読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

マリーゴールドの現実

「幻惑」から「現実」へ

人間的な、

 私はお年寄りが案外好きである。過去知り合ったお年寄りの方が、ご病気になられて、手紙でも書いてくれと頼まれたので、かなり頻繁に出した。すると、あまりに多すぎたせいか、あちらは負担に思われたようで、不快の印象が伝わってきた。また別の方にお年賀を出したら、お年を召されすぎていて、お返事を書くことができないから、手紙は勘弁してくれと、お電話でわざわざご挨拶をいただいたこともある。もしかしたら不快だったのではなくて、ただ単にお返事できないことで、恐縮されていたのかもしれない。でも壮年世代でも人によってはあまりに頻繁に遣るのは憚られる。その場合は内容も重要である。こちらが良かれと思ってしていたことも、特にメールで遣り取りしていた場合、多分メール代金が高くついたせいか、あるときプツンと返事がこなくなったりする。勝手だなあと思ったが、私のメール代はそのとき家人に依っていたので、家人に睨まれてから初めて、メール代が嵩んでいたことに気づいた。彼女はその後ショートメールをごくたまに送ってくる。また、鬱っぽい友人にやっと連絡がとれたかと思うと、こちらの不注意で怒らせてしまったりした。私より若い人とは交信することはない。一人、一、二歳若い人がいるが、彼女とは固定電話で話し、手紙のやり取りになったりする。携帯電話での交信は避けられているようである。そういえば、私の愛する人は私より歳下のようだ。私がメッセージを送るのみで、返事は来ない。が、受け取られてはいるようだ。このように書いてくるとみなさんは私が胡散臭いものに思われてこられるだろう。実際、前述の人々には胡散臭がられているのだろう。だから私は胡散臭い奴なのだろう。私が宣伝するのは効果がないかもしれない。しかし、使徒たちは漁師だったりした。職業に貴賤はあるから、彼らは賤しい仕事をしていたことになる。だからキリストも敢えて彼らを選ばれたのだ。「わたしはあなたがたを人間をとる漁師にしよう」と仰ったその修辞は効果的だが、本当のところ彼らはそんなに頭の悪い人々だったのだろうか。弟子たちの愚かさは聖書に散見されるが、それは如実に人間的である。特別のことではない。ヘブライでは、ほぼ100パーセントの識字率であった。それは聖書に書かれてある。安息日には順番に〈任意にだったか〉地域の男たちが、聖書を朗読する。キリストもその文脈で聖書を読まれた。おまけに説教までなさった。そうすると、この人はどこでそのような知恵を身につけたのだろうか、この人はマリアとヨゼフの子ではないか、などと言い、キリストは、預言者は故郷では受け入れられない、と言われたのだった。しかし、それは説教についてであって、朗読なら誰でもしたのだった。ペトロやヨハネがご自分についてくる力量はあるかどうかは見極められただろう。ただ、彼らが人間的であることは見越しておられただろう。王位につかれたら自分たちを右と左に置いてくださいと、ヨハネとヤコブは言った。キリストがどのような国の王なのか、そのときには分かっていなかったのだ。しかし後から分かることもキリストは見越しておられた。弟子になりたいという人は断り、弟子になれと言われた人はついてこなかったりした。単純な描写に万感の思いを汲みとることができる。白髪は歳の冠という言葉がある。老人の知恵を重んじ、若い人の純真をたたえる場面である。一夫多妻制の世の中だった。私がなぜこんな書き方をするのか、聖書を読まれた方ならお分かりになるだろう。私は不親切だからわざわざ書かないが、聖書の「知恵の書」や「コヘレト」などをお読みになるといいだろうか。人が歳をとって弱ってゆかれるのは、はたから見ていて悲しいことだ。どうしてできないのかと思っても、しょうがないのだ。歳をとるということは、様々の能力が衰える。しかし、白髪は歳の冠と言われるように、素晴らしい側面もある。それが牛歩のようであっても立派なものだろう。お歳を召された方々の素晴らしさは、弱さと威厳が入り混じっている。歳を理由に勘弁してくれるように言うのは、パウロに始まったことでもないだろう。パウロこそ優れた人だったが、初めは迫害する人だったのだ。彼は復活したイエスに出会った人であるが、パリサイ人中のパリサイ人だった。よくパウロはイエスの教えからずれていっていると言われるが、パウロという人を通して伝えられるのならば、パウロという人の人格が用いられないはずがない。もう聖霊の時代になっていたのだ。キリストの人としてのご人格とは違って当然かもしれない。イエスは大食らいの大酒のみと称された。一方パウロは禁欲的である。どちらも結婚はしなかった。いろいろ取り沙汰はされているようだが、私は伝統的な立場に立つ。ホモセクシャルな人もごくたまにおられるかもしれないが、そうではなく、生涯を独身で働かれる人々が現実におられることを考え合わせると、ましてやキリストはと思う。キリストは歳をとる前に死なれたので、歳をとるとまた違った教えになったかもしれないと聞いたこともあるが、私にはよくわからない。ただ、私の主治医などは、ご自分の歳とった父親についてとてもよく理解があられると思う。これもまた人間的な想像力の賜物だろうか。ここまでお付き合いくださってありがとうございます。