読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

マリーゴールドの現実

「幻惑」から「現実」へ

言葉、もろもろ

 昔の作品を見返すと、いやあ、ひどいものである。よくあんなものをいけしゃあしゃあと投稿していたものだと思う。あれで昔は自信満々だった。今もさほどに上達はしていないが、もうちょっと謙虚にはなってきた。今は自信もなく、これだけしか書けないから仕方ねえ、と思って投稿する。私に文筆の才がないのは、これを読まれても明らかだろうが、ここも楽しみながらも、一種、義務感で書いていることは、いつか書いた。最近、読書ができない。たて続けに投稿していたからでもあるが、少し時間があると、ぼんやりしていることが多い。いかにも休憩である。しかし書かれる方々は、書くためには必ず読書が必要なことを言われるのは共通している。私はインプットが足りない。最近変わってきたのは、古典的名作は読めなくなっても、同人の方の原稿や、刷り上がった冊子なら読めるようになってきた。多分、古典的名作も読みはするだろうが、角田光代さんの読書量、読書範囲の多さ広さに驚いたりする。最近「罪と罰」を読まないで「罪と罰」を論じる、という企画があったが、ご活躍中の作家さんたちでも「罪と罰」を読んでおられない方がいらっしゃるのだと、少し胸をなでおろした。「罪と罰」なら私は読んでいるが、「失われた時を求めて」は読んでいない。「消え去ったアルベルチーヌ」を読んだだけである。大体、私はロシヤ文学ならある程度読めるが、フランス文学は苦手である。作家になろうとする人で「失われた時を求めて」を読んでいないということは、ありえないことのようである。私はカフカの顰に倣って、分かち書きをしなかったりすることも多い。今日もそうなりつつある。よろしくないところは真似て、読書せよなどの正当な意見には従わない。私の脳は、読む脳も、書く脳も同じのようである。書いたら休まねばならない。その疲れは読むことでは癒されない。多くの作家さんたちは、休むために読まれるのではなく、書く上での必要もあって読まれるのだろうが、私に限って言えば、昔から読書は私の休息だった。だから今の私は変質してしまっているのだろう。しかしよく考えてみると、私が書くのは自分が癒されるためのようでもある。書くことは、言葉を用いるので、脳のイカれた私は、書くことによって自分を治療しているのかもしれない。休息するために人々はいろいろな活動をする。スポーツ然り、音楽然り。身体などを動かすことによって、人は休息する。あるいはその観戦、鑑賞などによって休息する。やはり私は特別ではないようだ。書くことによっても、読むことによっても癒されてきたのだろう。人がさまざまの職業で疲れて帰ってきながらも、それが原動力にもなって誇りを持つように、仕事によって人は生かされているのだろう。人が病気になったりして仕事ができなくなると、初めは嘆くことだろう。しかし、私ども人間は、人様の仕事を観たり聴いたりするだけでも癒される。それがスポーツ、芸術の役割でもあろうか。また病みながらそういう活動をする人々もいる。書くことと読むことの間のように、あまりそこには界はないのかもしれない。人間らしい文化的生活を送ることは、日本国の憲法で最低限守られるはずなのだが、この日本でもそれは完全にはなされてはいないだろう。しかし、私ども人間には「夢想」という逃げ道がある。夢想することによって、人はしばし楽しむことができる。なにかの罪を犯して、刑務所に入っている人々にも、夢想することぐらいは許されている。そして読書も、書くことも許されている。もう刑が実行されてしまったが、永山則夫という死刑囚がいた。彼は獄中から本を出した。話題性ばかりでもなく、よく読まれたようである。私は「無知の涙」も読んでいないが、彼は自分の犯した犯罪で傷つけた人々をも自分をも、図らずも癒していたに違いない。癒しなどという言葉が当てはまるかどうかわからないが、言葉を用いることで、人は自分のことをよりはっきりと知ることができるようになる。大きな罪を犯した人は、なかなかそれを口の言葉に言い表すことができないものだが、言葉にすると救われるということは実際あるのだ。裁判で被告席に座り、罪状を聞き、罪を認めるということは、いかにも人間的なことである。そこまでは行かなくても、人間はある種の罪を犯す。なかなか言葉にはできないものだ。また、あまりにも大きな苦痛を味わった人々もそれを口にすることは難しいもののようである。しかし長い時間が経った後、それを口の言葉にすることによって、自他を癒すことができる。言葉の力というものは、あだやおろそかにはできない。言葉一つで人を殺すこともできるかもしれない。そういう側面も、言葉にはある。諸刃の剣である。どうか私の言葉が、人を生かすことができるよう。慰めとなることができるよう。言葉と心は一つことかもしれない。三重苦を負ったヘレン・ケラーはやはり言葉の力を得ることで生きた人だろう。私の夢想はきりがないが、夢想する権利ぐらいは行使してもいいだろう。ここまでお付き合いくださってありがとうございました。