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マリーゴールドの現実

「幻惑」から「現実」へ

インターネットはドストエフスキーを超えられるか

 google+だけではなく、フェイスブックもしばらくしたら、やめる方向で考えている。フェイスブック上で至らぬことを書いてしまったからでもあるが、どうもフェイスブックは自分で開設した覚えがないから、便乗は良くないだろうと思ってのことでもある。アカウントやパスワードを知らないから、消せないものもある。消せるもので消していないものもあるが、それはお礼のしるしである。基本情報を書き込んだ記憶はある。しかし私が書き込んだ通りではない部分もあったようである。しかしそれは、開設した人と直接関係はないかもしれない。私の思い違いかもしれない。基本情報を書いたということは開設したということなのだろうか。でもどうやってフェイスブックにたどり着いたのだろうか。今回開いてから初めて知った、自分のアドレスもあった。しかもそれは、フェイスブックというより私のブラックベリーの方に入ってくるアドレスである。@の後ろはfacebook.comとなっているが、ブラックベリーに入る。そういうものなのだろうか。私には訳がわからない。

 ブログを書いている人はフェイスブックTwitterやらをやっている人が多いようだ。私のようにパソコンに疎い人はあまりいないようだ。私は最低限のことしかできない。ここも、案外読まれているようでありながら、SNSでとり上げられることもないようだ。0なのだ。私はどうも蚊帳の外にされているようだ。私は人付き合いが悪いから、友人知人が滅法少ない。そう言いながらお年を召した知人が多いから、パソコンでやりとりすることはない。携帯でごくたまに電話したりメールしたりするぐらいである。そういえばパソコンユーザーもいらっしゃるから、以前、ブログ読みましたと言ってくださった方もあった。私は人に気を置かせるから、パソコンで付き合ってくれる人はいない。「マリーゴールドの幻惑」はとても恥ずかしいものだった。それに「マリーゴールドの現実」はもっと恥ずかしい。なにやら妄言ばかりである。

 学生時代の友人は、忙しい人だったりする。また、主婦の友人は遠くに住んでいるから、年賀状や暑中お見舞いでの繋がりだ。暑中お見舞いで、作品の講評をしてくれたりする。それに、ある遠くの知人とは携帯のショートメールのやり取りをするぐらいだ。先日彼女からメールがあったとき、電話をすればよかったのかもしれない。私はショートメールでお返事した。2、3回、やりとりした。やはり時間はありそうだったので、電話の方がよかったかもしれない。でも私は電話にはあまり自信がない。うまいことしゃべれないからだ。でもメールも時間がかかる。若い人のように片手でメールを打つことなどできない。私はまだガラケーを使っている。スマホに切り替える予定はない。世の中から携帯が消えたら、そのときには考えるかもしれない。あと二人とは絶交状態だ。

 フェイスブックで至らぬことを書いたのは、絶交している二人のうち一人についてである。詫状を出さねばならない。彼女は怒るだろう。今よりもっと疎遠になるかもしれない。しかしけじめはつけねばならない。このように現実で繋がりがあるまたは絶交しているという仲はありながら、パソコン上で付き合いはしない。若しくはネット上で繋がることはない。私のような寂しい者は、SNSで付き合ってくれる人も滅多にいない。知らない人に友達になってくれとリクエストしたって、そう簡単に認められるわけがない。やはり実際会ったことのある人と、本当の友人関係の人のみとやりとりする人が多いのだろう。私のフェイスブック上の起点になっている所へのチェックインは減ってきているようだ。考えてみると当たり前だが。

 私は人への尊敬の念が足りないのかもしれない。もちろん私自身、尊敬されるような者ではない。私の知人友人は立派な人々である。それでも私はシニカルな思いを持ったりする。それに私はネットで人との繋がりをそれほど求めてはいない。ある数少ない人々との交信を望んでいる。しかし、その人々とは交信できないのだ。リアルと携帯メールの狭間で揺れ動く私であるが、私は旧世代に属するのかもしれない。私の親は80歳代で、携帯電話を操るが、それも子供がいるからできるのだ。そばに子供がいなければ、80歳代で携帯を扱うのは難しだろう。情報貧者にならないように、パソコンを使ってきた者であるが、それでも私は情報貧者である。今の所、世の中で起きていることは、テレビ、ラジオで知っている。ネットとさほどのスピードの違いはない。放送局は放送局でネットを取り込んでいる。ネットも放送局は無視できないだろう。私はお金を払ってまで、通信社や新聞社の読者にはなれないので、読めるところは限られている。ほんのさわりの部分だけ読める。

 一体、google+フェイスブックにそれほどの期待がかけられるものだろうか。それもまた人の営みの一つであろうが、私にとってはやはりそれほどの期待は持てないもののようである。私にとってネットはドストエフスキー以上のものではない。このところ「悪霊」を読んでいて、昨日読了したのだが、ネットに書き込んで危機を知らせても、死んで行かれる方々はいらっしゃる。いや「悪霊」の中身を知っている人にはお分かりだろうが、ネットがあろうがなかろうが、知られるものは知られるし、口外してしまうことはあり得るのだ。始め、ドストエフスキーの作品の中身は、現代だったら即、DNA鑑定でもって、あるいは科学技術によってすぐに判明するだろうがなどと感じて読んでしまうが、あの時代だって、判明することは判明するという宿命にある。ネットや防犯カメラがどれほどの犯罪の抑止につながるだろうか。起こるものは起こる。やはりインターネットが軍事から生まれたものであるだけに、と言ってもインターネットは最初の民生のものの技術だと言われていたが、その後やはり軍事のものだったことは知られている。軍事は技術の温床だ。なんだか悲しい。私などはインターネットの本質は知らないが、その恩恵には浴している。このようなものを書いては、恥を書き散らしているが、なんのために書いているのだろうか。私の中ではある思いはあるが、それを書くほどのことはない。

 ここまでお付き合いくださってありがとうございます。