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マリーゴールドの現実

「幻惑」から「現実」へ

井の中の蛙的

 英語ができないということは、パソコンをする上で、とても障害になります。文法もですが、語彙力がないということは響きます。私の場合、ごく基本的な語彙力にも欠けているので、それはそれは、不自由です。一々、なにそれ、という感じでドギマギしてしまいます。疎いということは、まっこと不自由です。普通知らないもの、未知のものを探索するため、つまり疎いから、冒険もあるのでしょうが、私はパソコンの前で疎いがゆえに、冒険心をなくします。パソコンという機械を前にすると、これを壊さないようにしないと、このプログラミングを壊さないようにしないとという気が働いてしまうのです。それと言いますのも、約2年前は、分からないながらも、勘を働かせて、いろいろやってみた挙句、パソコン内を、めちゃくちゃにしてしまった経験がありますから。修理に大分かかりました。今回また壊してしまいました。しかし、今回のは冒険心のゆえではありませんでした。いわば不測の事態でした。

 こんなにパソコンを扱うのに不向きな私が、パソコンにお金をつぎ込まねばならなくなるのは、必至でしょうか。英語ができない上に、機械音痴であります。しかも人には不測の事態もありうる。ここはやはり、疎いという言葉の語感からくる、とろさ、なまくらさ、そういうものが不測の事態を呼び起こした感があります。不測にもかかわらずです。グーグルの翻訳は見ないほうがマシな気がしますが、ネット上に以前だったら、私にも解せる英文があったのですが、最近ではついぞお目にかかれません。いろんな分野の英語がありましょうが、私にも分かる英語というのは、とても分かり易かったということかもしれません。私は漱石の英訳された「こころ」を読もうとして1ページ目から落ちこぼれた経験がありますが、日本語の方は読んでいたので、大丈夫かなと思っていましたら、全く歯が立ちませんでした。漱石を翻訳で読む人には、漱石はあまり評価されない傾向にあるそうですが、あんなにテリブルな英語だと、さもありなんといった気がします。いや、テリブルなのは私の英語ですが、漱石の英訳をしようとまで思った人は、漱石の作品を愛してやまないのでしょうが、難解この上ない訳になっています。漱石の独特の文体は、日本語で読むに、しくはないのでしょう。

 最近家人に、ブックカバーをもらいました。文庫本サイズです。それをつけて読むのに今、4冊目です。ドストエフスキーの「悪霊」を読み始めました。これは何十年も前に買っていたものですが、当時はなぜか読めずにうっちゃってしまいました。今読み始めると題名のおどろおどろしさにもかかわらず、ドストエフスキーには珍しく軽妙なタッチで描かれた作品で、江川卓訳です。お読みになっておられる方は多いと思いますが、自分に何か拘りがあったせいか、全然違った印象を持っておりました。まさにドストエフスキーは、良き翻訳者に恵まれ、軽妙なタッチを損なわずに、翻訳されたものを楽しむことができます。世界の広範な地域の作品の翻訳が多くある日本で、読むことができるというのは幸いなことです。しかしなぜドストエフスキーカトリックを目の敵にするのでしょうか。これが疑問でした。ある司教様に聞くと、ちょっと教えていただきました。それはカトリックの組織としての官僚的なところとか、そういったところをやり玉に挙げているようです。実際読み始めたばかりの「悪霊」にも早速そのようなところは出てきました。バチカンは近いうちにイタリアの一大司教区になりさがるだろうとか、書いてありました。そんなところも日本人に受けるのかもしれませんが、ロシアを愛してやまないドストエフスキーにしてみれば、ロシア正教を愛するのは当然です。宗教的な要のところは、情報の坩堝ですから、バチカンに情報が集まるのは当たり前で、日本でも仏教や、神道の指導的立場の人々は情報が豊富です。

 私の昔の知人に、神学校で勉強した経験のある人がおられましたが、テレビなど全然見なかったそうですが、もの凄い情報が集まってきていたと言われました。昔の宣教師は手紙というか文書というか豊富に書きましたから、つまり報告でしょうか、世界中から宣教師たちを通して情報が集まるわけです。天正少年使節団については世界で知られていたわけですし、26聖人殉教についても世界で知られていたわけです。明治に入ってからのキリシタン弾圧についても、世界で知られていたのでした。彼らの犠牲の上に今の日本人は、信教の自由を手に入れたのでした。それは日本政府が世界の言論に抗することができなくなって、しかたなしに信教の自由を認めることになったのでした。日本の常識は世界の非常識、ということは今に始まったことではありませんでした。私は先祖伝来の信者ではありませんが、たまたまそういう地域に住んでおり、今はカトリックです。今度の集団的自衛権の問題は複雑です。この地域は原爆を受けた地域でもあります。私の両親は戦後この地に住み始めました。日本はこれによって、より自立しますが、それによって担うものも増えるでしょう。日本は米国の核の傘のもと守られているのですから、自立した防衛能力はありません。あくまでも比較的にということですが、イランの態度が軟化したのは、この法案と無関係ではないかもしれません。その認識がないと、ただ核廃絶を闇雲に言っても、あまり意味がないような気がします。そういう運動は長い目で見ると非常に意義のあることと思われますが、今現在は日本は米国の核の傘のもと守られているという事実があるのですから、今の政権が目指しているものは、9条を守りながら、より防衛能力を高めるという方向性でしょう。日本人にとっては、はなはだ皮肉ではありますが、それが現実でしょうか。私自身はむしろ改憲したほうがいいのではないかと思っていますが、安倍さんは9条は守りたいようです。つまり恒久平和を求める点では、なんら変わりはないものと思われます。しかし防衛の諸相は変わりゆく可能性はあります。なにせアーミテージのような人がいるわけですから、日本はより自立した国として、どのように対するのか、アメリカがオバマさん路線で行くならば、対話で解決という方向も考えられますが、アメリカの人々はどう考えているのでしょうか。日本としてはアメリカが対話路線で行ってくれるとありがたいのですが、なにせ日本の行く末はアメリカが大きく負っているのですから。とにかく今の所、日本は軍事にさほどお金をつぎ込まなくてもやってこれたわけですが、日本のGNP費は大したものですし、1%はとうに越していますが、中国ほどの軍事費もかからないでしょうか。平和の恩恵の中でぬくぬくとしてきた日本は、今から先も平和でありたいならば、変わってゆかざるをえないところもあるのではないでしょうか。

 英語のできない私は、外国の人と意思疎通ができませんが、代わりにやってくれる人々は多いですし、翻訳文化が進んでいる国ですから、外国の本もたくさん読めます。日本は自分の危機を認識したという点では、さほど平和ボケもしていなかったかもしれません。様々なご意見がおありでしょうが、私も久々に書いてみました。ここまでお付き合いくださってありがとうございました。