マリーゴールドの現実

「幻惑」から「現実」へ

エルサレム、エルサレム

 「この広告は90日間以上更新されていないブログに表示しています」様のことが書かれてあって、その広告というのが、夏頃行った美容室で見た雑誌に載っていた560万円もするエメラルドカットのダイヤモンドの指輪が素敵だったので、帰ってからしばらくして、ネットで検索してみた。するとネットでは桁が違って、30万円以下であるものしか出てこない。そういう訳で自分で種は撒いた訳だが、その広告は、私がネットで検索したものである。ヘンリー王子の婚約者に贈られた指輪とどこか似ているが、もちろん広告の品の方が見劣りはする。しかし私が見た雑誌のダイヤモンドの指輪は素晴らしかった。私はカットのせいだろうか、ダイヤモンドという宝石が好きではなかった。しかしエメラルドカットされたダイヤモンドは素敵である。でも私はエメラルドもサファイヤもルビーも好きではない。もちろんどれも持ってはいない。贈られたこともない。

 ブリリアンカットというものが好きではない。光ればいいというものではない。輝きよりも佇まいである。お相撲を云々する人々ではないが、品格である。ブリリアンカットは品がない。雑誌に載っていたものは台座が24金のようだった。その組み合わせも良かった。普通ダイヤモンドといえば、プラチナか白金の台座が多いようだが、ダイヤモンドのクールさを優しく緩和する、その台座の色味が良かった。月収の3倍が560万円以上の人というのは限られているだろうか。ヘンリー王子ならばちょろいものだろうか。ダイアナ妃ゆかりの品で、ご自身でデザインされたとか。そのお品も中央部分はエメラルドカットに見えたが、見間違いだったろうか。ちょっとゴテゴテした感じには見えたが、王室となればそれぐらいのゴージャス感はあった方がよろしいだろうか。個人的にはシンプルなエメラルドカット一つが好きである。こんなことを宣言しても誰も贈ってはくれないだろうが。

 なぜネットには安めの宝石しか載っていないのだろうか。検索するものを選んでいるのだろうか。そう勘ぐるしかないが、私は検索欄に560万円と入れたにもかかわらずである。ユダヤ系の人々がダイヤモンド市場は握っているようだが、ダイヤモンンド自体の質の良さなども関連しているのだろうか。桁違いにしても30万円以上のはなかなか出てこない。出てきてもゴテゴテしている。私だったら23万円弱ぐらいのアマンで我慢する。それが好みなのである。しかしなぜ高価な宝石は、しわくちゃの婆さんに集まるのだろうか。若い人には似合いそうにもないが。でもそのちょうど真ん中ぐらいの層に、なぜ集まらないのだろうか。イヴァンカさんなら持っているかもしれないし、義理のお母様のメラニア夫人だって持っているかもしれないが。しかしあの人々には品格があるだろうか。エメラルドカットの品格があるだろうか。

 エルサレムは誰のものであろうか。アメリカの福音派の人々ならば、ユダヤ教徒でなくても、イスラエルのものだという意識が隠れているかもしれない。旧約聖書によればコーランもだが、ユダヤ人のものかもしれないが、これを言ってしまったらおしまいなのである。新約聖書ではユダヤの神は世界に開かれた。もちろんユダヤ教も基本的にはそうだが、ドイツ人つまりゲルマン民族の神父が言ったものである、キリスト教はアジア的ですよと。どうもご自分の感覚とは齟齬がありそうだった。私ども日本人は世界を知る必要がある。そのドイツ人の司祭は宣教師ではなく、修道司祭だった。故郷で最初に高校に行った人であり、ドイツでは高校に行った人は自動的に大学進学となる。ドイツの高校は英語と数学に力を入れているそうだ。今80歳代の人だから、今は違ってきているかもしれない。その司祭は大学へは進まず、神学校に母親の手によって売られたと、冗談で言っていた。もちろん、彼の同僚には大学まで行ってから神学校に入って司祭になった人々もいる。

 エルサレムは3つの宗教の聖地であるから、誰のものでもあり誰のものでもないのかもしれない。政治は無宗教に語られがちだが、無論、神は歴史に介入されるかもしれない。トランプ発言は自分の支持層に取り入った感はあるけれど、そういう一つ一つのことが歴史を刻むのである。いいと言っているのではない。悪いと言っているのではない。争いの火種が用意された感もあるが、今後、世界はどうなってゆくのか、イスラム教徒にとっては受難のときだが、エルサレムは空白地帯でもいいのかもしれない。既成事実というものがある。その恩恵に与ってきたものにとっては、変わりたくないだろう。それに、世界はイスラム教徒の立場の擁護をするだろう。それが今までの良心だったからだ。バチカンはローマの司教座である。これもとても政治的である。バロックロココと文化は進んできたけれども、カトリックプロテスタントは仲の悪い兄弟関係から、歩み寄ろうとしている。また日本では仏教とのコラボもある。私たちの隣人は誰だろうか。自分は悪者だと自覚している人々には先が見えるような気がする。ここまでおつきあいいただきありがとうございます。