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マリーゴールドの現実

「幻惑」から「現実」へ

病、犯罪の内在

 なにかものごとがうまくゆかないとき、人はどういった思いを持つだろうか。大概は、自分になにか足りないところがあったのだろうかと、吟味する。しかし私のような誇大妄想狂のものになってくると、なにか社会悪があるのじゃなかろうかとか、誰かがなにかやらかしたのではないだろうかと、考えがちである。まがりなりにも小説など書いていると、誇大妄想狂の世界が繰り広げられることが案外あったりする。ただ平凡な日常を平明なタッチで描く作家さんも大勢いらっしゃるだろうが、創作小説などは、何かが起こるという場合が多い。その点、私の小説などはいたって平凡である。実生活では誇大妄想狂なのに、創作の場では常識を働かせる。全く世の中はおかしな構成になっている。そういうわけで世のまともな作家さんたちはおかしな人ではなかろうかと勘繰られたりする。私は先日、全く自分のことではなくて創作を書かれるのかと訊かれた。それは例えば、私の創作物「おしゃべり機械」なるものを登場させたことにも拠る。それは、自分の喋っていることや考えていることが表面的には体裁を整えていても、本当はその言葉の裏には、なにかが隠されているのではないかというので、その「おしゃべり機械」が、つらつらと表面上の考えを表出したあと、ある鳴り物がなってからあとに、本音が繰り広げられるという設定である。実は私はこのような着想は、ある時期の夢うつつの中で目覚め直前、つまり夢のような形で自分が体験したことに拠った。綺麗に整った考えの裏が発表されるのは、スリリングである。ごくたまに本音も素晴らしいときもあった。だが大概の場合、お恥ずかしいことになるのは、それは実は多くの人に共通するものではないだろうか。私の本音を聞いた聴衆はそんなもんかなといった体で、特に非難するでもなく去っていった。私はここで聖書のある箇所を思い出す。貫通の現場を捕らえられた罪の女が、人々によってイエスのもとに連れてこられて、この女を石打ちの刑にするか、赦してしまうのか問うた。イエスが律法を無視して、愛の教えを主張するのか、それとも愛の教えを引っ込めて律法主義に従うのかどうか試したのである。よく知られているように、イエスは罪のないものから石を投げなさいと言われた。すると誰も石を投げずに去っていったという記事がある。この人々と、私の本音を聞いた人々はどこか似ている。イエスの存在はないが、聴衆自ら判断して、まあ、そういうもんだよなといった具合にことは進むのだ。本音というものは恥ずかしいものである。立つ瀬もないぐらいである。どういうことが語られたか今は記憶にないが、ああ、そこは言わんどいいてくれと、何度思ったことか。だが私は晒された。しかし誰も私を非難しなかった。そういう夢うつつの頃合いの想念が、私にそのようなことを書かせた。言葉の裏に隠れた本心というものは、私たちはごく日常的に本当は意識している。お世辞、お追従、卑下、その他諸々、本音を意識しながら私たちは生きているのではないだろうか。つまり私たちは社交しているのである。場合によってはお天気の話で終わるというのはそれが最も安全だからである。政治、宗教などには普通は話を及ぼさないものである。自分と他人は違っていることが多く、諍いの原因にもなるからだ。しかし、諸々の事象は違っても、人間心理は共通するということはある。そんな風に私たちはできている。違っているように見えるものも実は同様の見解だったりする。争っているのは違うと感じている本人たちだけということは歴史上よくあることである。しかし、私たちは独自の見解というものに固執している場合もある。学問の世界、芸術の世界、スポーツだってそう言えるかもしれない。独自のものという挑戦し甲斐のあることはあるものだ。しかし何事も先行するものを踏まえているということは言えるだろう。つまり継承発展なのだ。自分の足りなさを感じるのは至って健康なことである。それでも、誇大妄想狂の世界もあったほうが面白い。実際になにかで世に出た人は、独自のなにかを持っているのだろう。私のような能力に欠けた誇大妄想狂は、実は危ないのだが、思いとどまっているのはなんとか適応しているからだろうか。ルールに反しない限りで、いろいろと試してみたりはする。んなことわかり切ったことじゃないかということを、わざわざ試してみたりする。おかしなことだがと自分にもわかっていながら、そうせざるを得ない気がするのは、弱さがあるからだ。ひょっとして皆さんそうだろうか。イヤ、うちの至って健全なる家族は、私のようなことは考えもしないようである。あっさりとできている。私は粘着質なのだろうか。そうかもしれない。うちの家族といると、私の異常性があぶり出される。やはり私は単なる誇大妄想狂なのだ。単なると言えるのは、犯罪には至らないからだが、世の中の犯罪者と自分を分ける線は何処にあるのだろうか。確かに行動には移さないという面はある。しかし、ルールに反しない限りの行動はあるのだ。とするとあまり違わない。違わないのだろう。やはり犯罪を犯してしまった人々を、糾弾できるものではない。それはよくわかっている。だから私はニュースを見ても、なんの感想も言わない。最近よく出てくる、つじつま合わせの企業犯罪には、特に忸怩たるところがある。その場にいたら私もそうしそうだといった思いがしきりにする。やはり問題として出てくる企業体質といったものは、人間の本質的なところに根ざし、個人個人の本質的な部分に関与しているのだろう。だから線引きはできない。また健常と病との差もはっきりとはしない。せいぜい病識を持つことに、救いがあるような気がする。誇大妄想狂の私が申し上げるのは、甚だ困難だが。キリがないのでここで終わるが、ここまでお付き合いくださってありがとうございます。