マリーゴールドの現実

「幻惑」から「現実」へ

夢想する私

 夢想するということは、悲しくも楽しいことである。夢想するのは満たされていないからで、悲願の要素がある。そして願っていることを手に入れた状態を想像して楽しむのである。寒い冬には暖かい着物や、寝具に包まれることを願う。今、持っている古びたものには飽きたりてはいない。本を読んでは知識のなさを省みて、この本を読んでいたら、と残念がる。そして本ぐらいだったら、図書館に行ったり、本屋さんに行ったりして調達して、暇があったら読むこともできようか。寝具はありあわせのもので、どうにか暖かくしているが、服となると経済力がよく現れるところではないだろうか。日本の地方のお年寄りは、皆似たり寄ったりの、地味な服装をしている。日本のお年寄りはさほど豊かではないのだろうか。それとも、戦後の貧しい時期を通過しているから、贅沢はできないのだろうか。お年寄りは身綺麗にすることを願ってはならないのだろうか。先日亡くなられた平良とみさんの生前の録画を見て思ったことは、ピンクの口紅がよくお似合いで色っぽいなという感慨である。素敵だなと思った。私のよく見かけるご老人たちには夢想するということがないのだろうか。私自身、初老の年代に入って、美しくありたいという願いは強まる一方である。若い頃はかえって構わなかった。服装には少し気を使ったが、肌の手入れなどには無頓着だった。私は学生の頃はまだお化粧はしなかったし、基礎化粧もほとんどしなかった。今とは時代が違うのかもしれない。私の若い頃には今のように何から何まで揃ってはいなかった。私はニキビ肌だったので、母が洗顔クリームのいいのを買ってくれたりもした。でも手入れはしなかった。初老のこの歳になると、かえって肌を気にしたりする。気にする暇があるだけだろうか。その割にはマメに洗顔しないし、基礎化粧もさほど行き届いてはいないのだが。お化粧は外出するときだけするし、服装も外出するときだけまともに考える。ただ私の外出先は飾り立てて行くほどもないところであるのは、普通だろうか。まあ、おかしくない程度に考えるだけである。慎ましく暮らしたいとは思うものの、このような調度品に囲まれて暮らせたらいいなと、カタログを見ては嘆息する。家よりも劣悪な住環境の方は案外いらっしゃるだろうが、築45年の家には不満も多い。3階建てのビルなので平家の広い家を夢想したりする。「本朝文粋」に家の図面を引くのが趣味の男が出てくるが、私も実際、図にしたりしていた時期があった。そういえば高校生の頃までの私は、性欲の充足に満足できない状況に明け暮れていた。性に対して知らない夢想をしていた。それが大きかったようだ。この歳になると性欲はほぼなくなるし、他の所有欲や何かが出てくる。あんな暖かそうな寝具に包まれて眠りたいとか、こんな素敵な服が着たいだとか、こんな部屋でこんな調度品に囲まれて過ごしたいだとか、そのような低級な夢想にあふれている。実際は買えないことが多いし、代替品はボロでもある。同じことなのか知らないが贅沢に暮らすというより、美的に暮らしたいと思う。いらないものは全部捨てたい気がする。少ない品数で、あっさりと過ごしたい気がする。45年も経つと余計なものがたくさんある。我が家の食器棚には使わないお皿や器がたくさんある。もっとスリムに暮らしたい。冷蔵庫の中だってもっとすっきりしないものだろうか。カタログを見てはこれが欲しい、あれが欲しいと思っていたが、それがならないとなると、余計なものは捨てて、身軽に過ごしたいという欲求が高まる。そのように夢想する。廊下に積まれている不要な品々はなくなり、収納庫にきっちりと収まり、無駄のない生活。家族の中でそれにほぼ成功しているのは私だけである。その私でもまだ捨てたいものはある。着ることのない服をまだ持っている。いつか着ることのできる体型になるかもしれないという思いでとっているものもある。この歳になってはほぼ無理であろうことはわかっている。だから次の機会には手放そうと思っている。来年の末の話である。グレードアップしたものを持ちたいという欲、叶わないならもっとすっきりと過ごしたいという真っ当な欲。夢想の種はあれこれある。そして何と言っても、この歳になってもできる仕事で稼ぎたいという不遜といってもいい欲がある。しかし現今、私のようなふらふらしたものには与えられそうもない仕事である。夢想と欲は切り離せないだろう。しかし夢想は欲とは違って、楽しいものである。夢想は夢想に過ぎず、それ自体人畜無害だが、夢想に浸って半日を潰すという時間の無駄をもたらす。夢想は日常的になると困る。夢想はお祭りのようでなければならない。普段はちまちまと暮らさねばならない。その暮らしをもうちょっと美的にしたいという欲とも夢想ともつかないものは、捨てることしかないような気がする。しかしそれがまた贅沢であるとも言える。捨てるということは贅沢なのではないか。だから、捨てるというより、お譲りしたいという気がする。私の夢想などごくつまらないものだが、理性と情緒の織りなす祈りにおいてはもっと真っ当なことを祈っている。世界の平和や人々の幸福などなどである。人間の精神生活にも様々な局面がある。この小説を読んでいないのが悔やまれる、あのエッセーを読んでいないのが悔しい、今からでも読もうかなどと思う。だがもう初老の域である。万巻の書がある中でどれから先に読むべきだろうか。残された時間はあまりない。読んだからといってどうなるか。私の望む職業には欠かせないことであるが、読む順序には序列がつけられるだろう。しかし夢想を捨てるわけにはゆかない。夢想は我慢することをもたらし、その前に豊かな気持ちに少しなりと浸ることができる。ままならない世において、人間が人間らしくある満たされなさの良き発露ではないだろうか。夢想はなんでも実現してしまっているという非人間的状態から人を救い出すものなのだと思う。人間には100%はないのだろう。してみれば、夢想だにしないことが起きる可能性はいつも残されているのだろう。冒頭お年寄りの身だしなみのようなことを書いたが、それだって夢想することさえしなくなったら、平良とみさんのようではあり得ないのだろう。噂話に明け暮れて、自分ではよくしようとはしないならば、無駄に歳を重ねることになる。夢想する暇があったら実現のための努力はするべきかもしれないが。噂話も情報交換であるが、なんでも洗練されたものとそうではないものがある。やはり上質を求めるのは人間の性だろうか。陶潜のような人間は貧しい中でもその情緒と知性を開いていたのだろうか。逆よりはいいかもしれない。おそらく私は貧乏とは切っても切れない仲なのだろう。人一倍、富への執着はありそうだが、貧乏に生きている。神様は良きにしてくださる。時期が来たらそうされるだろうか。いい人間になりたいと夢想することはあまりないような気がする。そのような殊勝なことはない。私は知られているようで知られていない、知られていないようで知られている。私自身がどうにかなるというより、人様に委ねるべき問題かもしれない。ここまでお付き合いくださってありがとうございます。