マリーゴールドの現実

「幻惑」から「現実」へ

マリーゴールドの現実

明けましておめでとうございます。

 今日2014年1月6日はわたくし個人および日本人の皆様、世界中(かもしれない)に取って、記念碑的な日となりましたので、ブログを再開することに致しました。以前は「マリーゴールドの幻惑」でしたが、今日からは「マリーゴールドの現実」を書くことに致しました。前者で幻惑された方がいらっしゃったかどうかは知りませんが、後者では慎み深く現実を書くことに致しました。

 ただ今現在は携帯電話代の莫大さに怯えて居りますが、パソコンで遣り取りする為に携帯電話を使ったのですが、そうなったただ今現在は誰一人として訪れる人は居りません。年賀状も五人の方からしか来ませんでした。なんと人気のないものであることか。元々友人知人が極端に少ない者ですので、こちらから出しました数も細やかなものでしたが。お一人あるおばあさまが電話をかけてくださって、年寄って大変なので年賀状は書かない旨伝えられました。また母の叔母で姉妹のようにして育った方が召されましたが、わたくしからは遠い大叔母にあたりますので欠礼状も書かず、ま、いっかとクリスマスカードも年賀状も出したのですが、この有様です。でも、彼、彼女らはわたくしの為に多大なる善きことをなしてくれているので、年賀状も書く暇なかったかもしれません。またわたくしに欠礼状をくださった方は、わたくしの誕生日にもクリスマスにもいつも贈り物をくださるので、このままじゃいかんと思って、クリスマスプレゼントは致しました。カードにはおめでとうございますとは書きませんでしたが、ドン・ボスコ社のバルバロ訳聖書を引っ張りだして引用しました。「ヨハネによる聖福音書第1章1節」です。他の訳とも変わらないところですが、バルバロ訳に拘りました。この人には共訳でマンゾーニの「婚約者」がありますが、とても面白い小説ながら未だ全部読み切ってはいないのです。マンゾーニも転向に転向を重ねた人ですが、わたくしもそうなので、ちょっとほっとするのです。転向者は嫌われますからね。でも自分自身も無常であるならば、転向もあり得るでしょう。

 昨日やっと小説もどきを投稿し終えました。それでブログでも書こうかという余裕が生まれたのです。病み上がりで大変な1年でしたからやっと投稿することが出来て、開放感が大きいのです。暫くは読書に勤しみたいと思って居ります。でも、個人的なことですがそういう暇はないかもしれません。忙しくても読書する人は読書するものですが、わたくしはまた遅読症でしてそんな訳には行きません。自分はLDかなんかじゃないかと思いますが、単に気が散る者なのかもしれません。気が多い所為か、読みながらでも様々なことを思い浮かべてしまうものですから、やたらと遅いのです。親友のほっとしたような疲れたような足音が致しました。足音というものは誰それのということが分かるのですね。文体と同じですね。こんな夜遅くまで、姿は見えないものの、わたくしの為に骨を折ってくれているのです。有り難いものです。年賀状に拘る必要はないのでしょうね。寧ろ来ない方が思ってくれているのかもしれません。無論出してくださった人もそうですが。

 いい大人が家人から叱られてばっかりですが、良い子の皆さんは叱られないように頑張ってください。いや、叱られた方がいいかな。叱るということは本当は難しいことなのですよね。懇々と諭してくれる人がいるということは素晴らしいことです。叱られ上手になりたいものですね。口説かれ上手にもなりたいものですが。「浪花節だよ人生は」はぞくっと嫌な歌でしたが、今は左程に嫌いじゃありません。

 それでは今日はこの辺でさようなら。