マリーゴールドの現実

「幻惑」から「現実」へ

元旦から揺らぐ

 元旦に計を立てたことなどない。それだけ漫然と過ごしてきたということかもしれない。この文章でもそのようなことは考えにない。元旦とは限らず、計画を立てることはよくある。しかしいつものことながら、計画倒れである。三日坊主という言葉があるが、まさにそれである。計画とはちょっと違って、定期購入というものをしている。向こうからやってきてくれるものだが、これもよく期日を伸ばす。ただ雑誌の購読などは毎月やってくる。しかしそのおかげで、少しは文字を読む。大学生だった頃とは違って、本もひと月に一冊ぐらいしか読まないので、それぐらいは縛りをかけねばならない。そういうのが二か所あるが、どちらも文芸誌である。その二冊は性格を異にしている。片方はやや商業化された文芸誌であり、もう一方はほぼ書きたい人が読む文芸誌である。前者は文藝春秋社、後者は大阪文学学校のである。後者のは季刊誌しか読まない。他の八冊はあまり読み込まない。私は読むのが遅いので、あまり大量には読めないからだ。それに集中力もなくて、いつの間にか字面だけ読んでいたり、読み始めたかと思うとすぐにパタリと本を閉じるということを繰り返す。私の人生はそのような読み方に象徴されている。本を読むという最低限のことは、連綿と続いているが、途中でパタパタ休みが入ったり、上の空だったりする。それに長い間、本を読むこと自体、殆どできない時期も長かった。それが少し回復してきたのがこの十年ほどである。子供の頃読んだ本の影響というものは読む方向性を決定づけている。なんでも読めるということは私の場合ない。おのずと読むものは幅が狭くなっている。子供の頃、川端康成の「千羽鶴」が読めなかった。「千羽鶴」はご存知の通り短い作品である。難解でもない。しかし日常的にロシア文学などを読んでいた若かった頃には、どうしても読めなかった。ロシア文学は若者の文学である。「千羽鶴」は少し頽廃の様子がある。私が受け付けなかったのはそういうところである。そういえば同じロシア文学でも、また同じ作家でも、読めなかったものがあった。「千羽鶴」も「悪霊」も近年読みおおせた。「悪霊」は途中で何度もパタパタ閉じたが、なんとか読んだ。「千羽鶴」は一気に読んだ。読めなかったものが読めたときには達成感がある。少しだけ人間の幅が広がったような気がする。キリスト教的価値観で貫かれながら、ギリシャローマ神話の素養がないとなかなか読めないゲーテに関しては、無知からくる狭量さで読めなかった。私はよく字面だけ読んでいることがありながら、内容が理解できないと殆ど読めないたちである。わからないながら読むだけは読むということができない。多少はわからなくても読むが、自分なりに許せるものでなければならなかった。一応、過去形である。最近は歳をとったせいか、読み始めたらなんとか読んでしまう。人との付き合い方もそんなものだろうか。私が選ぶというより、出会った人々に、付き合ってもらっているというというのが正しいが、読書傾向から察するに、大概の人とときどき衝突しながらでもやって行けるということなのかもしれない。無論、私の知人たちは頽廃的なわけではない。昔からの友人たちも、最近出会った人々も、読んではいなかった本のように、読んでいた本も含めて、やはり他者である。他者というものを意識すると、途端に固くなる私だから、本との出会いもままならなかった。人との出会いは察するに余りある。歳はとってもまだまだごつごつしている私は、高校生ぐらいの精神年齢かもしれないが、普通は高校生にもなると、もう大人の部分が出てくる。やっとそれに近づいたのかもしれない。そういえば、若者の若者らしい頽廃を自分自身が、なしてきていた。頽廃にもいろいろあるのだろうか。時期がちょっとずれただけで、大きく人生を左右する時期であるから、自分自身を慈しんでやらねばならない。自分の歩いて来た道を肯定してあげようか。否定してもいいのだが、同じことである。自分自身を愛するがゆえである。自分が受け入れられるようになれば、どうにかなるかという展望がある。自分がいかに無知であるか、つくづくと感じる昨今だ。若い頃はそれなりに物知りだと思っていた。しかし今は全くそう思わない。それは人様から見たら明らかではあるが、なにせ以前は人々を「幻惑」していたものである。うまく人を騙していたのかもしれない。いや人々は騙されはしない、私は孤独だったのだから。自分自身を愛することができるようになったら、ものごとの始まりのような気がする。いや、私はまだまだ自分が受け入れられない。人様の愛も受け入れることができない。大きな口を叩いた。今そのことで日々すったもんだしている。私もまだまだ成長期らしい。揺らぎそのものの中にいる自分を発見する。愛の対象の焦点は定まっているのだが。