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マリーゴールドの現実

「幻惑」から「現実」へ

小さな頭

 結婚するときに、離婚を予測して結婚するものだろうか。今の時代、案外そういうこともありうるかもしれない。私自身だって、今から結婚となると、自分はともかく、相手に嫌われるかもしれないという不安がないこともない。それで離婚するかもしれないという怖れはある。嫌われないようにしようとする努力も、一旦なにか起こったら、報われないかもしれない。しかし私だったら限りなく寛大な人と結婚したい。寛大な人は、過去に傷を持つことが多い。となると、離婚の経験という痛い傷も役立つだろうか。誰も相手を、取っ替え引っ替えしようなどとは思わないだろう。結婚は人生の墓場というシニカルな言葉もあるが、結婚は入り口だとも言われる。

 それにしてもたとえ教会が離婚を認めなくても、民法上の離婚は多くなった。こんなに離婚者が多いとなると、教会へ行ける人も、少なくなるだろうか。キリストは使徒たちに権限を与えた。滅多に変えられるものでもないかもしれないが、新約聖書の時代はもとより、旧約の時代から、ヘブライでも離婚は多かったようである。のちの中世などは離婚は認められなかったろうから、もっと歪な形で家族は成り立っていただろう。結婚は自分以外の他人と暮らしを共にすることだから、自己中心では、できかねるかもしれないが、自分を殺してしまうこともできないだろう。泥沼のような関係を持ち続けるのは厳しいだろう。宗教が政治を牛耳っていた時代は終わったようだが、ドストエフスキーの予言も虚しく、バチカンは健在である。イタリアの一大司教区に成り下がってはいない。それに、現世の王国というようでもないようだ。

 キリストが三つの誘惑を受けたとき、現世の王国を退けたが、バチカンはまさに体の一部として機能しているに過ぎないだろう。人の体でいうならば頭だろうか、それともハートだろうか。魂の部分に訴える一機関であるに過ぎないだろう。教会では頭かもしれないが、世界にはキリスト教カトリックが全体ではない。それ以外の宗教を信じている人々もまた多い。バチカンは世界最大の共同体の頭ではあるけれど、世界全体とはゆかない。アメリカの大統領であっても教皇を重んじるかもしれないが、大概プロテスタントである。(ケネディーさんはカトリックだったが)

 バチカン市国が最小の国なのか、マルタが最小の国なのか、私はよく知らないくらいである。その私がカトリックである。バチカンには失礼だが、バチカンが禁じようが、人々は先へ行く。人は罪深い。禁じられても、その禁じられたことをやってしまう。信者になる前の罪と、信者になってからの罪は違うのだろうか。あのソロモンでさえ、後半生は乱れたものだった。ダビデも信仰は貫いたが、大きな罪を犯した。その個人的罪だけではなく、戦争をして人の血を流したので、神殿造りを許可されなかった。子のソロモンには神殿造りを任されたが、彼はダビデと違って堕落した。人の一生は分からないものである。

 なんと言っても人のすることである。どこかに穴はあるだろう。一点の曇りもない人がいようか。聖人と言われる人々がどうなのか知らないが、カトリックの私がいうのもなんだが、聖人や福者に選ぶということは、なんだか無駄な気がする。列聖などに一生懸命なのは、いかにも宗教の範囲であろうか。それならそれでも構いはしないが。重要なこととは思われない。それよりも信者ならば、弱っている人に寄り添い、苦楽をともにすることの方が意義があると思う。それに他宗教の人々と、あるいは無宗教の人々と、うまくやってゆきたい気がする。人は多様に存在する。そのことが大切である。信仰を共にする人々とは無論うまくやってゆきたい。

 キリスト教圏は比較的豊かである。他宗教の人々は、その信仰がプリミティブな価値を有しているが故に、貧しい側面があるかもしれないが、キリスト教圏のように合理化され、隠れたもののないような世界が人間的かというと、必ずしもそうでもないかもしれない。それに経済的優位から、人を食い物にするのはよろしくないだろう。合理的ということはいい面もあるが、合理で割り切れないものがあるのが人間というものだ。宗教的であるが故に経済では遅れをとることもありうる。バチカンが比較的小さな存在であることは、ヨーロッパ世界に経済的優位を与えたかもしれない。しかしながら西洋人はバチカンに敬意を表する。だが敬意だけである。

 今、ギリシャが危ない。ギリシャは古代後、小さな存在だったが、精神的にはヨーロッパ世界に影響を与え続けた。つまり、ギリシャ哲学、ギリシャ悲劇、ヒストリアなどなどである。近代以来列強が支配した植民地は、未だに貧しい。入り組んでいるので一概に言えないが、ヨーロッパ人や、混血、ネイティブ、など、身分が分かれている。ここに差別が温存されている。それが、キリスト教のもたらしたものだろうか。単純には言えないが、飴と鞭はあったことである。日本もまたそれに習って、植民地化を推し進めた。真似をしないでもいいところである。日本人はいかにも日本人である。周りを海に取り囲まれた島国である。どこか甘い。国境沿いの紛争などあまり経験のない国である。

 日本人はヨーロッパに追随する必要があるだろうか。仲良くやってゆきたいものだが、それは世界の多様な人々とともに歩むという中で、日本人にキリスト教徒が少ないことから、独自な道があるかもしれない。それにしても明治政府の要人にはキリスト者が多かったということは事実である。新し物好きということかもしれなかったが、彼らの子孫も代を重ねた。彼らは優秀であることが多い。それにしても日本の教会はこれから先どうなってゆくのだろうか。善意だけではどうにもならないが、善意がなければことは進まない。私は教会の中でも小さな存在である。足を引っ張るほうかもしれない。自分の生活に汲々としながらも、全世界のことも頭に入れている。つまり祈ることしかできないのだが、祈りは基本だろう。今はそれだけである。何か進展があればいいのだが。八百万の神々の国日本では、他宗教者とのいざこざは少ないと言えるだろうが、他宗教者と面と向かったこともないのかもしれない。新興宗教の事件はあったが。何が正しく、何が正しくないのかは明言できない。日本の古い話でラフカディオ・ハーンの残してくれた「常識」という話は印象的である。そういうことだと思う。ここまでお付き合いくださってありがとうございました。