マリーゴールドの現実

「幻惑」から「現実」へ

最後の10年

 投稿を控えておりますが、今日はちょっと気分が楽なので書いております。とはいえ闇雲に書き始めているので、着地点などまるっきり見えません。大学の先生の秘書(と言えば聞こえはいいが)をやっていたことがありましたが、その先生は「雲をつかむような話」という表現がお好きでした。実際、研究生活で、そのような感覚を持たれることもままあったのだと思われます。その先生はよく私にグラフを書かせなさいましたが、決してよくできたグラフではなかったと思われますが、私が書いてお渡しすると、にっこり笑ってご覧になっておられました。奥様のご実家が洋品店をなさっていて、私は綺麗なハンカチをたくさんいただきました。朝、研究室に行くと挨拶をいたしますが、キャンパスで出会っても、知らんぷりで通り過ぎる方でした。でも律儀な方で年賀状は必ずいただきました。それも私がそこを辞めてから、年賀状を出さなくなっても、先生からはかなりの期間年賀状をいただきました。その頃の私は、今でもそうですが、不躾なやつでしたから、返事も出しませんでしたが。今では申し訳ないことしたなと、思い返したりしますが、もう遅いです。

 その先生は経済学の方面からの統計学の研究者でした。それで数学の方面からの統計学の先生もご紹介くださり、その二箇所で働いておりました。数学の先生は、他方で被差別部落、同和関係のお仕事もなさっておられました。時々その関係の別の教授や関係者が訪れました。それで何の関係だったか忘れましたが、そこで戦争体験の話をテープに録音したのを興す作業をいたしました。いたしましたとはいえないのですが、とてもじゃないけれど文字にすることはできませんでした。爆撃の音とかが主だったので、擬声語や擬態語が殆どで、またこてこての方言でして、私は方言が恥ずかしい年頃でしたし、仕事になりませんでした。でも、蔵書の整理はあっという間に済ませてしまいました。先生は整理に手をつけられないでいらしたのですが、私は表題の中に件名的言辞を探してから類別してちゃっちゃと済ませてしまいました。司書資格を取ったのはもっとずっと後でしたが、司書的才能は双葉より老いてはいましたが、芳しかったと思っています。

 このお二人の先生方やその周辺は、人物造形や細部に利用させていただこうと思っていますが、すでに利用したこともあるのですが、そこは教養部だったので、学部や、大学院の教授連がどのようであるかは、よくわかりません。自分の卒業した短大では、私は一年留年し、同時に入学した人が三年目から補助員になって日本文学科の仕事をしておりましたが、彼女も私が知った顔だったので、気安くしておりましたが、彼女は勤めてみるとドロドロした人間関係にうんざりするよと言っていて、学生時代の綺麗な印象を持って卒業していった方がいいよとも言っていました。そういうわけで学生で過ごした大学と、勤めてみて知った大学とではずいぶん違うのかなと思っていました。私は秘書でしたが、大学の内部を知ったとは言えないでしょう。のちに知り合った人が、彼女の大学のある教授の秘書は愛人も兼ねていたと、言っていて、そんなこともあるのかと、自分の経験の薄さを思い知らされました。

 小学生の頃将来、作家になりたいとうっすら思ったことはありましたが、成績は芳しくなかったしずっと忘れたように過ごしておりました。私は今も作家ではありませんが、小説まがいは書いており、西九州文学41号作には秘書をした時の経験が少しだけ生かされていますが、国立大学というところは大体あんな感じかと思い込んでおり、頑固にそう書いております。そういえば、私は秘書だけでなく司書としても大学、短大で働いたことが多いのですが、これは村上春樹の影響ではありません。村上春樹公共図書館を書くことが多いようですが、私は大学、短大図書館です。村上春樹なんか絶対読まないぞと思ってきましたが、ここ1年ぐらいで読み始めました。あの頃から村上春樹を読んでいたら、私は自分が書くなんてことはしなかったかもしれません。怖いもの知らずというのは、困ったものです。今は読んでも、もう書き始めたことだし、私は私だという思いもあり、下手の横好きを自認しておりますが、心臓に毛でも生えているのでしょうか。この間ひさびさに心電図をとりましたが、何の異常もありませんでした。コレステロール値は高くなってきておりますが、少しの運動で改善される範囲ですので、本当に少しの運動で済まそうと思っております。でも、コレステロール値が高くなってくると、何かの病気で死ぬことができる可能性があります。私は癌ぐらいしか心配のない年月が長かったのですが、二人に一人がかかる確率の癌ですから、なってもおかしくないし、死因がそれでも構わないと思っています。自分が死ぬことを考えないというのは、私としては考えられないことですが、今を生きる姿勢に欠けているのかもしれません。星野仙一氏の死のご様態は羨ましい限りですが、私は認知症にかかる確率が高いと思います。70歳までには死ねるようにお祈りしています。あと10年です。10年て短いでしょうね。私の生きてきたその訳はこの10年にかかっています。それではまた。

世界の小ささ

 グダグダと面白くない、つまらないと言って読まず嫌いしていたら、ある方々から叱咤されました。いえ、大声ではないのですけどね。叱られるということは、気持ちのいいものです。大人になったら叱ってくれる人などそうそういません。これで読書の方も弾みがつきました。長くかかりそうですが、最近買った新書にも手をつけ始めました。

 スポーツシャツを買ってきたので、こまめに着替えようと思います。そういえば、スポーツシャツを買ってきてこまめに着替えようと思うほどの収入もなかったので、少し考えを変えました。今まで家の中にいることが多くて、お店で買い物をしようなどという気が起きませんでした。お店では手頃な価格でいろんな品があります。通販に頼っていると、思いのほか高くつきます。

 服なんて消耗品の側面もありますから、傷んできたら替えればいいわけですよね。もちろんサイズが合わなくなったものなどは、バザーに出したりはしましたが、着潰したら替えるという頭があまりありませんでした。新陳代謝は自然の理ですね。自分という存在も取って代わられるのだと思います。人間も死にゆく身ですから、去る者は日々に疎しで、後世まで名を馳せる人なんてほんの一握りですね。

 子供もいないので後世のことを考えるということは、具体的にはしませんが、何百年先の人々のことを考えて、植林したりすることもあるようですが、そういうお仕事は尊いなと思いますが、自分の関わりでは、何事か書いても、メジャーの世界を見ていても思うことですが、次々と現れては消える運命にあるものが多くて、虚しいようでいて、こう次から次と代替されると、おかしくなるくらいです。

 マイナーの私の書いたものは、図書館の奥深くに並んでいますが、殆ど手に取る人はいないでしょう。でも百人ぐらいからは読まれているのではないかと思います。もちろん少ないですが、確実に読まれていると思います。それでもすぐに忘れ去られます。私は業が深いのかもしれませんが、あまり人々の記憶に残る残らないで書いているよりも、ただ自分の法則に従って書き続けることにしようと思います。

 人間、何かやって生きているわけですし、その何かを取り上げたり否定することもないと思うのですよね。それで思うのですが、美空ひばりの歌に「人は可愛い、可愛いものですね」とありますが、まさにそういった感じで、物事を眺めたいと思っています。メジャーであれマイナーであれ、障碍のあるなしであれ、あまり二項対立で考える必要もないかなと思ったりしています。

 そんなに変えてしまったら私の詩じゃなくなるというご不満はごもっともです。今回編集に携わっていて、伝わってきたところですが、本当の詩人はどこが変わったのかとわからないような直し方をなさいます。私のような偽物は、明らかに違ったものを提示します。ご本人の性質を大切になさるからわからないのですが、私のようなのはバサバサと切り捨てます。どんどんご不満を並べて、書き直してみてください。

 詩の編集は初めてに近かったので、面食らいましたが、詩人の方が直すその直しを見て、教えられました。身につくものではないかもしれませんが、詩の世界の楽しさを垣間見させていただきました。自分では書けないでしょうが、人の褌で相撲を取るってこういうことかなと思いました。私たちはプロの集団ではありませんが、それなりにといったところです。ここまでお付き合いくださってありがとうございました。

書くことへの疑い

 「寂しさの徒然に」と題しようかと思ったが、徒然はともかく、寂しくはないなと思った。本来私は客観的には寂しいと思われる者である。だが今は寂しくない。寂しい時もあった。これから先寂しいと感じる時も来るだろう。だが今は寂しくない。客観的に見たら寂しいだろうにと思われるだろうが。「寂しさの徒然に」は井上陽水の歌の歌詞である。私はこの方のヤバさが好きである。ちょっと失礼な言い方かもしれないが。ロバート・キャンベルさんが井上陽水の歌詞を英訳しておられるという記事も見たことがある。リービ英雄が「万葉集」を英訳していたが、その新書は部屋のどこかにあるが、まともに目を通していない。私は日本語すらまともでないから、いわんや英語をやである。先日、面白そうな新書を3冊ばかり購入したが、それは机上にあるものの、読まれる気配は一向にない。私は読むべき本に囲まれているのだが、どれから手をつけるべきか迷っている。手をつけても読み通せないことは多い。

 私の書くものは炎上とは無縁だろう。よし炎上していたとしても、私は知らない。どこかで炎上していても知らないことが多い。パソコンを持っていても情報貧者である。それだけ頭が悪いということだろう。義務で読むべき文章は、なんとか読んだ。義務ではない文章は、面白そうでも読めない。面白そうでも、というところが肝腎である。本が多すぎるのである。それなのに自分も屋上屋を築くようなことをしている。こんなに本があってもしょうがないと思う。私のようなマイナーリーガーは思う、これ以上書いていいものかどうか。しかし書く。なんの意味があるのだろうか。あるいはメジャーの人でも思うことかもしれないが。いや、思わなければおかしいと思う。「ヨハネ伝」の終わりにはイエスのなさったことをすべて書くなら万巻の書があっても書き尽くせないだろう、というような文言がある。似て非なることだが、万巻の書を誰が読み通せるだろうか。読み通す人は世の中に3人ぐらいじゃないだろうか。

 知識の共有もできないで、どうするのだろうか。共有の意味が少しわかるようなことであるが。何十年来、読まなきゃと思っている書物はいくらもある。しかし、今はこれを読まねばならない。それは後でと、純粋に楽しみとしてある本は、先を越されてしまう。この分で行くと、いい本は読めずに終わるかもしれない。下手の横好き、私自身もそうだが、そういったつまらぬ作ばかりに目を通すことになるやもしれぬ。私のようなのが編集の片棒を担いでいるが、自分のも含めて、下手な作ばかりに目を通すことになるのかもしれない。人様にもそれを強要することになっているのかもしれない。しかしマイナーリーガーにもいいところはあるのである。自慢話は書きようによっては面白くもなる。佳い作というのは遠大なる自慢話ではないか、直接、間接はあるが。書くこと自体で自分の存在を確固たるものとしようという意図がある。

 詩は比較的短いからその欲求が少なく感じられる。度肝を抜くような詩だと、そうでもないかもしれないが。「詩」と言ったら聖書の詩篇だが、あれこそ有っていい詩である。150篇の中には終わりの方は神を讃える詩篇ばかりである。旧、新約聖書は、神について、イエスについて書かれてあるが、そしてその言葉自体が神なのだが、それこそ有っていい本である。私などはなくてもいいものを吐き出しているのかもしれない。ぽかんとして書いているのはどうかと思う。当たり前のように書いているのはどうかと思う。抗儒焚書を云々しているわけではない。書くことへのたゆたい、ためらい、そういったものがなければ、あまり意味はないかもしれない。それでも古代の作から現代の作に至るまで、新しいものはないと断言するのが聖書である。作だけではない、事象全てがそうなのだ。新しいものはないのである。それなのにまだ書くのである。虚無的なぐらいにそう書いてある。

 新約聖書の時代からも2千年が経った。古い書になった。中国などに比べたら、日本の歴史や文学の日は浅いが、それでもアメリカ文学などよりは長く、優れた作も多い。女性の書いた日記文学などは立派なものである。日記文学のはじめは紀貫之だが、その後の女流は目を見張るものがある。意識的に書いている。それが大切だと思う。「蜻蛉日記」「和泉式部日記」などは意識的である。「源氏物語」は筆が立つだけに、却って披露している感がある。「枕草子」になると書かれる意味はあっても、存在意義までは問わない気がする。あの立派な作品群を前にして、私ごときがまだ何か書くことがあるだろうか。私は書き続けて良いのだろうか。現実生活で私はいないように生きてきた。その私は書くことだけに意義を見出していたが、それも疑われるとなると、どうしたらいいものか迷ってしまう。私は庶民の書くものというつもりで書こうと試みた。私は社会性というものにも疑いを持ち始めてきた。社会性だけでは存在理由は問えない気がする。途中だがここまでお付き合いくださってありがとうございました。

 

何する人ぞ

 つくづく私は稼げないようになっている。在宅OKパソコン、スマホでできる仕事を探して、もちろんスマホは格安スマホを使っているくらいだからできないし、当然パソコンを考えていた。するとMacOSは使えないことが判明した。日曜日の午後ぐらいしかできないなと思いながら、内村鑑三の「余は如何にしてキリスト信徒となりしか」をお読みになった人ならおわかりのように、日曜日は大体働かないことになっている。しかし聖書にはイエス安息日にも働かれたことが記してある。人の子は安息日の主でもあると言われたりしている。それで意を強くして、日曜日の午後でもいいじゃないかと、小遣い稼ぎを考えた。そんなことが頭の中を去来した。しかしMacOSは使えなかった。スマホも使えない。つくづく私はお金に縁がないらしい。

 その過程でいろいろと世間を見ることができた。そのいちいちは書かないが、あの人たちはこうやって、とか、思い当たる節があった。最近、副業を認める会社が出てきた。副業、バイトと喧しいが、あの人たちはこういう流れでやってきていたのだと、長年の疑問が解けたりした。それにしても何をやるにも関東地方は有利である。特に東京は。私の在住している長崎県は、人口流出の激しいところである。その求人状況を見てみると、ああ、これは出て行かざるを得ないなと、残念だが見てしまった。そういえば今日は県知事選挙日だった。私は期日前投票で済ませていた。有効求人倍率は上がったというが、実際のところは職業選択の自由は奪われていると言っても過言ではないだろう。そんなことは以前からだったが、安倍さんが経済に喝を入れて、景気は良くなったと言われているものの、悪くなったとは言わないまでも、あまり変わりはないようである。マスコミには要望するが、現実をよく見て、から騒ぎはしないでもらいたい。

 今のところ私にはお金にならなくてもやるべきことがある。これは自分に課していることだから、お金にならないことは承知の上でやっている。アンチ副業の私だが、同人を退かれたご高齢の方が年賀状にゆったりした年にしたいものですと書いてこられた。聞屋さん上がりのこの方は、定年退職後、同人誌の編集長をされていた時期があった。書くこともされていたので、趣味とはいえ、なかなか責任あるお立場だった。ゆったりした年にしたいとは、ご本心だろう。今はスーパー主婦の方々が編集をなさっている。40号から私も編集のお手伝いをしているが、とても彼女らの忙しさには及びもつかないのに、編集量は少なくしてもらっている。だからお手伝いなのである。私は書くことの方に力点を置きたい。しかし会員だった以前とは違って、同人になるとなんらかの働きをしなければならない。編集以外にもやることはあるが、それは年に2週間もあればできる。それは外回りの仕事である。私の苦手とするような分野だが、売れてくれなければ次からは断られることになる。

 「西九州文学」と申します。これを以前G+で繋がっていた方が一冊買ってくださった。しかし今私はG+で不義理をしているから、その方もうんざりしているだろう。それにしても、同人誌を売り込むためにSNSを始めたのではなかった。ある一人の人と繋がりたいだけで始めたことだった。ブログは別だが。Twitterもあまり関係ない。フェイスブックもマメにやらないし、いろいろと機能も壊れてはいるが、付き合い悪い私である。その一人の人とは決して繋がることはできない。どうであれ繋がれないことは繋がれない。羽をもがれた鳥のようだから、フェイスブックでも飛べないだろう。Twitterはほぼ傍観状態である。滅多につぶやかないし、つぶやいても何の波紋もないに等しい。全くではないが。気の利いたことの一つもつぶやけない。私はいろいろと不義理を働く。矛盾撞着という言葉は私のためにあるようなものである。

 しかし物事は変化してゆく。どうせなら宣伝もやっちまうかとか、人助けもしようかとか、それが本当に助けになったかどうかはともかく、状況は変わる。何もやらないよりはマシなのかどうかもよくわからない。私はブログを書く時間帯が、よく昼ご飯を作らねばならない時間帯だったり、夕食を作らねばならない時間帯だったりにかかることが多い。今も夕食は家族の誰かが作っているだろう。そしてもうすぐご飯だと知らせがくるだろう。書き出したからには書き終わらねばならない。始めと終わりが綺麗な円弧を結ぶようだといいのだが、私はどうも歪なものになりそうだ。私という者は、生まれてからこのかた、成功するという体験がほぼない。何かを待ち望みながら挑みはするが成功とは縁遠い。永遠にそうなのだろうか。自分でも訳のわからぬことをやっているが、成功したと言える人は1%にも満たないのかもしれない。人のことはいいのだが、私自身はこの状態を続けることができるのだろうか。1%の人を支えている者の一人だと考えることにしようか。何をもって成功というのかは、自分の中にしかない気がする。もしも何かの賞をもらったとしても、その先があるのだ。永遠に運動しはしない。いずれ死が訪れる。パウロのように言えるだろうか。それが問題だ。ここまでお付き合いくださってありがとうございました。

「夢千代日記」に行き着いた

 年が改まって初旬も過ぎようとしている。初旬である間に一つぐらい書いておこうと思う。主題はない。本当なら、小説まがいを書き始めねばならないのだが、書くことが溢れかえるような質じゃないので、少し端緒が得られたら書き始めることにする。実はある人から「数年かけてじっくり温めた構想を大長編に仕上げる意気込みで挑戦しましょう」というお言葉をいただいているのだが、あと十年しか生きる予定がないので、数年というのは長すぎる年月である。普通、並行して書くことをなさるのかもしれないが、私はなかなかそういう器用なことはできない。書き急ぐことはするまいと思うようになったが、それも途中から崩れ出すこともある。去年は八日に親戚の家に行って、十日ぐらいから書き始めた気がするが、書き急いでしまった。長編にするつもりだったが、短編で終わってしまった。長い梗概を読んでいるような気分だという感想もいただいた。記録文学としてならそういう感想も当然である。

 ところが百年前の話だし庶民の話なので、またその親戚の話が記憶がおぼろげで、殆ど調べようがなかった。アナール学派の遣り方で行くならば、何か出来たかもしれないが、私は歴史も苦手である。名もない一人の男の移民の話などどうやって調べればいいものやら。最低限は調べた。農業移民だし、銀行やら組合の話ぐらいしか調べる余地はなかった。ここ長崎の夜景は百万ドルの夜景と言われている。それだけ美しいのだろうが、その額からすると、彼の得た額は小さく感じられるが、それでも彼は日本に帰るのだが、彼の余生は悠々自適なものだった。ちょっとした財産持ちになった。それに彼は長男として実家のためにお金を稼いだとう側面も強かったので、自分だけのために働きに出たわけではない。記録文学にはなり損ねたが、他の観点もあるやもしれない。梗概のようにつらつらと書いた感は否めないかもしれないが、私は記録文学の線は捨てた。

 あとは情緒である。情緒はそうそう長く書けるものではない気がする。しかし移民の話を情緒だけですませるわけにもゆかない。最低限調べられるところは調べたが、庶民の話も大きな歴史のうねりの中にある。第一次世界大戦第二次世界大戦とが挟まっている。彼はアメリカで収容所送りになった。アメリカの収容所はナチスユダヤ人収容所とは違って現金なもので、連盟国側と戦った息子がいた場合などは、優遇されたようである。しかし彼には息子はいなかった。幼くして死んだ息子はいたが。もしその息子が生きていたら、彼はアメリカに留まったかもしれなかった。しかしそうはならなかった。彼の家族は次々と死んでしまった。日本に残して行った娘の長男だけが残った。その人が今度、話を聞かせてくれた人である。彼の孫にあたるが、息子として迎えられたという。彼は美輪明宏と同じ旧制中学に通ったようだが、死んだ息子が生きていたら大学へやったかもしれない。日本に残した娘も女学校まではやっている。

 第二次世界大戦後、日本に帰ると、もう七十歳は過ぎていただろうが、またアメリカに移民しようと目論んだようである。が、それはならなかった。作業着であるジーンズのつなぎを着て町を闊歩したようだが、日本ではそういう人はまだ少なかっただろう。農民でもアメリカ帰りはモダンな雰囲気を漂わせていたようである。この情緒である。もともと貧農ではなかった彼の百姓家は次男が継いで、彼は長崎市内の原爆の落ちたあたりの土地に住むようになった。彼はもう老人だった。私もその近くに住んでいて、同じ小学校の校区である。その小学校に戦後二十年ぐらいで入学した私であるが、その小学校にはピアノがなかったそうである。それで、その爺さんが小学校の土地を買って、小学校はその資金でピアノを買ったそうである。確かアップライトではなくてグランドピアノだったと思う。私が行く頃にはもうピアノはあった。マンモス校であった。

 昔は、原爆を受けた人々は相当差別されたということもあったようだが、後から入ってくる人々は、原爆なんのそのである。今のような知識がなかったこともあるかもしれないが、戦後すぐ復興は始まっている。それにしても原爆記念館などには子供の頃は二、三回は行ったようだった。七十年は草木も生えないだろうと言われていた土地だったが、そんなことはなかった。放射能は残っていたのかもしれないが、昔の人々はあまり気にしていなかったようである。今日「夢千代日記」を視た。夢千代は広島で原爆を受けたという設定である。吉永小百合さんはあの番組がきっかけで、被爆詩を朗読するようになられたとか。「夢千代日記」は好きなドラマだった。山陰の温泉地で密やかに生きる夢千代という芸子。山陰にはまだ行ったことがない。その頃、長崎は表日本の気候の土地柄だった。今頃は裏日本化している感じもあるが、当時、山陰というと、独特な感じがしたものだった。ドラマもそれを意識しているようだった。山陰の冬の海は凄いよと言った人があった。二千字を越したのでここで終わることにする。お付き合いくださってありがとうございます。

中庸、下世話ネタ

 今日は美容院へ行ってきた。ヘアダイとヘアカットである。私はパーマはかけない。ヘアダイをしている間に、コーヒーとチョコレートをいただく。いつも出していただく。待ち時間のある人には出されるようである。そのお店でも最小限のことしか話さないが、よく話す人と同じように、信頼関係は成り立っていると感じられる。お客の個性を感じ取ってくださる。帰りに、薬店や量販店に寄って買い物をした。体温計やら、顔、身体用のオイルやら、ハンガーやら、靴下やら、襟巻きなどを買った。襟巻きはこの季節売ってあるので、冬用だろうと当たりをつけた。5百円台だった。薄い生地でできているので、もしかしたら夏用かもしれない。首がスースーするのはたまらなから、今もう既に使っている。その代わりに夏用の襟巻きをやっと洗った。夏用は日焼けを避けるためであるが、盛夏には小さなサイズのやつを首に結ぶ。気休めのようだが。よく身に付けるものは大概決まっている。殆ど袖を通さないものは案外あったりする。

 靴下は美容院で雑誌を見ていたら、青の靴下が載っていたので、私も買ってみようと思って、3足939円で買ってきた。青ばかりではもちろんない。オフホワイトと茶系の靴下も買った。冬になって身体がカサつくので、オイルを買ってみた。私は飽き性なので、小さなサイズのやつを買った。5百円ぐらいのやつを2種類買った。一つは美容オイル、一つはマッサージ用オイルである。マッサージ用は引き締め効果があるらしいが、あまり期待はしていない。まずお腹をマッサージしてみた。掌に残ったオイルを手の甲になすりつけた。肌をなめらかにする効果もあるらしいからだ。その効き目はあるようだ。美容オイルはまだ使っていない。お化粧は家に帰ったらすぐに落とすが、美容オイルのことは忘れていた。いつものオールインワンジェルで済ませた。このオイルはボディーオイルとしては口コミで第1位だそうである。顔用には何も言われていない。5百円の品を顔用には使わないのだろうか。

 ボディークリームを塗ったら、あんまりお風呂に入らないから、身体が冷えてしょうがなかった。オイルも変わらないかもしれないが、少し軽いんじゃないかと期待している。腕や足がカサカサしてきたので買ってみた。引き締め用は無論、引き締め効果を期待しているが、運動も心がけたい。ただお風呂には1週間に2度ぐらいしか入らないので、汚れとして積もるかもしれない。私はよくそうやって、無駄な買い物をする。でも、グレープシードオイルは、ちょっと賭けてみようかと思っている。主にお腹のマッサージに使おうと考えている。あとは二の腕とか、肘から下のカサつきに用いようかと思っている。足もカサつくがもったいない気がする。いくら5百円でも20㎖しかないのである。それでも私はよく使いかけては捨てることも多い。こんなところにも私の意志薄弱さは出ている。でも捨てるときには案外、気を強く持つ。

 年単位で持っていることが多いのだが、捨てるときにはエイっとばかりに捨てる。一度それまで使っていた安物の化粧品をごっそり捨てたことがある。代わりに少し高い化粧品を買った。私は殆どお化粧しないから、長く持てるので、化粧品代はさほどかからない。しかも基礎化粧品もオールインワンジェルだから安くつく。それに手間がかからない。あまり肌をいじるのはよくないと言われている。その観点からもオールインワンジェルはいいのではないだろうか。でも手入れしなさすぎるのもよくないようだ。ほどほどがいいようである。それは値段の面からもそうである。あんまり高級なのは栄養価が高すぎてよろしくないらしい。安すぎるのもどうかと思う。中庸というものはこういうことにも言えるのだ。つまらぬことだが。何も精神界のことばかりに中庸は言われなくてもいいようである。中庸というのは保守精神の権化のようであるが。どうだろうか。

 保守すなわち右翼ではないだろう。保守というのはやはり中庸ではないだろうか。穏便である、穏健であるというようなことだろうか。高校も終わりかけの受験期に入って、学校から言われたものである。履歴書には思想穏健と書くように言われたことを思い出す。あの頃本当に子供だったのだなと思う。学校から言われるままにそう書いたものだった。私は若い頃はどちらかというと左翼がかっていたものだ。政治的には19歳でキリスト者になってからも、ずっと左翼がかっていた。朝日新聞の影響もあったかと思われるが。朝日新聞が左翼だろうか。そんなことはないだろうか。リベラルとは言われるが、保守とはほど遠いだろうか。またしても尿意を催している。私のパソコンは暗転して長く経つと、インターネットまで切れてしまう。急いでお手洗いに駆け込んだ。私はいつもこうやってヒヤヒヤしながら、パソコンに向かっている。推敲するときにも睡魔は襲ってくるが、そんなときには暗転してしまっていることもままある。だから最近は眠気を催すと、推敲は諦めがちである。ここまでお付き合いくださってありがとうございます。

理解が大事

 私が自分のことをオナニスト呼ばわりすると、バカにする人々がいる。私の書く謂は、修辞としての謂である。なんだか情けない。この歳になって肉体でするかい。アホくさい言葉もいい加減にしてもらいたいものだ。しかも私の名前は呼び捨てである。なんという失礼だろうか。思い返すと私が肉体でオナニーをしていたのは18の歳までだ。もちろんセックスもしない。それでも顔が険しくなったことはない。私は性なしを自分に課してきた。それは自分には持病があるからだ。外発性のものを内面化してきた。思想信条上、避妊も堕胎もできない。だから自分に課してきた。そう腹をくくると、神様は応えてくれるものだ。私は今まで性に縛られることなく、生きてきた。といっても、6年前までは誰も理解してくれなかったので、生殖器の感覚を試されていた。今もそうかもしれないが、6年前からは私の心の中ではそんなことを人がしていても、あまり気にならなくなった。誰にでもある感覚だから、同席の人がなっても私がなっていることにされた。私はそれでも、不満は言わなかった。却って歪な人々の餌食になってお気の毒に思えた。私さえいなければ気にすることもなかったろうに、私がいたことによって余計な心の負担がかかったようだったので、よっぽどのことがない限り、私は人中に出ることを避けるようになった。自分を省みることができるならば、そんなことは人に向かってできるものではないだろうに、する人々がいる。6年前入院してから分かったことだったが、理解者はいたのだった。あとでまた誤解されたが、天の神様と僅かの人々には理解されているのだろう。しかし18歳以降、私は性的な妄想に悩まされてきた。私はセックスの経験がないので今でもわからないのだが、眠っている間にセックスをされてしまって妊娠したのではないかと思ったりしてきた。妄想ではあるのだが、妙に不思議なことがあった。着衣の乱れも何もないのだが、ふと目をさますと、二人の男の漏らす笑いが耳に届き車のドアがバタンと締まり発射音がする。今まで私の部屋にいたのではないか。そう思われた。性といいうものは、幸福な性と、不幸な性がある。私はさしづめ後者であるが、一人で寝るのは怖くなり家族とともに寝るようになった。性というものは一人で寝ても、家族とともに寝ても、気味の悪いものであることには変わりない。家族と一緒に寝るようになっても夢で悩まされたりした。私にも性欲の片鱗はあるのだろう。大きな性欲を背後に抱えながら、表面では性欲を感じなかった。特段、オナニーもセックスも欲求がなかった。刺激もなかったかもしれない。あまり出歩かなかったし、どこへも顔を出さない時期も長かった。顔つきは暗かったかもしれないが、険しくはなかった。でも私にも隠れた性欲はあるのだろう。幼児性欲的ではあるが、寝ていて失禁しそうになると、トイレで排泄する夢を見る。この歳になるとお漏らしすることだってある。途中で夢だと気付いて、そうひどい失禁はしないが。子供に返っているのだろうか。やっと最近、あまりおぞましい性妄想からは解放されだしたが、性がなかったにもかかわらず、性に振り回された人生だったかもしれない。不正出血じみたものがあったので、産婦人科に行くとピザが一片切り取られたみたく、処女膜が破られていた跡があった。それは20代の初めの頃、カンジダだったのを、ひどい性病だと思い込んだが、それも妄想で、先生は私が癌を疑っているのではないかと勘違いして、ピザの一片のように処女膜を破いて、内側の粘膜を少し取って、顕微鏡を覗かせて心配はないと言って聞かせた。性病でももちろんなかった。カンジダでもなかったようだった。その跡にうず高く薬を塗られたようで、不正出血だと思って行った時には、ぐいぐいと器具を入れられて、そのゴム状の薬の盛ってあるのもぐいぐいとへし折られてやたら痛かった。あとでぽろぽろと、出てきたのでそれとわかった。だからセックスによらず今は処女膜もない。違う産婦人科だったので事情もわからなかったわけである。また私がセックスをしないものであるという理解もなかった。今から6年目の入院の折には理解されていたようだったが。でもあとで一番大事な人からまた誤解されたのは痛かった。悲惨な思いをしたものだ。私は思想信条上オナニーもしなくなりセックスもしなかったが、18の歳にオナニーをやめる間まで、かなりオナニーをしていたのでその罪悪感が強かった。性は疚しいものであると、フランスの思想家は言っているけれど、本当にそうで疚しい思いをいっぱいしながらオナニーをやっていたので、心の負担がかかったものと思われる。大概の人がやっているにもかかわらず、私は特別な目で見られる。私は今は軽やかに過ごしているが、オナニストと言うのは修辞にすぎない。しかし郵便ポスト前のガソリンスタンドの人々はうるさい。私はまがりなりにも、ものを書いているので、そう書いたまでである。私はその類のことで人を指差す人の気が知れない。彼らはそんなにあっけらかんとした性の人々なのだろうか。羨ましい限りである。ここまでおつきあいいただきありがとうございます。