マリーゴールドの現実

「幻惑」から「現実」へ

雨と共に

 はてなだからか知らないが、しばらく書かないでいると、クッキーが無効になっているだのなんだのとうるさくて、記事が書けなくなっていることが多い。咄嗟にはIDもパスワードも思い出せない。面倒なので、管理のところから入った。しかしこの記事がまともに表示されるのかどうかは疑問だ。書き終わって見なければわからない。やれやれ。今、雨が降り出した。12月17日火曜日の9:46だ。初めはサーっという軽い音で始まり、しとしととした降りかたに変わった。いつものように2千字書くつもりだが、その挙句に表示されないとなると嫌な気分になるだろう。

 私の交友範囲は限られているので、予定の忘年会は無しで、新年会が一つだけである。寂しい者だ。そうはいってもお酒が飲めるわけでもなく、口が滑らかでもないので、皆さんのお話を上機嫌で聴くだけであるが。もっぱら食べることに忙しいだろう。予定を変えて、今日は1千字書くことにする。表示されなかった場合のダメージを少なくするためである。以前、ブログを毎日のように何千字と書いている方がいらしったが、最近はその方も短めを心がけておられるようだ。雨が酷い降りかたになってきた。土砂降りである。土砂降りという字にしてみると、そんなでもないかなという気がする。

 しばらくの間、読書に専念して、書くことは棚上げにしておきたい。雨音は小さくなった。1時間で20枚もは書けない。5枚書ければいい方だ。創作の方はもっと遅々としている。ブログでもこれを書こうということもないから、続けて言葉を繰り出すのは困難である。400字詰の原稿用紙にして5枚書くとすると、1時間半以上はかかるだろう。ブログにそんなに時間はかけられない。雨音は強まった。どんどん強まる。そして弱まる。朝起きると室温が15度前後という日々である。12、3度だとかなり寒いと感じる。日本の南西部に位置するこの地であるから、さほど寒くないと言えるかもしれないが。

 今日は家人たちは病院に行っている。何か要件があるとすると、病院に行くことが増える。一人はもう一人の付き添いだ。その二人は私の病院に4週間に一度は付き添ってくれる。逆に私が付き添うこともある。これからは身軽に動けるようにしておかねばならない。年末年始の休みの時期であるから、病気になると色々と面倒である。長い休みが続くこれからの時期、どうか健康に過ごせるよう祈りたい。私には持病があるが、その他の面で。家人たちも年齢による衰えはあるが、どうか健康に過ごせるように。この歳ならではの願いである。雨はほぼ止んだようである。

雨と共に

 はてなだからか知らないが、しばらく書かないでいると、クッキーが無効になっているだのなんだのとうるさくて、記事が書けなくなっていることが多い。咄嗟にはIDもパスワードも思い出せない。面倒なので、管理のところから入った。しかしこの記事がまともに表示されるのかどうかは疑問だ。書き終わって見なければわからない。やれやれ。今、雨が降り出した。12月17日火曜日の9:46だ。初めはサーっという軽い音で始まり、しとしととした降りかたに変わった。いつものように2千字書くつもりだが、その挙句に表示されないとなると嫌な気分になるだろう。

 私の交友範囲は限られているので、予定の忘年会は無しで、新年会が一つだけである。寂しい者だ。そうはいってもお酒が飲めるわけでもなく、口が滑らかでもないので、皆さんのお話を上機嫌で聴くだけであるが。もっぱら食べることに忙しいだろう。予定を変えて、今日は1千字書くことにする。表示されなかった場合のダメージを少なくするためである。以前、ブログを毎日のように何千字と書いている方がいらしったが、最近はその方も短めを心がけておられるようだ。雨が酷い降りかたになってきた。土砂降りである。土砂降りという字にしてみると、そんなでもないかなという気がする。

 しばらくの間、読書に専念して、書くことは棚上げにしておきたい。雨音は小さくなった。1時間で20枚もは書けない。5枚書ければいい方だ。創作の方はもっと遅々としている。ブログでもこれを書こうということもないから、続けて言葉を繰り出すのは困難である。400字詰の原稿用紙にして5枚書くとすると、1時間半以上はかかるだろう。ブログにそんなに時間はかけられない。雨音は強まった。どんどん強まる。そして弱まる。朝起きると室温が15度前後という日々である。12、3度だとかなり寒いと感じる。日本の南西部に位置するこの地であるから、さほど寒くないと言えるかもしれないが。

 今日は家人たちは病院に行っている。何か要件があるとすると、病院に行くことが増える。一人はもう一人の付き添いだ。その二人は私の病院に4週間に一度は付き添ってくれる。逆に私が付き添うこともある。これからは身軽に動けるようにしておかねばならない。年末年始の休みの時期であるから、病気になると色々と面倒である。長い休みが続くこれからの時期、どうか健康に過ごせるよう祈りたい。私には持病があるが、その他の面で。家人たちも年齢による衰えはあるが、どうか健康に過ごせるように。この歳ならではの願いである。雨はほぼ止んだようである。

買い物と揺らぎ

 傳濱野の広告は載るようになった。それは私が検索したからであるが、初めて載った時には検索したこともなかった。「皇室御用達」という言葉ならどこかに書いたかもしれないが。やはり桁は間違えてはいなかった。私であっても、他は買い物せず、そのために貯金したらなんとか買えそうだ。買わないが。ポール・スミスのカードケースと、ダンヒルの小銭入れの中古の品を、贈り物した。新品だと高くて買えないし、高いものを贈ると気にされるし、革製品というものは新品を持つのは気恥ずかしいものだ。キャッシュレスの世に、財布かよと思われるかもしれないが、カードケースには、名刺も入れられるし、クレジットカードや銀行のカードやポイントカードを入れられる。大きな買い物はそれで済むし、何かちょっとした自動販売機などで買う場合に、小銭は必要だったりする。そうしたら、ちょうどいい贈り物だったという気がする。今の世にも財布という時代錯誤じみたものもまだまだ必要だ。中国のような歴史はあるが、いわば新進の国柄ならば、顔認証などでキャッシュレスもあり得るが、日本人はそこまでドライではない。

 そういう情緒的なことで、遅れているわけでもなく、政治的に遅れているだけかもしれないが。淀川長治氏はギャラも現金で受け取っていたらしい。彼はもう鬼籍に入った人だし、古い人だから話にならないと思われるかもしれないが、大概の人が銀行振込の世の中ではあった。ともかく財布は握っていたい。なぜか知らないがスマホを持ち歩くよりは安全な気がする。個人情報が漏れたり、ウィルスに感染したり、落としたりすると壊れやすいスマホより、革や布でできた財布はお洒落にもなる。一人ひとりに番号が振られている時代に、個人情報が顔認証レベルで把握されていることに、嫌悪感を持つのもバカらしいかもしれないが。日本人はいまだに番号を振られるのを渋っている国民だ。私はもう諦めて、早々にカードを取得したが。

 パスポートも、普通免許証も持たない私は、自分を証明するのが面倒くさかったのだ。麻生太郎氏のメンツなら誰もが知っていようが、役所の窓口では、そんなことでは通用しない。通販生活をしている人が多い世の中、いちいち自分を証明せねばならない。それはそれで面倒なことである。キャッシュはお金さえ払えば何も証明はいらない。現金主義の人がいても不思議ではない。財布というものは心地いいものである。四半世紀前なら現金を百万、2百万と持ち歩く人はいた。お金持ちである。それでも財布なら、そんなにやばくない。お金なら、お金の高しか問題ではないが、顔認証はそうではない。何もかもが知れている。そういうことが買い物のたびに引きずり出される。もちろんそれを見る人はいないのだろうが。何も気にしないでいいようであるが、ちょっと恐ろしいことである。私は古臭い人間なのかも知れないが、レジに並ぶのは嫌いでも、人間の仕事として、創意のある方達はいらっしゃるものである。

 一瞬にして誰が何をどれだけ買ったかが、わかってしまうというのは嫌な気がする。現在の日本でもちょっと調べればわかるのだろうが、何らかの逸脱を好む性癖のある私などは、まあ、盗みまではしないものの、顔認証は嫌だとう気がする。私はメッシュ革の財布を使っている。5、6年前に購入した。私には高い買い物だったが、4千円のポイントがあったので、その財布を安くで手に入れた。その財布が新品の頃、私がその財布を持ち出すと、ある画家の男の人が、軽蔑気味に見たものである。私に似合わない高価そうな品を持っていると思ったろうか、それとも新品の革製品を喜んで使っている単純さがおかしかったろうか。相手の顔色を伺うという、この人間らしい感情の揺らぎ。リアルというものは、あるいはアナログというものは、あるいは品物というものは、こういう情緒を伴う。感情の揺らぎのあるところ、人間がいる。

 顔認証の世界はどうだろうか。もしかしたら、微妙な変化はあるのだろうが、大まかなポイントでその人と認証される。その認証機のある所を通過する人間の心情なるものが云々されることになるのだろうか。背後には国家がある。その間に幾人と関わった人々を飛び越えて。何だか空恐ろしい気がする。新しいものが登場すると、いがちな古いタイプの人間なのだろうか、私は。しかし私はマイナンバーカードを早々に取得した者である。日本国家というものをさほどに低く見積もってはいない。色々と問題のあることは承知しているが。責任の所在のはっきりしない国柄ではある。尻込みしているうちに、深みにはまって行く体質はそうそう変わらないだろう。この間、かんぽでは不祥事があった。私には実害はなかったが、いつも働いている多くの郵便局の方々は、誠意を持って働いておられる。第一線で働いている人々というのはそういうものである。たまに不正をする人はいるが。でも、個人的に私は揺らぎが好きである。ここまでお付き合いくださってありがとうございました。

自作の紹介、同人誌掲載の

 もう、伝濱野の広告は載らない。この間、様々な事柄を検索してきた。伝濱野は皇室御用達らしい。それにしては安価である。最近、買って読んでいる「フィガロジャポン」などをみると、単価が何十万、何百万という品が並んでいる。そんなに高価である必要がどこにあるのか。それに比して伝濱野は皇室御用達ながら、私でもちょっと奮発して買ってみようかというぐらいの値段である。確か、桁は間違っていないと思う。それにしても私にとって安いというものはないのだった。もし、皇室御用達と言いながら、庶民の手に届かないような値段設定だったら、おかしなことであろう。皇室は庶民のものだからである。ちょっとご褒美に奮発してといった場合に、利用できないならその価値はない。だが多分、私は桁を間違っていることだろう。日本のメーカーだが、日本人の体格に合ったサイズをということらしい。言い忘れていたが、バッグや財布などのメーカーである。

 まず初めて目にしたのは、このブログが90日間の間以上、書かれていない場合に出てくる広告だった。つまるところ、私は検索した覚えもなく、初めて目にする名称だった。しかし、その日から伝濱野は私の心のご愛顧である。いまだに買ってはいないが、財布の宣伝が賑わかしに載ってくるぐらいなら、いっそ何も載らない方がいい。多分、やんごとない方々のお目にも触れているのかもしれないこのブログだが、私は一介のブロガーにすぎない。もう一つ肩書き様のものはある。それは同人誌作家である。何か地に足のついた確実なものではないが、そういうことなのである。前回、この場を借りて掲載した「西九州文学」である。私は29号から参画している。42号まで世に出すことができた。34号には投稿できなかったが。12作は載ったことになる。今まで書いてきて、代表作などということは考えなかったが、同人誌活動の折り返し地点に立った今日この頃、ふと振り返ることがある。

 作品は子供のようである。それなりに慈しんできた。載っていない作ももちろんあるが、載った作の多くはパソコン上からも消えることが多い。パソコン屋さんにうまく伝えられなかったせいか、私が利用できていないせいかわからないが、題名の消えた作は多い。29号作の「長い季節」は載ったものの2倍はあったが、同人誌としては長すぎるし、盛りだくさんでそれ一つに閉じ込めるのは、もったいないと言われて半分にした。丁度、結婚したところで終わった。ある方に、結婚というハッピーエンドで終わること自体、破綻しているとご批判いただいた。私にそこで終わったという意識が薄かったこともあったが、30号作でも私は相変わらず、結婚を予感させる終わり方をしている。その作は世界的ピアニストとデザイナーの男女の話なのだったが、ピアニストは悪い男を書いたつもりだった。そうしたら同人誌のメンバーは、それぐらい普通だとおっしゃる。しかしそれよりも注目していただきたいのは、デザイナーの女性の父親、つまりピアニストの初期の師匠である音楽家である男だ。このジゴロみたいな男が、売りなのである。

 31号作は「移りゆく心」という私の大切にしている作である。洋子は家業を継ぐために医師になろうとしている。父親は医師で人格者である。母親は彼を養子夫として連れ添った人である。ちょっとわがままなところがある。洋子には結婚している妹がいる。彼女の夫がまた医師であり、その地の大学病院の勤務医をしている。洋子は忙しい学業の間に絵のモデルを頼まれた。その画家と恋仲になる。大切にしているとか言いながら私はこの話の細部を忘れている。洋子は大変な目に遭い、画家とは結ばれない。のちに続編を書いたが、この一種完成された文体、とは編集人の言ったことだが、その文体とは時代を画しているので、この「移りゆく心」の文体には遠く及ばない。この文体には二度と戻れないのだ。

 32号作は「秘密と愛」。これは不倫の話である。小さな地方都市へ、大企業に本社採用の後、やって来た男女の話である。細部がいいと思う。ぜひ手にとってお読みいただきたい。33号は「クリスマスプディングの日々」という。これも私の慈しんできた作である。34号はなしである。35号は「生きて行く」という神社の娘の話である。36号は「俺の居場所」という同性愛の男の話である。37号は「洋子ひとり」という作で「移りゆく心」の続編である。洋子の供養がしたかったので、書いた作である。文体はたどたどしい。38号は「葬りの日」という作で、ある夫婦の話だが、夫の方は大きな会社を辞め、妻に頼っていたが、とうとう離婚する。妻も嫌いで別れるわけではないが、どうもそうなる。39号は「徳太郎」。親戚の先祖の話である。40号は「ご飯重視主義」。私小説ではないが、読む人は私とその家族を重ね合わされる。41号は「独身絵図」。42号は「生きる歓び」。43号はまだ決まっていない。8月末日が43号の締切日である。

 

 

ウィルス感染と「豊饒の海」

 ウィルスに感染して、ここに書けずにいた頃、そのほかにも色々あって、知人にはもうここでは書けないかもしれないと言っていたが、ウィルスも除去してもらい、対策もしていただき、以前のパスワードも思い出し、無事ログインできて、色々あってまたここに書くことができるようになった。今まで書いてきたようなことを、よく知人に知らせるよなと、お思いになる方も多かろうと思う。私はリアルでは何も起きない者であるし、心の中一つのことばかりなので、まあ恥ずかしい内容ながら、お知らせしたのだった。狂人の戯言と言ってしまえばそれまでだが。しかしながら私はその狂気をよくわかっている。それが私の矜持である。もちろん事実であるが、それが妄想に縁取られているのである。はじめの頃の「男を変えた」云々は、まさに心の中一つのことであって、リアルでは何事も起きてはいない。私は狂人ゆえ、この世界を渡ってゆく上で、注意しつつ心の中では変幻していたのである。

 私の文章には都会的なスマートさはないだろう。まさに田舎者を地でゆく書きっぷりだろう。0.36秒ごとに180万回の検索数のトップに来ているという数字は、何を表しているのだろうか。もっと多いブロガーは多くいらっしゃるだろうが、私の数字も決して低いものではなさそうである。私の方からお聞きしたいものである。なぜお読みになるのですかと。私と同音異字の名前の友人が、時々ここを読むようである。彼女は流石にびっくりしているようだった。しかし彼女はリアルの私をも知っているので、関係を断ちはしない。何か自分のことも出てきているようだがと、苦笑していたようだったが。もう大概のことは忘れている。10月に書いた前の記事も忘れていた。これを書く前に読んでみて、そうだったかと思い出し、つくづく始めどうでもいいようなことをだらだら書いて、最後の方でやっとなんとか形をつけているなと、ここでも出たとこ勝負の私はそう思う。

 実は3月に入ったら、少々忙しくなる。教会では黙想会があるし、同人誌の方では編集作業が始まる。それで今のうちに書いておこうと思い立った。今は三島由紀夫の「豊饒の海」第4巻「天人五衰」を読んでいるところで、まだ最後まで読んでしまっていない。あと50ページぐらい残っているのだが、私の遅い読み方では時間がかかる。「逆転する輪廻の本質ーー」と書かれても、仏典によるところの輪廻を理解していないので、予測がつかない。透が死ぬのか本多が死ぬのか、無論あと50ページの中でわかってくることだ。だからこのことを書くのは時期尚早である。久々に面白い小説を読んでいる。同じ三島のでも「花ざかりの森」「憂国」は感心しないが、「豊饒の海」に関しては脱帽である。これがどんな最後であろうが、面白いことはわかっている。第1巻「春の雪」、第2巻「奔馬」、第3巻「暁の寺」は確かに面白かった。しかし思い返すと都合よく人が死に、物事がなってゆく。

 今の段階でいろいろ書くのはやめておこう。「豊饒の海」を読むことはないのだろうなと、ふとしたことから「春の雪」を読むことになるまで、思っていた。第一、題名が気にくわない。この題名だったら私の場合、普通読む手がかりにはならないだろうと思われる。人がその本を手に取るには、きっかけが必要だ。私の場合それはSNSで訪れた。去年だったか一昨年だったか「夏子の冒険」を帯に「修道院」の文字が躍っていたので買ってみた。するとこれを翻案したものが村上春樹氏の「羊をめぐる冒険」だと、また彼の「ノルウェイの森」が三島の「花ざかりの森」を翻案したものであり、「花ざかりの森」の原型は「春の雪」だということを教わったのである。それで遡る形で読んでみることになったのである。それが「豊饒の海」を読み始めるきっかけである。「春の雪」を読んだら「奔馬」を、「奔馬」を読んだら「暁の寺」を、「暁の寺」を読んだら「天人五衰」を読んでみたくなる。内容が面白いからである。「豊饒の海」というタイトルだけを眺めていたら、機会は訪れなかっただろう。

 現今の流行り言葉や、名付けは三島の作にはよく出てくるような気がする。それにどんなに難しい言葉でも、三島の作中にある言葉は辞書に載っている。これというのはすごいことではないだろうか。三島の語彙は豊富で漢語も西欧語も多い。「豊饒の海」について踏み込んだことが言えないのは残念だが、読んでしまったとしても何も言えないかもしれない。きっとうちのめされているだろう。それにしても読む端から忘れてゆく。私にとって大事なところは覚えているつもりだが、それが大局だろうと細部だろうと、自分にとって大事なところは覚えている。しかし大部分忘れている。今から郵便局などにゆかねばならないのである。ブログなど書いている場合ではないのだが、成り行き上書いてしまった。「豊饒の海」についてはブログでは何も触れないだろう。多分。