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マリーゴールドの現実

「幻惑」から「現実」へ

余計な事柄

 暖房を切るのを忘れて眠ってしまった。なんとも言い難い罪悪感にとらわれる。無駄にエネルギーを使ってしまったという公共心と、無駄なお金をかけてしまったという残念さとが押し寄せてくる。しかし今も暖房を切ることなく、これを書いている。寝起きにブログを書くのは初めてではないだろうか。19度に設定しているので、さほど暖かくない。エアコンはスースーする。エアコンなので火事になったりする心配はないが、一冬に2、3回はこういうことがある。そういえば昨晩は、胃が痛んで調子が悪かった。胃薬を飲んでうだうだした挙句であった。

 カレンダーを新しくした。旧年、つまり今年の12月からのっているものである。手帳も新しいのを用意している。だがまだ1か月あるので手帳は古いのを使っている。新しいのにも最低限の予定は書き込んだ。私のようなものでも手帳は必要である。学生時代、手帳をつける習慣はなかった。手帳をこまめにつける友人がいた。私は当時は書きつけなくても覚えていたし、さほど予定らしい予定もなかった。手帳をつける友人は、予定の多い人だった。そして成績の良い優等生だった。私は手帳に何か書き付けることがあるという事態を羨んだ。私の学生時代は惨憺たるものだった。

 キリスト者の学生の集会に行き、教会に行くぐらいしか学校以外では用事がなかった。当時は柄にもなく福音派の教会に行っていた。全く柄にもない。しかし教会生活は楽しかった。けれども芸術や特に文学の話ができないのはつまらなかった。その教会の牧師さんがそういう方面に明るくないということもあったが、教会自体が芸術には重きを置いていなかった。それは私にとって半分しか生きていないことになる。本好きの私には本の話をする人がいなかった。残念なことだった。今は私はカトリック者だが、当時の教会の一部の人ともまだおつきあいさせていただいている。そしてその方が愚作を読んでくださる方のお一人である。その方はこの地の路面電車の始発からほぼ終点に近いところまで出勤されていた方で、その間本を読んでおられたようだ。途中で職場の移転で近くなり、あまり本を読む時間がなくなったそうだ。それで小説は一年に一回愚作を読むだけになられたという。その方はよく本を読まれる方であるが、本のことは教会では話されなかった。医師でいらっしゃるので理系だが、さすがにお勉強されていて、愚策の評に「古今和歌集」の仮名序を引いてくださったことがある。教会では話す内容が限られている。そういうものだ。特に政治の話はしない。それは日本の教会の美徳でもあろうか。アメリカでは福音派ティーパーティーの政治活動の話があったぐらいだ。

 日本のプロテスタント教会では政治色は好まれない。政治のことは個人的な問題とされていた。カトリック教会ではそういうわけではない。しかし創価学会公明党のような間柄ではない。当たり前だが。

 もう私の歳では老境に入り、私より若い世代の人が政治家になったりしておられるようだ。甲子園を見ていた時、高校生のお兄さんたちが、と見ていたのがもう随分私より若い世代で、それは甲子園に限らず、どんな世界も私より若い世代が頑張っている。人生も秋となった私であるが、これまでのんびりと過ごしてきたが、ただのんびりしていたわけではない。この瞼の奥に焼き付いていることはある。この2、3年でどうにかしたいと思っている。私は長らく休んできたが、ある意味休みながらもやってきたことはあるので、どうにかならないかと思っている。勇気を奮ってやってゆきたい。どうも私は余計とされているものを好み、それを生業としたいとさえ思っている。しかし一人ではどうにもならない。基本的に一人だが、人間を書くからには一人では済まされない。関係性の中で起きることだからだ。人間は完全に一人ということはあり得ない。人付き合いの悪い私であっても、人様に厄介になっている。ここまでお付き合いくださってありがとうございます。