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マリーゴールドの現実

「幻惑」から「現実」へ

お詫び

 突然、google+を止めて、申し訳ないと思っている。自分がそういう目にあって初めて気づいた。すみませんでした。悪い意味での自尊心のなさが、人様からのご好意を踏みにじる結果をもたらしたのかもしれない。自分のことはわからないものだ。私もある人が、突然止められて、がっくりきたのだった。やはりたかがSNS、されどSNSである。なんの予告もなく、突然止めるのはどうかな、である。予告らしきものはしていたと言えばしていたが、あるときパッと止めた。ご厚情を受けながら裏切った形になったことを、申し訳なく思います。果たしてご厚情をいただいていたのだろうか。私は知人友人が極端に少ない。それでSNSのような場でも知らない方々がほとんどである。私は腹を割って話すということがない。現実に存じ上げている方からは「もうちょっと胸襟を開いてくれたらね」と言われたことがある。コミュニケーション力ゼロに近い私だから、知り合って間もないお年上の方からそう言われたことは、なにかこそばゆいような思いがしたが、普通人はそうするものなのだろうかと、自分の常識との違いを思い知ったことだった。

 良き知人友人は数は少なくてもいるのだが、それに一地方都市ではあるが、この地ではそうそうたるメンバーの同人誌にも会員として、書き手として加わっているが、この人々は何処の馬の骨ともわからない私のようなものを受け入れてくださった。またカトリック教会でも、私のようなものでも受け入れられている。教会関係ではこの地の教会は大きいので、特別に親しい人はほとんどいないが、今、病の床に臥しておられるシスターと神父様のおかげで、カトリック者になることができた。わたしがいいものだったからではもちろんなく、小さなものだったからである。私を助けてくださった方々は、ことごとくお歳を召されて弱ってきておられる。私は最近、自分の顔を見て、つくづく歳をとったなと思う。私より歳上の恩人達が、お歳なわけである。でもまだまだ皆さん頑張ってくださると信じている。

 私がしていただいたように、人様にしてあげられるだろうか。どうも自信がない。けれども、最近は悪い意味での自尊心のなさから解放されつつある。自分自身を見たらみすぼらしいかもしれないが、こんな私でも受け入れられている事実をお伝えしたくて、人様をお誘いしようという気がしている。そして、私ではなくて背後におられる大いなる方を知っていただきたいのだ。どうも、私はお金には縁がなさそうだが、家族間でいろいろと助けられている。ささやかなお金は入ってくる。お金がなかろうが、あろうが、私は書くことは止めないと思うが、この世界は締め切りあってしかるべきもののようで、私のように用意の良すぎるものはどうもいけないようだ。でも人はそれぞれだ。人様のケースが自分に当てはまるかどうかはわからない。

 google+を止めたことから話は逸れたが、承認餓鬼道は自己評価が低く自尊心高いものが陥るから、人から認められれば自尊心に満足が行くから釣り合い取れるかも、という文言もあったが、私は自尊心が低いのではなくて、自己評価が低いのだろうか。そうかもしれない。それとも自己評価が高すぎるのだろうか。でも自尊心は高いとは思えない。卑屈だから自尊心が高いのだろうか。どっちにしても笑える文言だが、自分を笑えるようになったらそれはそれでいいだろう。あっさり承認はいただけなかったが、さもありなんである。やはり、SNSとはいえ実際に知っている人、信用の置ける人としか付き合わないのが普通かもしれない。私などは実際に知っている人からも、承認がいただけなかったりするのだから。よっぽど信用のないものなのだろう。でもそうとばかりも言えないところはある。メッセージは受けとられているからだ。

 google+が懐かしい気もする。だがもうこうなった以上、過去のことは過去のことなのだ。google+でメールをくださっていた方々、申し訳有りません。でも日に何通と送ってくる人が、あるとき不意に「お久しぶりです」などとのたまうこともあった。だからgoogleはわからないのだ。こうやって恥をさらす私は馬鹿者かもしれないが、フェイスブックの基本情報を見ると、ブログのことも書いてある。私が書いたという記憶はうっすらとある。2014年の1月以降のことのようだ。新しいブログを書き始めたのがこの頃だからだ。2013年のことはよくわからない。2013年のことはなにもかもわからない。そんな中で始めたgoogle+だったが、いろいろとありがとうございました。行き届かないもので、申し訳ありませんでした。ここまでおつきあいくださってありがとうございました。