マリーゴールドの現実

「幻惑」から「現実」へ

書くしかない

 気になっている人の意向が知れないということは、悲しいことである。おそらく皆さんは、そんなことは簡単なことだと思われるだろう。直接、会って聞けばいいじゃないかと思われるかもしれない。しかし世の中には、面と向かっては言えないことが多くあるものだ。その人情の機微をお感じになられるだろうか。特に私は引っ込み思案である。

 そういえば、最近私はgoogle +というSNSを止めて、フェイスブックに切り替えた。ここはいつでも止められるなと思う。開設したのは、私自身ではないし、人が開設したものの上に便乗しただけであるから。「⚪️⚪️さんはフェイスブックに登録されています」という言葉が不意に出てきて、その⚪️⚪️さんは私の名前なのであるが、いつの間にかフェイスブックに登録したことになっていた。だからいつでも止められる。SNSというものは軽やかでありたいものだ。1日に30分ぐらいで済ませたいものだ。バスに乗っても電車に乗っても歩いていても、スマホに夢中な人はいるものだが、私はその気が知れない。私の場合はパソコン一本槍なのだが、携帯電話から写真をパソコンに送るのには、お金がかかる。気になっている人のためだけに、今まで1日に2時間ぐらいは時間を割いてきた。しかしそれも終わった。以前携帯電話から送っていた写真を、プロフィール写真にした。google+と同じものだ。呆れられるだろうか。私は平気である。大体、私はSNSがどうやってお金儲けができているのかさえ知らない。

 ネットというものは不確かなようで、雄弁でもある。雄弁さに頼って現実世界では言えないことも、書き込んだりする。つまり、面と向かっては言えないようなことも、SNSを通じて伝えることができるというのである。暴言はいけないが。しかし、インターネット上でストーカーまがいをやらかすことはあり得る。私自身がであるが、人様からそのようなことをされたことはない。ネットというものは通じていないようで通じていることがある。私がSNSが負担に感じていることを察した気になる人は、即刻共有を止めてくれた。気になる人の共有あったればこそのそれであったから、私は今まで引きずってきた。私は書けば長々なる者だから、何十行と書いては毎日2、3回は送信していた。

 気になる人の共有がやんだので、即刻google+を止めたが、フェイスブックは気になる人の箇所を見ることができるので、そちらにした。しかし、交信はない。だから、気になる人の意向が知れずに、悲しいのである。フェイスブックの私の箇所には誰一人書き込みはしない。一人で書いているだけの寂しいものである。しかし73800人ほどの人がチェックインしている。あまりに馬鹿げているから、言葉の一つもないのだろうか。大体、知り合いが殆どいない状態だから、当たり前だろうか。

 お恥ずかしい話であるが、私は大概のことについてお金がどれくらいかかるかということが気になる。いつも経済が逼迫している状態なので、お金の問題は切実なのである。今まで家族にしか借金したことはないが、お金を貸してもらえるほどの者でもない。昨晩も、同人の人からお電話を頂いたときに、いつもの考え方の癖で、お金のかかるかからないの問題じゃないのに、そう受けっとってしまい、恥をかいた。

 経済は逼迫し、投稿作品も選に漏れるだろうと予測される。おまけに失恋までしそうである。文学賞の世界もやはりコネなのか。この間、同人の人がそう言っていた。私は今までコネというコネがなかったために、仕事も見つからなかった。なんにしてもコネはない。実力があったら怖いものはないさあ、と言えるといいのだが。今期はともかく、この数年芥川賞は不振だった。これが芥川賞かというのが案外あった。私は文藝春秋で2、3読んだだけであるし、1作以外は読み通しもしていない。いや、読んでいないから言いようもないのだが。

 人様の作品がなかなか読めないということは、自分に過信があるからであろうか。謙虚になって読むことが必要だ。やはり人様の作品からは何か教えてもらうという態度が必要なのだろう。最も私に欠けていることである。私のような小人に限って、そういうものだろう。そして、自分に正直ではないから、恋もできない。それに、もうそういう歳でもない。知人は、幾つになってもときめきがあるというのはいいことだと言ってくれたが。結婚詐欺のような経験を何度も繰り返しながら、それでもその人が慕われる。それが嘘でなければいいのだがと思っているものの、非現実的ではある。

 今から、11月、12月というのは長い日々になることだろう。私は文学賞の選に漏れるだろう。神様にしかコネがない。神様の喜ばれないようなものを書いた。所詮、無理である。ああ、無い無い尽くしは本当だ。何もないから書くしかないし、失恋したら書くしかない。失恋と言っても、皆さんはどのようなものを想像なさるだろうか。多分、泥沼のような恋愛模様を想像されるのではないだろうか。私の恋愛はネット上にしかないのである。面と向かっては何一つ言えない。いや、言ってきた。書いてきた。気持ちは表してきた。やはり実らぬ恋なのだろう。ああ、悲しい。いつも知らんぷりされるということは、やはり相手にその気がないからだろう。私は女一人で右往左往している女なのだろう。最前線じゃないか。書くことはたっぷりあるようだ。私は8月生まれで、ペリドットが誕生石である。その言葉は「夫婦の幸福」と言うそうだ。一番私から遠いものである。一人前にはなれない私だが、現今、未婚率が高くなってきている。自治体では婚活を促進したりもしているようだが、やめてもらいたい。私の書く小説の、シェアを奪わないでもらいたい。結婚できない人の増加は、私の仲間の増加であり、私の小説の読み手の増加につながるかもしれない。しかし、地方の一同人誌では目にも止まらないだろうか。選に漏れても、漏れなくても、結婚してもしないでも、私は書くしかない。自分を引き摺り出すようにして書くように、指導していただいた。今こそその時なのかもしれない。いつもなにがしかの不安定の中に自分を追い込むことが必要なのかもしれない。それしかない。ここまでお付き合いくださってありがとうございました。