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マリーゴールドの現実

「幻惑」から「現実」へ

社会病理と個人的病理の狭間で

 世の中には奇怪なことがある。普通、精神病者は奇怪だと思われている。しかし、その周辺でもっと奇怪なことが起きる場合がある。金融機関は、契約者が精神病であることを知ったら、そしてその人に莫大なお金があったとしたら、どうするだろうか。このお金の行くへはどうなるのだろうかと、想像を巡らすかもしれない。このお金があったら、とも思いはしないだろうか。誰かにそのほんの一部を握らせて、何かあった場合の罪の擦りつけどころとして用意して、闇ではもっと大きな金が、国、地方を問わず流れているかもしれない。日本には病床がある。急性期の人には、あるいは必要かもしれないが、未だに社会的入院がまかり通っている。イタリアでは病床数ゼロである。偏見が全くないとは言えないかもしれないが、それだけ精神病者に対して誠実であろうとしているように考えられる。世の中から全く遮断されるというのは、古い治療方法上、考えられたことだった。しかし、彼らの社会復帰はそれによってむしろ難しくなる。もし情報がなかったら、病者は妄想を膨らますだろう。情報からの遮断より、正しい情報が与えられる方が、まだしもである。情報を歪んで受け取るという特徴はあるかもしれないが、もし愛があるならば、病者の不安はそれなりに拭われるだろう。日本社会では病者は、復帰しないものと考えられている。正しい知識が愛をもって伝えられるなら、飲みたくないお薬も飲むことだろう。お薬を飲むということは、病識がある程度あるということを示す。つまりお薬を飲んで生活するということは、精神病、身体の病に関わらず病識があるということである。たまに誤診ということもあるが、それは一旦、置くとして、日本ではお薬を飲むとうこと自体、よくないことをしているという思い込みがある。妙な精神論である。お薬はあまり飲まない方がいいよと、健康な人はよく言いがちである。病気とは一体なんであろうか。病気とは珍しいことではない。生きとし生けるもの全てかかるものである。植物も。健康という状態がある。その状態だから病気もある。お薬を飲みながら生きるということは身体の病気ばかりではない。当然精神病もである。お薬を飲むのはある程度病識があるのである。ということは、ちょっとおかしいかなとう気分をもっているということである。そして人間として、ちょっとおかしいかなという気分を持つことは、日常であるべきなのだ。健康な人は却って不問にする。病気だからそれができるという場合がある。キリスト教の世界では、毎週毎週「全能の神と、兄弟の皆さんに告白します。私は思い、言葉、行い、怠りによって度々罪を犯しました。聖母マリア、全ての天使と聖人、そして兄弟の皆さん、罪深い 私のために神に祈ってください。」と告白して祈る。つまり、自分は罪人だと言っているのである。これが言えない人は自分が罪人ではないと思っている人である。ただこの宗教じゃないので、この言葉を知らないということはありうるが、自分は無辜であると信じて疑わないという人は、少なくとも私の目から見たら異常である。職務上の罪を犯す人は案外いるものである。ちょっとした出来心というものだろうか。知らないで犯すのだろうか、知りつつ犯すのだろうか。金融関係の職場は信用が一番で、その採用はそれが重んじられていると聞く。しかし同じ人間である。集団で知りつつ犯す罪というのはありうるだろう。気付かれなくてよかった、という程度の人は案外いる。国のトップがやっていることだからということだろうか。しかし日本は独裁国家ではないはずだ。そういう人々は北朝鮮の人々とあまり変わらない心象と言えるだろうか。精神病者には、なにをしても許されるという風潮もあるかもしれない。それは職務上、やってしまうことかもしれない。人の心というものは、言われなければわからないというところがある。気づいているようで気づいいていない。そうして、ニュースなどでなにか発覚した罪の人をなじったりする。実は自分もやっているということは大いにありうる。人間とはそういうものだ。精神病者はつまはじきだから、彼らにはなにをやってもなにも言われない、彼らの言っていることは信用されないだろうという楽観があるのだろうか。日本から精神病棟が消えないのは、金融機関の存在が大きいかもしれない。通いの人よりも入院している人には経済的に豊かな家庭の人が案外いる。お金というものは魔物である。金融機関は社会的入院の推進者ででもあろうか。これは日本社会の特徴だろうか。日本だけではないだろうが、先進諸国では病床数は圧倒的に少ない。日本の現場で働いている医療者は日本という社会の中で、忙しい毎日を、その社会のあり方と向き合いつつ、医療をやって行かねばならない。日本は縦割り行政だから、金融のことなど、医師がいろいろいうことはできない。しかし誰かが突破口にならねばならない。おかしなことはいろいろあるが、金融という堅い場面でも、おかしなことはある。安倍や麻生がしていることだから、我々も許されるだろう、などと職業倫理もなにもない人々はいる。私は窓口業務の可憐な女性たちをターゲットにしているわけではない。もっと裏の輩である。男性職員なら平でも知っているかもしれない。気付かれなかったと思っているのだろうか。日本には今のところ、言論の自由はあるのだ。いびつな社会ながら、中国程度のネット環境ではない。これは放送局でもないし、一つ一つを鑑みられるようなこともないだろう。