マリーゴールドの現実

「幻惑」から「現実」へ

痛し痒し

 10月も書かず、11月になってしまった。今、特に暇なわけではない。また特に忙しかったので書かなかったわけではない。人にはいろいろと、事情があって書けないことがある。私など文学賞に応募している者は、余計なことは書けないという心理が働く。しかし去年、応募して落選したあとの記述が、今回の賞が決まる前に出てきた。もちろん不満足な雰囲気で書いている。確かに自分の力量のなさも書いてはいるのだが。なにかの力が働いて、あるいはその力の前には無力で、決めるべきことも公正には決まらないといったようなことを書いている。選者からしてみたら、怒り心頭かもしれない。しかし、日本は言論の自由のある国である。正しいことばかりが云々されるわけではない。人の思い違い、考え違いの言論もありうるのだ。むしろそっちの方が多かろう。そして文学を多少かじっている者として考えるに、真実は砂金のように稀少なものであると考えられる。事実はたくさんある。事実で成り立っている世の中である。私が文学賞について考えたことは、稀少なことだろうか。否、むしろ、落選した人は皆と言っていいほどそう考えるのではないだろうか。でも、大賞以外は望まないので、佳作などにさえ選ばれないのがありがたい。はした金で著作権を取られるのはまっぴらゴメンである。こちとら、しばらくしたら、出版でもしようかと考えている。しかし、今までのままでは到底、作品になりえていない。大幅に書き直して臨むつもりである。そうは言い条、皆さんの中には私の書いた作品を読まれた方もいらっしゃるだろう。私はこの国では珍しいクリスチャンである。しかもクリスチャンであることが、この国では珍しくはない地方の住人である。この地方では新しくクリスチャンになる方は珍しい。むしろ東京方面では年間何十人と洗礼を受けられるそうである。しかし、その方々のいかばかりの人々が根付いているだろうか。よっぽどのことがない限り、毎週主日のミサ、礼拝に行く人々はどれくらいだろうか。それはともかく、私はこの国では珍しいクリスチャンなのだが、その者が、何か書いている。当然いろいろと書くものの内容は精査される。しかし、今のところ、教会を離れていた時期が長かったので、その間、書いたものでは、これぐらいの宗教批判は、、と考えたことはあった。キリスト教にだけではない。宗教一般についてである。私はキリスト者であるが、もちろん他の宗教を否定しない。否定しないどころか仲良くやってゆきたい。ところが教会に帰ってみると、今まで平気で書いていた事柄に、平気ではおられなくなってきている。以前は肝が座っていたと言えるが、今の私はご都合主義に近い。いや、ご都合主義ではないが、常に、バランスを考えている。こんなことがあっていいものだろうか。しかし教会人たちは必ずしも護教論を望んではいない。文学にしかできないことがあるからだ。神様は何もかもを覆っておられるかもしれないが、小さな人間の限界をご存知である。人間の限界を書くときに文学は生きてくる。しかし今の私にはできていないだろう。最近まで私はほぼ創作が多かった。最近は限りなく自分に近いものを書いている。私小説とは言い難いが。そんな中、自分の信仰に根ざした何か深いものが書けるかというと、そうはゆかない。私はおちゃらけているのだ。真面目に書こうとするとずれて行く自分がある。私には遠藤周作の世界は書けない。三浦綾子の世界も書けない。私は私であることしかできない。しかし学ぶべき所は多くある。実のところ宗教性はあまりもたせたくないという気すらあるのだが、ちょこちょこ神様は顔を出す。それも、書かないで表すという深遠なものではない。むしろマンガチックに出てくる。それが私だろうか。そうかもしれないが、期待されるようには書けない。期待は裏切られるだろう。あまりにも愚かな私なので、一般の人々にも受け入れられはしない。しかし私は自分を書く場合には、「愚か」ということを主眼にしている。立派な自分でない限り、そうならざるを得ない。無論その中には、不信仰も入っている。罪も入っている。背教もある。占いなどにかまけていたりする。それに私は「性」を抜きにはなかなか書けない。自分が性にこだわっているからである。性と宗教を結びつけるのは、綱渡りのようである。それからお金の問題。私は一文無しであるが、お金に対する強い願望がある。神に仕えるか、マモンに使えるか、もちろん予想に反して、神に仕える。だが、お金に対する願望が強いことは紛れもない事実なのだ。私はこれを引っ込めようとは考えていない。なにせ愚かな私であるからには。マンゾーニは嫌いではないが、彼の護教的な所は一般信者として楽しめるものの、一文学をする者としては、眉をひそめざるを得ない。しかし彼の描写は優れている。描写力が可笑しいくらいにある。では二千文字になるのでこの辺りで失礼いたします。お付き合いくださってありがとうございました。