マリーゴールドの現実

「幻惑」から「現実」へ

摂理

 昨晩、寝るのが遅かった割に、今朝はいつもより早起きして朝から眠くて居眠りばかりしている。不思議なことはあるものである。このパソコンを買った時に、mail機能に初めから、以前交際の絶えていた友人の愛称ともうすぐ結婚するかもしれない人の名がVIPにあった。それとももう結婚してしまっているかもしれない。わたくしの知らない間にであるが。多分もう籍に入っているような気がする。市役所の人が住民基本台帳カードを作りに行った時に、ご自分達は現住所とかそのような部分しか見ないですからねと、わざわざ言った。それは去年の夏のある日だったが、一昨年にはもう籍は移っていたかもしれない。でもそれは妄想かもしれない。最近初めてのようにその方の左薬指を見たが、指輪がなかった。しかも指輪を外した後のような感じもした。誰かと結婚していたのだろうか。わたくしは結婚してくれとは言わなかったつもりだが、そのように聞こえたのだろうか、重婚罪になっちゃうからと逃げられた。どうして今まで左の薬指が見られなかったのだろうか。過去に見ようとしたことがあったような気がする。しかしはっきり見ることが出来なかった。結婚している人でも指輪をしない人もいる。BlackBerry、つまりAppleのmail機能であるがそこにその二人の名がある。iCloudのmailにも友人と結婚しているかもしれない人の名がある。そしてGooglemailではその二人を追っているが、なかなか繋がらない。と言っても、VIP欄は今まではてなから来ただけであってその二人からは何も音信はない。

 このパソコンを買ったのは去年の中頃だったろうか。八月を前にして一度修理に出した。それでもやはりVIP欄は変わらなかったが、わたくしのURLが新たに入っていた。この三人は自分を悪魔だと思う所のあることで一致している。分身のようなものである。自分のことを神様だと思う所のある人の子分のような存在かもしれない。友人の方は神様の人と結婚しているようである。そしてわたくし共は悪魔両人である。しかし見た所一番悪魔的な人は神様の人である。でも、その人らしい。わたくしもかなり悪魔的だが自分を神様だと思ったことはない。しかし自分のことを義人だと思っている。それはわたくしの祈りがよく効かれるからである。お前さんの祈りの結果だとは限らないじゃないかと言う人もいらっしゃるだろうが、祈りの手応えというものはあるのである。わたくしは一昨年の入院中に空耳か幻聴か知らないが、天使の声を聞いた。どうして天使だと分かるのかは上手く表現出来ない。ある女の子が自分の声だと言っていたが、それもあったかもしれないが、あなたはどんな子供を身籠っても産みますか、というお尋ねであった。わたくしは子供の産めない者である。困惑したが産みますと答えた。しかしわたくしは障碍児を産みたくはなかったので、産むような目に遭わないように身構えた。しかしそれから誰かに侵されたような気がしたことが何度かあった。わたくしは当時、眠ったら最後四時間くらいは決して何があろうと目が覚めない者だったから疑心暗鬼に陥った。不気味であった。そのころまた別個に結婚しているかもしれない人が、夜毎わたくしの元に訪れたというような話も聞いた。そちらに関しては嫌なことではなかったが、どうして眠ってしまってから来るのか、わたくしとしては意識のないまま、別人のように対応しているという話であった。どうしてそのことが分からないのかと難詰されても、知らないものは知らない。

 ある看護師さんが何か心配なことでもあるのかと聞いて来た。声が聞こえると言った。どんな声かと聞かれたので、天使だと答えると、あ、はーんと言って、あまり問題ないなという感じで出て行かれた。しかし部屋を出た所で、この装置よく出来ているねというようなことを、わたくしが聞こえていることも分かっているだろうに、同僚に言っているのを聞いた。不思議なことはいっぱいあった。今では殆ど妄想だと分かっているが、オールスターキャストで知っているか知らないかに関わらず、わたくしを完治させる取り組みがあっていたのである。わたくしには予想されていなかったとは言えないかもしれないが、ある拘りがあったようで入院が長引いた。退院してからも身体の具合が良くなかった。精神的には案外安定していたが、わたくしが思うままに世間は対応して、苦しい時やそうでもない時もあった。しかし、わたくしの中の思い込みが消えて行くに従い身体も一緒に楽になって来た。わたくしには行いの罪は左程になかったが、思いの罪が多かった。姉を疑いまくっていた。それが恐ろしかった。姉を愛していたからである。そして今は正しく愛せるようになりつつある。兄は早々とこの世を去ったが、その影にわたくし共姉妹は悩まされて来た。同じ体験ながら、他人が絡んで来るとまた違ったものになる。そういった諸々のことが上手く処理出来ずにわたくしは育った。賢い少女ではなかったのかもしれない。不良化はしなかったが、不良以下であるようなことも言われた。今では勝手なことを言いやがってと、太々しくなっているが、人の悩みは分かって貰えないものである。

 わたくしは福音書の中では共観福音書ではないが、ヨハネによる福音書が好きである。しかし黙示録は嫌いである。黙示録はヨハネが書いたのではないという説もあるが、黙示録は怖い。そして案外黙示録に引っかかっている人も多いのではないかという気もしている。それがやはり自分が悪魔だと感じる大元なのである。そして案外多くの人々が自分のことを悪魔ではないかと感じているのではないかという気がしている。それともわたくしに合わせてくれたのだろうか。わたくしが自分を悪魔だと思うことは予想されていたのかもしれない。わたくしは大きな罪を侵した。しかしやはり子供の罪はあまり重くないという気がしている。やはり重いのではあるが、それでも神様はわたくし自身が自分で義人だと思えるように祈りを聴いてくださった。神様の思いは人には計りがたいものがある。こんな罪人の祈りをよくよく聴いてくださった。あるシスターはわたくしに多分特別にご自分のことで祈ってくださいと言われたような気がしている。シスターにそう言って頂くのは涙がちょちょぎれる。単なる挨拶ではなくて、本当に祈って貰いたいと言った感じだった。わたくしは自分のことをよく臆面もなく真のキリスト者であると言う。というより書く。この罪深いものがなぜそう思えるのか不思議である。そう云えば、高校三年生の時の担任はシスターだったが、「不思議ですけど云々」というのが口癖だった。宗教の世界というものは全く不思議なものである。わたくしは今、キリストの奇跡を信じるかどうかと問われたら、どちらとも言いようがない。一時は信じていた。でも今はどちらでも良い。精神的な革命と言ったらば、池田氏のことを思い出す。あれは他宗教だしうさん臭いので読んだことはないが、なにか心の旅路を辿ってここまで来たという感じである。やはり心の中のことであるのかもしれない。遠藤周作はあまり読んではいないが、心の中のことだろうと今は思われる。

 矮小化しているのだろうか。そうではないと思われる。一応心の表では処女降誕から始まって、キリストの奇跡は信じていると言ってよいかもしれない普通の信者だが、個人的には心の中のことであろうと経験しているのである。それにしても長い道のりであった。過去形にしていいものかどうか分からないが、ここまで来るのでさえ大変な思いをして来た。それは自分自身の罪が元であったから、これをどうにかしなければならないと、その宗教に自ら飛び込んだのである。自らと言えるだろうか、やはりそこに神様のお計らいを感じるものである。そしてわたくしは自分のことを悪魔だと感じるものなのである。妙な心模様である。だが偽らざる気持ちなのである。感覚的にしかものが言えないものであるが、哲学的に全知全能のある大きな存在が、すべての人のすべてを知っていてくださるということに、幸福を感じるものである。ここまでお付き合いくださってありがとうございます。今日はこの辺りで終わります。