マリーゴールドの現実

「幻惑」から「現実」へ

 黒はご存知のように色ではない。モノクロの世界というものは色に騙されはしない。本当のものが見えるからである。顔に化粧をしてもそれでも隠せないものがある。しかしモノクロだからこそのよさもある。本当にいいものの場合である。文章にもそのようなことがいえるかもしれない。色彩表現は最小限に留めたいところである。そして色を感じさせるような表現も、文章の力以外の何者かに頼っているような気がする。絵のような文章ならば絵を描いた方が速い。ただ絵にもモノクロの場合があるだろう。それは敢えての挑戦なのだろうか。書道などはその点モノクロの世界であるから、色には頼らない。いくらカリグラフの世界がどの言語にあっても漢字圏のような芸術表現としてあるのはやはり文字の国だからこそだろう。わたくしに現代の書が分らないのは本当のものを見る力が欠けているからかもしれない。

 黒いものの中から例えばオレンジ色のものが出てくるような品物があるととてもいい具合にマッチするのではないだろうか。黒が苦手な人もオレンジ色が出てくるとホッとするのではないだろうか。そして普段はオレンジが隠れているところがまたいいのである。暖かいものは秘められているものである。取り出すたびににっこりと微笑みたくなるようである。そして黒はすべての色を混ぜ合わせるとできるものでもある。すべてを包含しているのである。だから黒は一色ではない。無色でもないが無色にはない存在感がある。

 黒は悪いもの代名詞としても使われる。黒白をつけるなどとい風に。悪役を引き受けている訳である。天使から悪魔へと転落したルシファーのイメージも黒である。わたくしは自分自身が悪魔のようであると思っている人の方がいいと思っている。それは自分がそうだからでもある。誰も自分が悪魔のようだとは認めたくはないものである。また自分を神だと思うのも案外きついことである。表裏一体といったところだろうか。自分が人を愛していると思うのは容易いことだが、自分が人から愛されていると思うのは難しいことである。また神から愛されていると思うのも案外難しい。黒にはそういった感情のうごめきがあるような気がする。あるいは理性の縛りがあるような気がする。黒は嘘をつかないが嘘を隠してもくれる。人間たるもの嘘をつかずには生きて行けないものであるが、そういった裏の側面をも代表してくれる。

 黒は闇のようでもある。その中で人は手探り状態である。闇に目が慣れてくると人はその中でも生きて行ける。光がなくても生きては行けるが、黒い闇があるからこそ、光の印象はいいのである。光つまり美、富、正義、そういったものがなくても、人は生きて行ける。希望さえあれば。希望は何色だろうか。光り輝くものだろうか。否、暗闇の中でこそこころの内で感じるものである。絶望の淵でこそ希望は感じるものである。見えはしないのである。クリアなのでもない。やはり黒い世界でこそ感じるものなのである。

 ところである人が黒はニューヨーカーの色だと言っていた。あの大都会の。やはりるつぼの中だから金ならぬ人の混ぜこぜであるから黒になるのかもしれない。思い返すと田舎で黒ずくめの人はあまり見かけないような気がする。黒はやはり都会の色である。そしてまた悪魔的である。シャープである。そしてたまに綺麗な色の服を着ている人々もまた都会にはいる。それは黒あっての色なのである。黒ずくめの人の恩義を受けている訳である。

 黒は目だたないようで目だち、目だつようで目だたない。オールマイティーである。たまに似合わない人もいるにはいるが、大概人を綺麗に見せてくれる。本当が見えるものでありながら、その人を引き立ててくれもするのである。しかしやはり老人は着ない方がよいだろう。若さあってのものである。つまるところやはり若さの美しさがないと着ることもできないかもしれない。或は非常に洗練された人であれば着ることはできるかもしれない。

 ここまでわたくしは黒を礼賛してきた。それはわたくしの愛する人が黒は自分の色でありながら、黒が大嫌いな人だからである。そういえば黒は喪でもある。下手に着ると喪中に見えてしまう。そういう訳で着こなすのは難しいのかもしれない。わたくしの愛する人は黒が嫌いなので、わたくしはできるだけ黒っぽいものは着ないことにした。プレゼントするものは黒の中に明るい暖色の入ったものを贈ることにしている。わたくしに経済力があってもなくてもちょうどいいくらいのお値段である。それが直接彼のもとに送られたら困るのであるが、どうもそうなりそうな気がする。わたくしのファンデーションもあるので尚のことである。しかしこのことはシナリオにはなかったかもしれないが、結局のところシナリオが実現するのに必要なことなのかもしれない。