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マリーゴールドの現実

「幻惑」から「現実」へ

信仰と文学と護教論

 前回の元旦に書いた状況と今の状況は何一つ変わっていない。だから今書くべきかどうか迷った。しかしここはもともと、自分自身について語るところではなかったはずだったのだ。「マリーゴールドの現実」に成ってから、自分を語ってばかりである。こんなのは自分でも嫌である。

 最近「文學界」の2月号が来た。4月の初めに来る5月号には新人賞に輝いた人の作品が載る。3月の初めに来る4月号では予選通過者の氏名、作品名などが載るらしい。だから2月にはほぼ予選通過者はわかるのではないだろうか。この1月14日現在でも、もうわかっているかもしれない。

 しょぼくれている自分が見えるようだ。だが運動はするだろうし、朝ご飯も作って食べるだろう。昼ご飯も、夕ご飯も規則的に食べるだろう。こういうとき、家族がいるというのはありがたい。すっからかんでも、物事は動く。動かしてもらう。自分だけではなく、他者の命がかかっているということは、強いことだ。ゴミ集めをしながら、ああ、もうとか思いながらもやり通すだろう。ポットにお水を注ぎながら、ああ、もうと思いながらもやり通すだろう。

 だから私には活計がない。あと一年我慢できるだろうか。もう来年度の作品は3作目を作っている段階だ。推敲作品も入れれば4作目ということになろうか。準備はいいのだが、雑である。そして、真実な部分を削除したりしている。

 「パンセ」で有名なパスカルは坊さんだが、「パンセ」も護教論だという人々もいる。彼はジャンセニストだが、厳格さで有名な派である。その彼の「パンセ」をなんの疑いもなく読んだ少女時代だった。疑うということは知らずに、ただ読めないなと思うと自分の頭が悪いのだと思った。しかし「パンセ」は読めた。今は人口に膾炙している「人間は考える葦である。しかし云々」ぐらいしか覚えていない。読み返すということは殆どやらない私である。暗記するほど読み込むという人の気が知れない。そうはいっても、読み方が遅いので、冊数も読んではいない。のちに誰かの評論で、「パンセ」が護教論だと書いているのを読んで、そんなに簡単に片付けてもいいのだろうかと、素朴に思った。読んでいたときには、宗教のことは一切考えなかったからである。私はただ人間というものを考えにおいて読んだ。それは私が当時仏教徒だったからかもしれない。神という観点がなかったのかもしれない。カトリック者となった今でも、私の語り口は神観点ではない。育ちというものは争えない。自分では神観点で書き出したはずだが、そうではなくなっていることがままあった。いつの間にか登場人物の観点になっていたりする。今では始めから神観点は捨てている。

 私は護教論だけは書きたくないという思いは持っている。それは私が真面目な信者ではないということに関係するが、信仰心があまりに単純だからでもある。「パンセ」のような奥深さは持ち合わせない私であるから、すぐに護教論であることを見破られるだろう。それなりに教えは護りたい。しかし私に残っている無頼漢じみたもの、不良の部分、そういったものが、自分の単純さをどうにもできないで、ただ自分自身で唖然としている。しかも、私は神様も護りたいが、教会というこの世の国、この世の国というのは神に反するという意味ではなくて、この世での神の姿とでも言おうか、そういった方法のようなものをも弁護したいところがある。多くのカトリック圏の作家が神は信じても、教会は敵に回したのとは違うかもしれない。坊さんたちをないがしろにするところは、まま見かけられる。私はむしろ科学者で信仰者である人々の信仰心に近いところがあるかもしれない。信仰について言は弄さないかもしれないが、単純に信じているというあり方である。言は弄さないと書いたとき、自分を恥じた。私は言葉をよく、もてあそぶからだ。そういえばパスカルも科学者でもある。気圧の単位に名前が残っているぐらいだ。子どもの頃「パンセ」を読んだときには宗教臭さを感じなかった。宗教など意識もしていなかっただけかもしれない。日本人がビートルズを受け入れるようなものかもしれない。いいものはいい、それだけだ。モーツァルトはいい、それだけだ。

 この文章は一体どこを目指しているのだろうか。闇雲に書き始めたが、護教論という言葉を自分でレッテル張りしながら、自分に嫌気がさしている。それにしても私は多重人格者であるから、多様性のある人物たちを書けるのではないだろうか。一人の中での多様性もさることながら、いろいろな人物を書き分けること、そういった試練を乗り切りたい。そしてそういったことは昔からなされてきた。教会なんて胡散臭いと言って切り捨てるのは簡単だが、ボロボロの教会に敢えて居続けることは、案外、立派なことではないだろうか。教会はボロクソな扱いのされかたである。それは文学者だけではなくて、どこにもいる信徒のだれかれにも見受けられる態度である。

 キリストの神秘体とはよく言われることだが、教会はその具現化したものである。教会にはさまざまの役目を負っている人々が集っている。身体の他の部分が尊いとか卑しいとかは言えない。プロテスタントの教会堂には祈りには行かないが、カトリックの教会堂には祈りに行くのはなぜだろうか考えた人がいた。それは、御聖体が安置されているからだろうと、その人は結論付けた。そうかもしれないが、祈りは生活に根ざしたものでありながらも、そこから遠くありもしなければならない。そこが聖なる場であるからには、生活とも切り離せないのだが、キリストが祈るときには扉を閉め、一人で祈るように言われたことと、関係がありそうだ。実際には扉が現にあるかどうかどうでも良いのだが、そういった意識を持つということは大事なことのようだ。または聖なるところなど存在しないという側面もある。それも理がある。私たちはそういったデリケートな問題を、バランス良く運んで行かねばならない。なんといっても人の救いがかかっている。それが大事なことかもしれない。きりがないのでここまでとする。お付き合いくださってありがとうございます。