マリーゴールドの現実

「幻惑」から「現実」へ

理解が大事

 私が自分のことをオナニスト呼ばわりすると、バカにする人々がいる。私の書く謂は、修辞としての謂である。なんだか情けない。この歳になって肉体でするかい。アホくさい言葉もいい加減にしてもらいたいものだ。しかも私の名前は呼び捨てである。なんという失礼だろうか。思い返すと私が肉体でオナニーをしていたのは18の歳までだ。もちろんセックスもしない。それでも顔が険しくなったことはない。私は性なしを自分に課してきた。それは自分には持病があるからだ。外発性のものを内面化してきた。思想信条上、避妊も堕胎もできない。だから自分に課してきた。そう腹をくくると、神様は応えてくれるものだ。私は今まで性に縛られることなく、生きてきた。といっても、6年前までは誰も理解してくれなかったので、生殖器の感覚を試されていた。今もそうかもしれないが、6年前からは私の心の中ではそんなことを人がしていても、あまり気にならなくなった。誰にでもある感覚だから、同席の人がなっても私がなっていることにされた。私はそれでも、不満は言わなかった。却って歪な人々の餌食になってお気の毒に思えた。私さえいなければ気にすることもなかったろうに、私がいたことによって余計な心の負担がかかったようだったので、よっぽどのことがない限り、私は人中に出ることを避けるようになった。自分を省みることができるならば、そんなことは人に向かってできるものではないだろうに、する人々がいる。6年前入院してから分かったことだったが、理解者はいたのだった。あとでまた誤解されたが、天の神様と僅かの人々には理解されているのだろう。しかし18歳以降、私は性的な妄想に悩まされてきた。私はセックスの経験がないので今でもわからないのだが、眠っている間にセックスをされてしまって妊娠したのではないかと思ったりしてきた。妄想ではあるのだが、妙に不思議なことがあった。着衣の乱れも何もないのだが、ふと目をさますと、二人の男の漏らす笑いが耳に届き車のドアがバタンと締まり発射音がする。今まで私の部屋にいたのではないか。そう思われた。性といいうものは、幸福な性と、不幸な性がある。私はさしづめ後者であるが、一人で寝るのは怖くなり家族とともに寝るようになった。性というものは一人で寝ても、家族とともに寝ても、気味の悪いものであることには変わりない。家族と一緒に寝るようになっても夢で悩まされたりした。私にも性欲の片鱗はあるのだろう。大きな性欲を背後に抱えながら、表面では性欲を感じなかった。特段、オナニーもセックスも欲求がなかった。刺激もなかったかもしれない。あまり出歩かなかったし、どこへも顔を出さない時期も長かった。顔つきは暗かったかもしれないが、険しくはなかった。でも私にも隠れた性欲はあるのだろう。幼児性欲的ではあるが、寝ていて失禁しそうになると、トイレで排泄する夢を見る。この歳になるとお漏らしすることだってある。途中で夢だと気付いて、そうひどい失禁はしないが。子供に返っているのだろうか。やっと最近、あまりおぞましい性妄想からは解放されだしたが、性がなかったにもかかわらず、性に振り回された人生だったかもしれない。不正出血じみたものがあったので、産婦人科に行くとピザが一片切り取られたみたく、処女膜が破られていた跡があった。それは20代の初めの頃、カンジダだったのを、ひどい性病だと思い込んだが、それも妄想で、先生は私が癌を疑っているのではないかと勘違いして、ピザの一片のように処女膜を破いて、内側の粘膜を少し取って、顕微鏡を覗かせて心配はないと言って聞かせた。性病でももちろんなかった。カンジダでもなかったようだった。その跡にうず高く薬を塗られたようで、不正出血だと思って行った時には、ぐいぐいと器具を入れられて、そのゴム状の薬の盛ってあるのもぐいぐいとへし折られてやたら痛かった。あとでぽろぽろと、出てきたのでそれとわかった。だからセックスによらず今は処女膜もない。違う産婦人科だったので事情もわからなかったわけである。また私がセックスをしないものであるという理解もなかった。今から6年目の入院の折には理解されていたようだったが。でもあとで一番大事な人からまた誤解されたのは痛かった。悲惨な思いをしたものだ。私は思想信条上オナニーもしなくなりセックスもしなかったが、18の歳にオナニーをやめる間まで、かなりオナニーをしていたのでその罪悪感が強かった。性は疚しいものであると、フランスの思想家は言っているけれど、本当にそうで疚しい思いをいっぱいしながらオナニーをやっていたので、心の負担がかかったものと思われる。大概の人がやっているにもかかわらず、私は特別な目で見られる。私は今は軽やかに過ごしているが、オナニストと言うのは修辞にすぎない。しかし郵便ポスト前のガソリンスタンドの人々はうるさい。私はまがりなりにも、ものを書いているので、そう書いたまでである。私はその類のことで人を指差す人の気が知れない。彼らはそんなにあっけらかんとした性の人々なのだろうか。羨ましい限りである。ここまでおつきあいいただきありがとうございます。