小説を読んでいないのが悔やまれる、あのエッセーを読んでいないのが悔しい、今からでも読もうかなどと思う。だがもう初老の域である。万巻の書がある中でどれから先に読むべきだろうか。残された時間はあまりない。読んだからといってどうなるか。私の望む職業には欠かせないことであるが、読む順序には序列がつけられるだろう。しかし夢想を捨てるわけにはゆかない。夢想は我慢することをもたらし、その前に豊かな気持ちに少しなりと浸ることができる。ままならない世において、人間が人間らしくある満たされなさの良き発露ではないだろうか。夢想はなんでも実現してしまっているという非人間的状態から人を救い出すものなのだと思う。人間には100%はないのだろう。してみれば、夢想だにしないことが起きる可能性はいつも残されているのだろう。冒頭お年寄りの身だしなみのようなことを書いたが、それだって夢想することさえしなくなったら、平良とみさんのようではあり得ないのだろう。噂話に明け暮れて、自分ではよくしようとはしないならば、無駄に歳を重ねることになる。夢想する暇があったら実現のための努力はするべきかもしれないが。噂話も情報交換であるが、なんでも洗練されたものとそうではないものがある。やはり上質を求めるのは人間の性だろうか。陶潜のような人間は貧しい中でもその情緒と知性を開いていたのだろうか。逆よりはいいかもしれない。おそらく私は貧乏とは切っても切れない仲なのだろう。人一倍、富への執着はありそうだが、貧乏に生きている。神様は良きにしてくださる。時期が来たらそうされるだろうか。いい人間になりたいと夢想することはあまりないような気がする。そのような殊勝なことはない。私は知られているようで知られていない、知られていないようで知られている。私自身がどうにかなるというより、人様に委ねるべき問題かもしれない。ここまでお付き合いくださってありがとうございます。

余計な事柄

 暖房を切るのを忘れて眠ってしまった。なんとも言い難い罪悪感にとらわれる。無駄にエネルギーを使ってしまったという公共心と、無駄なお金をかけてしまったという残念さとが押し寄せてくる。しかし今も暖房を切ることなく、これを書いている。寝起きにブログを書くのは初めてではないだろうか。19度に設定しているので、さほど暖かくない。エアコンはスースーする。エアコンなので火事になったりする心配はないが、一冬に2、3回はこういうことがある。そういえば昨晩は、胃が痛んで調子が悪かった。胃薬を飲んでうだうだした挙句であった。

 カレンダーを新しくした。旧年、つまり今年の12月からのっているものである。手帳も新しいのを用意している。だがまだ1か月あるので手帳は古いのを使っている。新しいのにも最低限の予定は書き込んだ。私のようなものでも手帳は必要である。学生時代、手帳をつける習慣はなかった。手帳をこまめにつける友人がいた。私は当時は書きつけなくても覚えていたし、さほど予定らしい予定もなかった。手帳をつける友人は、予定の多い人だった。そして成績の良い優等生だった。私は手帳に何か書き付けることがあるという事態を羨んだ。私の学生時代は惨憺たるものだった。

 キリスト者の学生の集会に行き、教会に行くぐらいしか学校以外では用事がなかった。当時は柄にもなく福音派の教会に行っていた。全く柄にもない。しかし教会生活は楽しかった。けれども芸術や特に文学の話ができないのはつまらなかった。その教会の牧師さんがそういう方面に明るくないということもあったが、教会自体が芸術には重きを置いていなかった。それは私にとって半分しか生きていないことになる。本好きの私には本の話をする人がいなかった。残念なことだった。今は私はカトリック者だが、当時の教会の一部の人ともまだおつきあいさせていただいている。そしてその方が愚作を読んでくださる方のお一人である。その方はこの地の路面電車の始発からほぼ終点に近いところまで出勤されていた方で、その間本を読んでおられたようだ。途中で職場の移転で近くなり、あまり本を読む時間がなくなったそうだ。それで小説は一年に一回愚作を読むだけになられたという。その方はよく本を読まれる方であるが、本のことは教会では話されなかった。医師でいらっしゃるので理系だが、さすがにお勉強されていて、愚策の評に「古今和歌集」の仮名序を引いてくださったことがある。教会では話す内容が限られている。そういうものだ。特に政治の話はしない。それは日本の教会の美徳でもあろうか。アメリカでは福音派ティーパーティーの政治活動の話があったぐらいだ。

 日本のプロテスタント教会では政治色は好まれない。政治のことは個人的な問題とされていた。カトリック教会ではそういうわけではない。しかし創価学会公明党のような間柄ではない。当たり前だが。

 もう私の歳では老境に入り、私より若い世代の人が政治家になったりしておられるようだ。甲子園を見ていた時、高校生のお兄さんたちが、と見ていたのがもう随分私より若い世代で、それは甲子園に限らず、どんな世界も私より若い世代が頑張っている。人生も秋となった私であるが、これまでのんびりと過ごしてきたが、ただのんびりしていたわけではない。この瞼の奥に焼き付いていることはある。この2、3年でどうにかしたいと思っている。私は長らく休んできたが、ある意味休みながらもやってきたことはあるので、どうにかならないかと思っている。勇気を奮ってやってゆきたい。どうも私は余計とされているものを好み、それを生業としたいとさえ思っている。しかし一人ではどうにもならない。基本的に一人だが、人間を書くからには一人では済まされない。関係性の中で起きることだからだ。人間は完全に一人ということはあり得ない。人付き合いの悪い私であっても、人様に厄介になっている。ここまでお付き合いくださってありがとうございます。

人間的な、

 私はお年寄りが案外好きである。過去知り合ったお年寄りの方が、ご病気になられて、手紙でも書いてくれと頼まれたので、かなり頻繁に出した。すると、あまりに多すぎたせいか、あちらは負担に思われたようで、不快の印象が伝わってきた。また別の方にお年賀を出したら、お年を召されすぎていて、お返事を書くことができないから、手紙は勘弁してくれと、お電話でわざわざご挨拶をいただいたこともある。もしかしたら不快だったのではなくて、ただ単にお返事できないことで、恐縮されていたのかもしれない。でも壮年世代でも人によってはあまりに頻繁に遣るのは憚られる。その場合は内容も重要である。こちらが良かれと思ってしていたことも、特にメールで遣り取りしていた場合、多分メール代金が高くついたせいか、あるときプツンと返事がこなくなったりする。勝手だなあと思ったが、私のメール代はそのとき家人に依っていたので、家人に睨まれてから初めて、メール代が嵩んでいたことに気づいた。彼女はその後ショートメールをごくたまに送ってくる。また、鬱っぽい友人にやっと連絡がとれたかと思うと、こちらの不注意で怒らせてしまったりした。私より若い人とは交信することはない。一人、一、二歳若い人がいるが、彼女とは固定電話で話し、手紙のやり取りになったりする。携帯電話での交信は避けられているようである。そういえば、私の愛する人は私より歳下のようだ。私がメッセージを送るのみで、返事は来ない。が、受け取られてはいるようだ。このように書いてくるとみなさんは私が胡散臭いものに思われてこられるだろう。実際、前述の人々には胡散臭がられているのだろう。だから私は胡散臭い奴なのだろう。私が宣伝するのは効果がないかもしれない。しかし、使徒たちは漁師だったりした。職業に貴賤はあるから、彼らは賤しい仕事をしていたことになる。だからキリストも敢えて彼らを選ばれたのだ。「わたしはあなたがたを人間をとる漁師にしよう」と仰ったその修辞は効果的だが、本当のところ彼らはそんなに頭の悪い人々だったのだろうか。弟子たちの愚かさは聖書に散見されるが、それは如実に人間的である。特別のことではない。ヘブライでは、ほぼ100パーセントの識字率であった。それは聖書に書かれてある。安息日には順番に〈任意にだったか〉地域の男たちが、聖書を朗読する。キリストもその文脈で聖書を読まれた。おまけに説教までなさった。そうすると、この人はどこでそのような知恵を身につけたのだろうか、この人はマリアとヨゼフの子ではないか、などと言い、キリストは、預言者は故郷では受け入れられない、と言われたのだった。しかし、それは説教についてであって、朗読なら誰でもしたのだった。ペトロやヨハネがご自分についてくる力量はあるかどうかは見極められただろう。ただ、彼らが人間的であることは見越しておられただろう。王位につかれたら自分たちを右と左に置いてくださいと、ヨハネとヤコブは言った。キリストがどのような国の王なのか、そのときには分かっていなかったのだ。しかし後から分かることもキリストは見越しておられた。弟子になりたいという人は断り、弟子になれと言われた人はついてこなかったりした。単純な描写に万感の思いを汲みとることができる。白髪は歳の冠という言葉がある。老人の知恵を重んじ、若い人の純真をたたえる場面である。一夫多妻制の世の中だった。私がなぜこんな書き方をするのか、聖書を読まれた方ならお分かりになるだろう。私は不親切だからわざわざ書かないが、聖書の「知恵の書」や「コヘレト」などをお読みになるといいだろうか。人が歳をとって弱ってゆかれるのは、はたから見ていて悲しいことだ。どうしてできないのかと思っても、しょうがないのだ。歳をとるということは、様々の能力が衰える。しかし、白髪は歳の冠と言われるように、素晴らしい側面もある。それが牛歩のようであっても立派なものだろう。お歳を召された方々の素晴らしさは、弱さと威厳が入り混じっている。歳を理由に勘弁してくれるように言うのは、パウロに始まったことでもないだろう。パウロこそ優れた人だったが、初めは迫害する人だったのだ。彼は復活したイエスに出会った人であるが、パリサイ人中のパリサイ人だった。よくパウロはイエスの教えからずれていっていると言われるが、パウロという人を通して伝えられるのならば、パウロという人の人格が用いられないはずがない。もう聖霊の時代になっていたのだ。キリストの人としてのご人格とは違って当然かもしれない。イエスは大食らいの大酒のみと称された。一方パウロは禁欲的である。どちらも結婚はしなかった。いろいろ取り沙汰はされているようだが、私は伝統的な立場に立つ。ホモセクシャルな人もごくたまにおられるかもしれないが、そうではなく、生涯を独身で働かれる人々が現実におられることを考え合わせると、ましてやキリストはと思う。キリストは歳をとる前に死なれたので、歳をとるとまた違った教えになったかもしれないと聞いたこともあるが、私にはよくわからない。ただ、私の主治医などは、ご自分の歳とった父親についてとてもよく理解があられると思う。これもまた人間的な想像力の賜物だろうか。ここまでお付き合いくださってありがとうございます。

お詫び

 突然、google+を止めて、申し訳ないと思っている。自分がそういう目にあって初めて気づいた。すみませんでした。悪い意味での自尊心のなさが、人様からのご好意を踏みにじる結果をもたらしたのかもしれない。自分のことはわからないものだ。私もある人が、突然止められて、がっくりきたのだった。やはりたかがSNS、されどSNSである。なんの予告もなく、突然止めるのはどうかな、である。予告らしきものはしていたと言えばしていたが、あるときパッと止めた。ご厚情を受けながら裏切った形になったことを、申し訳なく思います。果たしてご厚情をいただいていたのだろうか。私は知人友人が極端に少ない。それでSNSのような場でも知らない方々がほとんどである。私は腹を割って話すということがない。現実に存じ上げている方からは「もうちょっと胸襟を開いてくれたらね」と言われたことがある。コミュニケーション力ゼロに近い私だから、知り合って間もないお年上の方からそう言われたことは、なにかこそばゆいような思いがしたが、普通人はそうするものなのだろうかと、自分の常識との違いを思い知ったことだった。

 良き知人友人は数は少なくてもいるのだが、それに一地方都市ではあるが、この地ではそうそうたるメンバーの同人誌にも会員として、書き手として加わっているが、この人々は何処の馬の骨ともわからない私のようなものを受け入れてくださった。またカトリック教会でも、私のようなものでも受け入れられている。教会関係ではこの地の教会は大きいので、特別に親しい人はほとんどいないが、今、病の床に臥しておられるシスターと神父様のおかげで、カトリック者になることができた。わたしがいいものだったからではもちろんなく、小さなものだったからである。私を助けてくださった方々は、ことごとくお歳を召されて弱ってきておられる。私は最近、自分の顔を見て、つくづく歳をとったなと思う。私より歳上の恩人達が、お歳なわけである。でもまだまだ皆さん頑張ってくださると信じている。

 私がしていただいたように、人様にしてあげられるだろうか。どうも自信がない。けれども、最近は悪い意味での自尊心のなさから解放されつつある。自分自身を見たらみすぼらしいかもしれないが、こんな私でも受け入れられている事実をお伝えしたくて、人様をお誘いしようという気がしている。そして、私ではなくて背後におられる大いなる方を知っていただきたいのだ。どうも、私はお金には縁がなさそうだが、家族間でいろいろと助けられている。ささやかなお金は入ってくる。お金がなかろうが、あろうが、私は書くことは止めないと思うが、この世界は締め切りあってしかるべきもののようで、私のように用意の良すぎるものはどうもいけないようだ。でも人はそれぞれだ。人様のケースが自分に当てはまるかどうかはわからない。

 google+を止めたことから話は逸れたが、承認餓鬼道は自己評価が低く自尊心高いものが陥るから、人から認められれば自尊心に満足が行くから釣り合い取れるかも、という文言もあったが、私は自尊心が低いのではなくて、自己評価が低いのだろうか。そうかもしれない。それとも自己評価が高すぎるのだろうか。でも自尊心は高いとは思えない。卑屈だから自尊心が高いのだろうか。どっちにしても笑える文言だが、自分を笑えるようになったらそれはそれでいいだろう。あっさり承認はいただけなかったが、さもありなんである。やはり、SNSとはいえ実際に知っている人、信用の置ける人としか付き合わないのが普通かもしれない。私などは実際に知っている人からも、承認がいただけなかったりするのだから。よっぽど信用のないものなのだろう。でもそうとばかりも言えないところはある。メッセージは受けとられているからだ。

 google+が懐かしい気もする。だがもうこうなった以上、過去のことは過去のことなのだ。google+でメールをくださっていた方々、申し訳有りません。でも日に何通と送ってくる人が、あるとき不意に「お久しぶりです」などとのたまうこともあった。だからgoogleはわからないのだ。こうやって恥をさらす私は馬鹿者かもしれないが、フェイスブックの基本情報を見ると、ブログのことも書いてある。私が書いたという記憶はうっすらとある。2014年の1月以降のことのようだ。新しいブログを書き始めたのがこの頃だからだ。2013年のことはよくわからない。2013年のことはなにもかもわからない。そんな中で始めたgoogle+だったが、いろいろとありがとうございました。行き届かないもので、申し訳ありませんでした。ここまでおつきあいくださってありがとうございました。

SNSの両義性

 二転三転するが、フェイスブックは続けることにした。それというもの、ネットはもともとあやふやなものでありながら、しっかりしているところはしっかりしているからだ。確かに開設した覚えはないが、2013年以後のことはなんとか記憶を辿ることができる。しかも、書き込んだことが微妙に違っていたことも覚えている。その頃は誰と繋がろうと思ってしたことではない。2014年になると繋がりたい人が出てきた。友達リクエストも送っているようだ。google +では、40人ばかりは私宛にメールを送ってくださる方々がいらっしった。フェイスブックではそのようなことはない。ただスレッドが立っているだけである。メッセージを送ったこともあったけれど、どんな風に届いているのかよくわからない。その後、フェイスブックからブラックベリーにお知らせが届くことはない。google +では、私はどうもセンターになっていたようだった。私はそれが負担になっていた。やはりネットは軽やかでないと続かない。ブログも、ときどきお人の書いたものも覗くことはあっても、一人でやっているから気が楽である。

 ブログも私の書いたものは話題にもならないようだが、結構読まれているかもしれない。マリーゴールド云々という文言で、0.33秒ごとに10数万件の検索数のトップにきている。トップ3は私のブログで占められている。学術論文が多く引用されているものほど、いい論文であるというのと似ている。ただ私のは学術ではないので、人々の慰めにでもなるといいなと思っている。今、今季初めての焼き芋屋さんの売り声がした。と思ったら、何かの軋む音だったようだ。家人の知人から梨が送られてきた。みずみずしく、美味しい梨である。もうそういう季節である。夏は確実に過ぎた。私の人生の夏も確実に過ぎた。今気づいたが、はてな今週のお題は「結婚を決めた理由」だと書いてある。今までの私には無縁のことである。人生の秋を迎えた者が、結婚についてなにがしかのことが言えるだろうか。普通なら孫の話をしてもおかしくない年齢である。家の親には孫がいない。子であるものが一人前ではないことで、親までが一人前扱いされない。それはとても心痛むことだが、こればかりはどうしようもない。最近まで人とのつながりを重視してこなかった。google+でお近づきになれた人々とも、私がやめたことによって、途切れてしまった。幾つものSNSを股に架けている人々もあったが。私はとてもそんなに行動的ではない。

 ネット上、行動的であるということは、リアルでも行動的であるようだ。「マリーゴールドの現実」では、私は今後結婚するかもしれないようなことを仄めかしてきたが、実はよく分からない。「マリーゴールドの幻惑」時代には考えの端にも入れていなかったことだった。考えたことはあったが、実現するとは思えなかったし、現に実現しなかった。その頃とは違った文脈で、今は可能かとも思えるが、こればかりは相手あってのことだからよくわからない。今まで、はてなのお題に付き合ったことはなかったが、今回初めて付き合ってしまった。500文字づつなら、2000字で4段階に分けることができる。いわゆる、起承転結である。3段目で話を転じようと思ったところで、こうなってしまった。行動的云々をしようと思っていた。書くことも行動であるから、結婚も十分に行動といえるだろう。私の結婚以外に2組のカップルを予定している。これは以前書いたかもしれない。全部で6人の私どもは相手のことを知っているようで知らない。知らないようで知っている。ネットも少し絡んでいる。ここで、これらは妄想かもしれないと書いたら、いかが思われるだろうか。

 そこでSNSであるが、これが案外、曲者だ。フェイスブックに誘うおうとしたら、その者は google+に行ってしまった。google+でも関われるようになったかと思ったら、負担に感じていたので、フェイスブックを覗くと、その人がいた。その人は今度は、驚いて逃げた。それで不承不承ながら、google +を続けた。その後、そこでの共有をやめてくれたので、心置きなくそこを退出することができた。フェイスブックも頓挫しかけたが、その人の存在があったので、続けることが可能になった。でもこのような一連のことは、頭の中をぐるぐるしているだけのことかもしれない。ところでフェイスブックで居住地などにチェックインの数が出てくるが、私はそれを気にし過ぎるきらいがある。google +のときも数にこだわった。貧乏くじを引いたと思っても、後々の幸運にもなる場合があるらしい。私を選んだ人は貧乏くじを引いたかもしれないが、後々の幸運につながるといいなと思っている。SNS上で書いたことが、確実に伝わってきていることを鑑みると、ひょっとして妄想ではないかもしれないと思い始めている。

 素直に起承転結とは行かないで破格とする。なんと、妄想だと思っていることが、真実だと思っている部分もあると伝えると、却って喜ばれたりもするようである。私は危ない橋を渡っているのだろうか。両義性あると言ったらいいか、興奮にも鎮静にも、幻惑にも現実にも、その両方に引っ張られながらおたおたと歩いている。去年の冬、来年も変わらないだろうかと思っていた。変わらないようで変わってきた。フェイスブックを長らく休んでいたようなその人は、最近動き始めた。私に見えないだけだろうか。そうかもしれない。しかしメッセージは伝わっているようだ。用件を書くと、反応がある。来年もこのまま冬を迎えるかもしれない。その可能性は大きい。しかし真実は小さなものであろうか。私はお付き合いということをしたことがない。その割には作品中にはよく書くが、自分に経験がなくても、本は読んできたし、テレビや映画も観てきた。ロマンチストなのかもしれないが、だから小説を書いているのだろう。私は結婚した男女の結婚生活を書いたことも何度かある。恋愛だけでなくである。想像は未経験だから想像と言えるのかもしれない。それが創造に成るにはなにがしかの感動が必要かもしれない。感動の種はあるようでなく、ないようである。日々の変化を微かに感じながら、生きてゆくのもまたいいかもしれない。ここまでお付き合い下さってありがとうございました。

インターネットはドストエフスキーを超えられるか

 google+だけではなく、フェイスブックもしばらくしたら、やめる方向で考えている。フェイスブック上で至らぬことを書いてしまったからでもあるが、どうもフェイスブックは自分で開設した覚えがないから、便乗は良くないだろうと思ってのことでもある。アカウントやパスワードを知らないから、消せないものもある。消せるもので消していないものもあるが、それはお礼のしるしである。基本情報を書き込んだ記憶はある。しかし私が書き込んだ通りではない部分もあったようである。しかしそれは、開設した人と直接関係はないかもしれない。私の思い違いかもしれない。基本情報を書いたということは開設したということなのだろうか。でもどうやってフェイスブックにたどり着いたのだろうか。今回開いてから初めて知った、自分のアドレスもあった。しかもそれは、フェイスブックというより私のブラックベリーの方に入ってくるアドレスである。@の後ろはfacebook.comとなっているが、ブラックベリーに入る。そういうものなのだろうか。私には訳がわからない。

 ブログを書いている人はフェイスブックTwitterやらをやっている人が多いようだ。私のようにパソコンに疎い人はあまりいないようだ。私は最低限のことしかできない。ここも、案外読まれているようでありながら、SNSでとり上げられることもないようだ。0なのだ。私はどうも蚊帳の外にされているようだ。私は人付き合いが悪いから、友人知人が滅法少ない。そう言いながらお年を召した知人が多いから、パソコンでやりとりすることはない。携帯でごくたまに電話したりメールしたりするぐらいである。そういえばパソコンユーザーもいらっしゃるから、以前、ブログ読みましたと言ってくださった方もあった。私は人に気を置かせるから、パソコンで付き合ってくれる人はいない。「マリーゴールドの幻惑」はとても恥ずかしいものだった。それに「マリーゴールドの現実」はもっと恥ずかしい。なにやら妄言ばかりである。

 学生時代の友人は、忙しい人だったりする。また、主婦の友人は遠くに住んでいるから、年賀状や暑中お見舞いでの繋がりだ。暑中お見舞いで、作品の講評をしてくれたりする。それに、ある遠くの知人とは携帯のショートメールのやり取りをするぐらいだ。先日彼女からメールがあったとき、電話をすればよかったのかもしれない。私はショートメールでお返事した。2、3回、やりとりした。やはり時間はありそうだったので、電話の方がよかったかもしれない。でも私は電話にはあまり自信がない。うまいことしゃべれないからだ。でもメールも時間がかかる。若い人のように片手でメールを打つことなどできない。私はまだガラケーを使っている。スマホに切り替える予定はない。世の中から携帯が消えたら、そのときには考えるかもしれない。あと二人とは絶交状態だ。

 フェイスブックで至らぬことを書いたのは、絶交している二人のうち一人についてである。詫状を出さねばならない。彼女は怒るだろう。今よりもっと疎遠になるかもしれない。しかしけじめはつけねばならない。このように現実で繋がりがあるまたは絶交しているという仲はありながら、パソコン上で付き合いはしない。若しくはネット上で繋がることはない。私のような寂しい者は、SNSで付き合ってくれる人も滅多にいない。知らない人に友達になってくれとリクエストしたって、そう簡単に認められるわけがない。やはり実際会ったことのある人と、本当の友人関係の人のみとやりとりする人が多いのだろう。私のフェイスブック上の起点になっている所へのチェックインは減ってきているようだ。考えてみると当たり前だが。

 私は人への尊敬の念が足りないのかもしれない。もちろん私自身、尊敬されるような者ではない。私の知人友人は立派な人々である。それでも私はシニカルな思いを持ったりする。それに私はネットで人との繋がりをそれほど求めてはいない。ある数少ない人々との交信を望んでいる。しかし、その人々とは交信できないのだ。リアルと携帯メールの狭間で揺れ動く私であるが、私は旧世代に属するのかもしれない。私の親は80歳代で、携帯電話を操るが、それも子供がいるからできるのだ。そばに子供がいなければ、80歳代で携帯を扱うのは難しだろう。情報貧者にならないように、パソコンを使ってきた者であるが、それでも私は情報貧者である。今の所、世の中で起きていることは、テレビ、ラジオで知っている。ネットとさほどのスピードの違いはない。放送局は放送局でネットを取り込んでいる。ネットも放送局は無視できないだろう。私はお金を払ってまで、通信社や新聞社の読者にはなれないので、読めるところは限られている。ほんのさわりの部分だけ読める。

 一体、google+フェイスブックにそれほどの期待がかけられるものだろうか。それもまた人の営みの一つであろうが、私にとってはやはりそれほどの期待は持てないもののようである。私にとってネットはドストエフスキー以上のものではない。このところ「悪霊」を読んでいて、昨日読了したのだが、ネットに書き込んで危機を知らせても、死んで行かれる方々はいらっしゃる。いや「悪霊」の中身を知っている人にはお分かりだろうが、ネットがあろうがなかろうが、知られるものは知られるし、口外してしまうことはあり得るのだ。始め、ドストエフスキーの作品の中身は、現代だったら即、DNA鑑定でもって、あるいは科学技術によってすぐに判明するだろうがなどと感じて読んでしまうが、あの時代だって、判明することは判明するという宿命にある。ネットや防犯カメラがどれほどの犯罪の抑止につながるだろうか。起こるものは起こる。やはりインターネットが軍事から生まれたものであるだけに、と言ってもインターネットは最初の民生のものの技術だと言われていたが、その後やはり軍事のものだったことは知られている。軍事は技術の温床だ。なんだか悲しい。私などはインターネットの本質は知らないが、その恩恵には浴している。このようなものを書いては、恥を書き散らしているが、なんのために書いているのだろうか。私の中ではある思いはあるが、それを書くほどのことはない。

 ここまでお付き合いくださってありがとうございます。

書くしかない

 気になっている人の意向が知れないということは、悲しいことである。おそらく皆さんは、そんなことは簡単なことだと思われるだろう。直接、会って聞けばいいじゃないかと思われるかもしれない。しかし世の中には、面と向かっては言えないことが多くあるものだ。その人情の機微をお感じになられるだろうか。特に私は引っ込み思案である。

 そういえば、最近私はgoogle +というSNSを止めて、フェイスブックに切り替えた。ここはいつでも止められるなと思う。開設したのは、私自身ではないし、人が開設したものの上に便乗しただけであるから。「⚪️⚪️さんはフェイスブックに登録されています」という言葉が不意に出てきて、その⚪️⚪️さんは私の名前なのであるが、いつの間にかフェイスブックに登録したことになっていた。だからいつでも止められる。SNSというものは軽やかでありたいものだ。1日に30分ぐらいで済ませたいものだ。バスに乗っても電車に乗っても歩いていても、スマホに夢中な人はいるものだが、私はその気が知れない。私の場合はパソコン一本槍なのだが、携帯電話から写真をパソコンに送るのには、お金がかかる。気になっている人のためだけに、今まで1日に2時間ぐらいは時間を割いてきた。しかしそれも終わった。以前携帯電話から送っていた写真を、プロフィール写真にした。google+と同じものだ。呆れられるだろうか。私は平気である。大体、私はSNSがどうやってお金儲けができているのかさえ知らない。

 ネットというものは不確かなようで、雄弁でもある。雄弁さに頼って現実世界では言えないことも、書き込んだりする。つまり、面と向かっては言えないようなことも、SNSを通じて伝えることができるというのである。暴言はいけないが。しかし、インターネット上でストーカーまがいをやらかすことはあり得る。私自身がであるが、人様からそのようなことをされたことはない。ネットというものは通じていないようで通じていることがある。私がSNSが負担に感じていることを察した気になる人は、即刻共有を止めてくれた。気になる人の共有あったればこそのそれであったから、私は今まで引きずってきた。私は書けば長々なる者だから、何十行と書いては毎日2、3回は送信していた。

 気になる人の共有がやんだので、即刻google+を止めたが、フェイスブックは気になる人の箇所を見ることができるので、そちらにした。しかし、交信はない。だから、気になる人の意向が知れずに、悲しいのである。フェイスブックの私の箇所には誰一人書き込みはしない。一人で書いているだけの寂しいものである。しかし73800人ほどの人がチェックインしている。あまりに馬鹿げているから、言葉の一つもないのだろうか。大体、知り合いが殆どいない状態だから、当たり前だろうか。

 お恥ずかしい話であるが、私は大概のことについてお金がどれくらいかかるかということが気になる。いつも経済が逼迫している状態なので、お金の問題は切実なのである。今まで家族にしか借金したことはないが、お金を貸してもらえるほどの者でもない。昨晩も、同人の人からお電話を頂いたときに、いつもの考え方の癖で、お金のかかるかからないの問題じゃないのに、そう受けっとってしまい、恥をかいた。

 経済は逼迫し、投稿作品も選に漏れるだろうと予測される。おまけに失恋までしそうである。文学賞の世界もやはりコネなのか。この間、同人の人がそう言っていた。私は今までコネというコネがなかったために、仕事も見つからなかった。なんにしてもコネはない。実力があったら怖いものはないさあ、と言えるといいのだが。今期はともかく、この数年芥川賞は不振だった。これが芥川賞かというのが案外あった。私は文藝春秋で2、3読んだだけであるし、1作以外は読み通しもしていない。いや、読んでいないから言いようもないのだが。

 人様の作品がなかなか読めないということは、自分に過信があるからであろうか。謙虚になって読むことが必要だ。やはり人様の作品からは何か教えてもらうという態度が必要なのだろう。最も私に欠けていることである。私のような小人に限って、そういうものだろう。そして、自分に正直ではないから、恋もできない。それに、もうそういう歳でもない。知人は、幾つになってもときめきがあるというのはいいことだと言ってくれたが。結婚詐欺のような経験を何度も繰り返しながら、それでもその人が慕われる。それが嘘でなければいいのだがと思っているものの、非現実的ではある。

 今から、11月、12月というのは長い日々になることだろう。私は文学賞の選に漏れるだろう。神様にしかコネがない。神様の喜ばれないようなものを書いた。所詮、無理である。ああ、無い無い尽くしは本当だ。何もないから書くしかないし、失恋したら書くしかない。失恋と言っても、皆さんはどのようなものを想像なさるだろうか。多分、泥沼のような恋愛模様を想像されるのではないだろうか。私の恋愛はネット上にしかないのである。面と向かっては何一つ言えない。いや、言ってきた。書いてきた。気持ちは表してきた。やはり実らぬ恋なのだろう。ああ、悲しい。いつも知らんぷりされるということは、やはり相手にその気がないからだろう。私は女一人で右往左往している女なのだろう。最前線じゃないか。書くことはたっぷりあるようだ。私は8月生まれで、ペリドットが誕生石である。その言葉は「夫婦の幸福」と言うそうだ。一番私から遠いものである。一人前にはなれない私だが、現今、未婚率が高くなってきている。自治体では婚活を促進したりもしているようだが、やめてもらいたい。私の書く小説の、シェアを奪わないでもらいたい。結婚できない人の増加は、私の仲間の増加であり、私の小説の読み手の増加につながるかもしれない。しかし、地方の一同人誌では目にも止まらないだろうか。選に漏れても、漏れなくても、結婚してもしないでも、私は書くしかない。自分を引き摺り出すようにして書くように、指導していただいた。今こそその時なのかもしれない。いつもなにがしかの不安定の中に自分を追い込むことが必要なのかもしれない。それしかない。ここまでお付き合いくださってありがとうございました。