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マリーゴールドの現実

「幻惑」から「現実」へ

アーメン

 私にはわからないことが多い。当たり前かもしれないが、つくづくそう思う。このブログのアクセス解析の部分だけでも謎である。9月の11日から12日にかけて4という数の方が読んでおられるようだが、単なる4人なのか、何かの単位なのかわからない。無料ブログなので、詳しいことはわからない。私にはこういう基本的なこともわからない。案外、4人なのかもしれない。でもこの間、コンマ5だったか、あったような気がする。とすると違うのかもしれない。どうであれ、無料で済ませていただいているので、詳しいことはわからない。以前「マリーゴールドの幻惑」を書いていたときには、思っていたより多くの人々が読んでいてくださったようだが、世界中で読まれているというようなことを言う人々もいたが、グーグルやフェイスブックの翻訳があの程度なのを思うと、私の日本語が、理解できるように翻訳されているものか、甚だ疑わしい。それとも世界に散らばっている、日本語ユーザーの方の間ででも読まれていたのだろうか。「幻惑」時代はいささか子供じみていたが、いまも大して変わらないながら、読み続けていてくださる方もおられるのだろうか。

 私のパソコンが覗かれていることは、薄々感じるが、こういったブログやフェイスブックなどが覗かれるのは当たり前だが、個人的なメッセージもフェイスブックの人々や広告関係の人々は覗いているのだろうなと思う。広告業界はあざとい印象を受けるが、それも仕事だろう。しかし、個人的なメッセージやら他の書きものに記したことで、広告が出てくるのはなんだかうんざりする。パソコンがパーソナルでないことは、常識かもしれないが、私ぐらいの考えることはよっぽど一般的なのか知らないが、私の書いたものはすぐに知られてしまうような気がする。それともただの偶然だろうか。私がモンキーズの「デイドリーム」を口ずさんでいると、ある番組のテーマ曲になった。かと思うと昨日、投稿した小説の中には神戸が出てくるが、出てくると言っても実際には行ったことはないのだが、今日のその番組は神戸からだった。関連付けるのも馬鹿らしいかもしれないが、私はネット上で作品を公開したことになっているのだろうか。それにしてもできの悪い作ばかりだった。それは認める。しかし今後、ネット上で公開されていることになっていたら、私の行く先は困難である。

 PCデポさんの噂を聞く昨今であるが、実際の文言は読んでいない。又聞きぐらいの形で目に入ってくる。しかしよく考えてみるとPCデポさんを揶揄したのは私かもしれない。あんまりお金がかかるから、ぶつくさ言っていたのである。打倒PCデポとか書いたような気もする。いやはや世間というものは狭いものである。PCデポさんには近々行くことになっている。私のような老嬢には、丁寧な受け答えであるが、一旦家を出たら、何を言われているかわからない雰囲気は確かにある。私にはわからないことが多いのである。パソコン関係はその最たるものである。感覚で使っているだけなので、何にもわかっちゃいない。それで馬鹿にされているかどうか知らないが、あまり私に惑わされないでいただきたい。

 私はアップルもあんまり信用するまいと思っている。美しいかもしれないが、静かかもしれないが、高いことは高い。私はMacBook ProiPad miniを持っている。姉にはG4を譲った。G4はともかく、MacBook Proは冬は冷たい。とても冷たい。夏でも打ち間違いは多いが、冬、指先の出る手袋をして打っていると、尚更である。アップルが今度、何年か後に、金属からプラスチックなどに外部を変えたら、このMacBook Proがポンコツになったときにも、アップルを使い続ける可能性はある。だが、ここ数年はこれを使わねばならない。冬、寒すぎるから、今度買うときにも金属だったら他社のを買う可能性もある。私は何と言ってもアップルのパソコンは静かなのが気に入っている。ウィンドウズは唸っている。それでせき立てられるような気分になる。逆にウィンドウズから唸りが消えたら、買うかもしれない。どうか、切磋琢磨して良い製品を作っていただきたい。

 切磋琢磨といえば、私どももそうしなければならない。同人誌の同人の方々とも言えるし、お顔や名も知らぬ競争相手の人々とも切磋琢磨しなければならない。私はよく何かし終わってホッとしたときにブログを書いたりする。それで昨日あたりここを訪れた人が4人いらしたのだろうか。私の行動パターンは読まれているのだろうか。13日の今日は0だった。このブログもいつごろ、陽の目を見るだろうか。陽の目を見るといっても高々4人である。一つの番組を作るには相当な時間がかかるだろう。昨日、読んで、今日、放送というわけには行かないだろう。でも私はずっと人の目が気になっている。他の局でも私が江ノ島を登場させたら、江ノ島が出てくる。また、アーメンコーナーが持たれたりした。アーメンコーナーと言うのはほんのちょっとした時間というぐらいのものである。これはダンテの「神曲」に端を発している。日常的にアーメンという言葉は西洋では使われているが、アーメンという短い言葉の合間というような意味で、短い時間を表す言葉なのである。それは「マリーゴールドの幻惑」を書いていたときに記した。

 でも人々の影響し合ったりするのは、楽しいことである。私は三谷幸喜氏からもマークされているような気がする。大演出家だから、私のようなのが隅っこで、こんなことを書いていることなど、気にはなさらないだろう。影響し合うのは楽しいことである。そして、私が考えるようなことは、大概、誰か考えている。何回となくパラダイムは転換したのだろう。しかし、プラトンは滅びない、アリストテレスも滅びない。偉大な先人たちには敵わないかもしれないが、新しさも追い求めず、着々と書いてゆきたい。新しいと思った瞬間、古びるものだ。文学でできること、それだけを思って書いてゆきたい。ここまでお付き合い下さってありがとうございます。