マリーゴールドの現実

「幻惑」から「現実」へ

何する人ぞ

 つくづく私は稼げないようになっている。在宅OKパソコン、スマホでできる仕事を探して、もちろんスマホは格安スマホを使っているくらいだからできないし、当然パソコンを考えていた。するとMacOSは使えないことが判明した。日曜日の午後ぐらいしかできないなと思いながら、内村鑑三の「余は如何にしてキリスト信徒となりしか」をお読みになった人ならおわかりのように、日曜日は大体働かないことになっている。しかし聖書にはイエス安息日にも働かれたことが記してある。人の子は安息日の主でもあると言われたりしている。それで意を強くして、日曜日の午後でもいいじゃないかと、小遣い稼ぎを考えた。そんなことが頭の中を去来した。しかしMacOSは使えなかった。スマホも使えない。つくづく私はお金に縁がないらしい。

 その過程でいろいろと世間を見ることができた。そのいちいちは書かないが、あの人たちはこうやって、とか、思い当たる節があった。最近、副業を認める会社が出てきた。副業、バイトと喧しいが、あの人たちはこういう流れでやってきていたのだと、長年の疑問が解けたりした。それにしても何をやるにも関東地方は有利である。特に東京は。私の在住している長崎県は、人口流出の激しいところである。その求人状況を見てみると、ああ、これは出て行かざるを得ないなと、残念だが見てしまった。そういえば今日は県知事選挙日だった。私は期日前投票で済ませていた。有効求人倍率は上がったというが、実際のところは職業選択の自由は奪われていると言っても過言ではないだろう。そんなことは以前からだったが、安倍さんが経済に喝を入れて、景気は良くなったと言われているものの、悪くなったとは言わないまでも、あまり変わりはないようである。マスコミには要望するが、現実をよく見て、から騒ぎはしないでもらいたい。

 今のところ私にはお金にならなくてもやるべきことがある。これは自分に課していることだから、お金にならないことは承知の上でやっている。アンチ副業の私だが、同人を退かれたご高齢の方が年賀状にゆったりした年にしたいものですと書いてこられた。聞屋さん上がりのこの方は、定年退職後、同人誌の編集長をされていた時期があった。書くこともされていたので、趣味とはいえ、なかなか責任あるお立場だった。ゆったりした年にしたいとは、ご本心だろう。今はスーパー主婦の方々が編集をなさっている。40号から私も編集のお手伝いをしているが、とても彼女らの忙しさには及びもつかないのに、編集量は少なくしてもらっている。だからお手伝いなのである。私は書くことの方に力点を置きたい。しかし会員だった以前とは違って、同人になるとなんらかの働きをしなければならない。編集以外にもやることはあるが、それは年に2週間もあればできる。それは外回りの仕事である。私の苦手とするような分野だが、売れてくれなければ次からは断られることになる。

 「西九州文学」と申します。これを以前G+で繋がっていた方が一冊買ってくださった。しかし今私はG+で不義理をしているから、その方もうんざりしているだろう。それにしても、同人誌を売り込むためにSNSを始めたのではなかった。ある一人の人と繋がりたいだけで始めたことだった。ブログは別だが。Twitterもあまり関係ない。フェイスブックもマメにやらないし、いろいろと機能も壊れてはいるが、付き合い悪い私である。その一人の人とは決して繋がることはできない。どうであれ繋がれないことは繋がれない。羽をもがれた鳥のようだから、フェイスブックでも飛べないだろう。Twitterはほぼ傍観状態である。滅多につぶやかないし、つぶやいても何の波紋もないに等しい。全くではないが。気の利いたことの一つもつぶやけない。私はいろいろと不義理を働く。矛盾撞着という言葉は私のためにあるようなものである。

 しかし物事は変化してゆく。どうせなら宣伝もやっちまうかとか、人助けもしようかとか、それが本当に助けになったかどうかはともかく、状況は変わる。何もやらないよりはマシなのかどうかもよくわからない。私はブログを書く時間帯が、よく昼ご飯を作らねばならない時間帯だったり、夕食を作らねばならない時間帯だったりにかかることが多い。今も夕食は家族の誰かが作っているだろう。そしてもうすぐご飯だと知らせがくるだろう。書き出したからには書き終わらねばならない。始めと終わりが綺麗な円弧を結ぶようだといいのだが、私はどうも歪なものになりそうだ。私という者は、生まれてからこのかた、成功するという体験がほぼない。何かを待ち望みながら挑みはするが成功とは縁遠い。永遠にそうなのだろうか。自分でも訳のわからぬことをやっているが、成功したと言える人は1%にも満たないのかもしれない。人のことはいいのだが、私自身はこの状態を続けることができるのだろうか。1%の人を支えている者の一人だと考えることにしようか。何をもって成功というのかは、自分の中にしかない気がする。もしも何かの賞をもらったとしても、その先があるのだ。永遠に運動しはしない。いずれ死が訪れる。パウロのように言えるだろうか。それが問題だ。ここまでお付き合いくださってありがとうございました。