マリーゴールドの現実

「幻惑」から「現実」へ

SNSの両義性

 二転三転するが、フェイスブックは続けることにした。それというもの、ネットはもともとあやふやなものでありながら、しっかりしているところはしっかりしているからだ。確かに開設した覚えはないが、2013年以後のことはなんとか記憶を辿ることができる。しかも、書き込んだことが微妙に違っていたことも覚えている。その頃は誰と繋がろうと思ってしたことではない。2014年になると繋がりたい人が出てきた。友達リクエストも送っているようだ。google +では、40人ばかりは私宛にメールを送ってくださる方々がいらっしった。フェイスブックではそのようなことはない。ただスレッドが立っているだけである。メッセージを送ったこともあったけれど、どんな風に届いているのかよくわからない。その後、フェイスブックからブラックベリーにお知らせが届くことはない。google +では、私はどうもセンターになっていたようだった。私はそれが負担になっていた。やはりネットは軽やかでないと続かない。ブログも、ときどきお人の書いたものも覗くことはあっても、一人でやっているから気が楽である。

 ブログも私の書いたものは話題にもならないようだが、結構読まれているかもしれない。マリーゴールド云々という文言で、0.33秒ごとに10数万件の検索数のトップにきている。トップ3は私のブログで占められている。学術論文が多く引用されているものほど、いい論文であるというのと似ている。ただ私のは学術ではないので、人々の慰めにでもなるといいなと思っている。今、今季初めての焼き芋屋さんの売り声がした。と思ったら、何かの軋む音だったようだ。家人の知人から梨が送られてきた。みずみずしく、美味しい梨である。もうそういう季節である。夏は確実に過ぎた。私の人生の夏も確実に過ぎた。今気づいたが、はてな今週のお題は「結婚を決めた理由」だと書いてある。今までの私には無縁のことである。人生の秋を迎えた者が、結婚についてなにがしかのことが言えるだろうか。普通なら孫の話をしてもおかしくない年齢である。家の親には孫がいない。子であるものが一人前ではないことで、親までが一人前扱いされない。それはとても心痛むことだが、こればかりはどうしようもない。最近まで人とのつながりを重視してこなかった。google+でお近づきになれた人々とも、私がやめたことによって、途切れてしまった。幾つものSNSを股に架けている人々もあったが。私はとてもそんなに行動的ではない。

 ネット上、行動的であるということは、リアルでも行動的であるようだ。「マリーゴールドの現実」では、私は今後結婚するかもしれないようなことを仄めかしてきたが、実はよく分からない。「マリーゴールドの幻惑」時代には考えの端にも入れていなかったことだった。考えたことはあったが、実現するとは思えなかったし、現に実現しなかった。その頃とは違った文脈で、今は可能かとも思えるが、こればかりは相手あってのことだからよくわからない。今まで、はてなのお題に付き合ったことはなかったが、今回初めて付き合ってしまった。500文字づつなら、2000字で4段階に分けることができる。いわゆる、起承転結である。3段目で話を転じようと思ったところで、こうなってしまった。行動的云々をしようと思っていた。書くことも行動であるから、結婚も十分に行動といえるだろう。私の結婚以外に2組のカップルを予定している。これは以前書いたかもしれない。全部で6人の私どもは相手のことを知っているようで知らない。知らないようで知っている。ネットも少し絡んでいる。ここで、これらは妄想かもしれないと書いたら、いかが思われるだろうか。

 そこでSNSであるが、これが案外、曲者だ。フェイスブックに誘うおうとしたら、その者は google+に行ってしまった。google+でも関われるようになったかと思ったら、負担に感じていたので、フェイスブックを覗くと、その人がいた。その人は今度は、驚いて逃げた。それで不承不承ながら、google +を続けた。その後、そこでの共有をやめてくれたので、心置きなくそこを退出することができた。フェイスブックも頓挫しかけたが、その人の存在があったので、続けることが可能になった。でもこのような一連のことは、頭の中をぐるぐるしているだけのことかもしれない。ところでフェイスブックで居住地などにチェックインの数が出てくるが、私はそれを気にし過ぎるきらいがある。google +のときも数にこだわった。貧乏くじを引いたと思っても、後々の幸運にもなる場合があるらしい。私を選んだ人は貧乏くじを引いたかもしれないが、後々の幸運につながるといいなと思っている。SNS上で書いたことが、確実に伝わってきていることを鑑みると、ひょっとして妄想ではないかもしれないと思い始めている。

 素直に起承転結とは行かないで破格とする。なんと、妄想だと思っていることが、真実だと思っている部分もあると伝えると、却って喜ばれたりもするようである。私は危ない橋を渡っているのだろうか。両義性あると言ったらいいか、興奮にも鎮静にも、幻惑にも現実にも、その両方に引っ張られながらおたおたと歩いている。去年の冬、来年も変わらないだろうかと思っていた。変わらないようで変わってきた。フェイスブックを長らく休んでいたようなその人は、最近動き始めた。私に見えないだけだろうか。そうかもしれない。しかしメッセージは伝わっているようだ。用件を書くと、反応がある。来年もこのまま冬を迎えるかもしれない。その可能性は大きい。しかし真実は小さなものであろうか。私はお付き合いということをしたことがない。その割には作品中にはよく書くが、自分に経験がなくても、本は読んできたし、テレビや映画も観てきた。ロマンチストなのかもしれないが、だから小説を書いているのだろう。私は結婚した男女の結婚生活を書いたことも何度かある。恋愛だけでなくである。想像は未経験だから想像と言えるのかもしれない。それが創造に成るにはなにがしかの感動が必要かもしれない。感動の種はあるようでなく、ないようである。日々の変化を微かに感じながら、生きてゆくのもまたいいかもしれない。ここまでお付き合い下さってありがとうございました。