マリーゴールドの現実

「幻惑」から「現実」へ

美化しないで、卑下しないで、

 あまり読み返しても見ないのだが、ここも約7年ぐらいにはなるようだ。時々、はてなの方から、過去の同時期に書いたものが送られてくる。その時に読み返したりもするが、ロクでもないものばかりでうんざりする。スターマークを押してくださる方もいない。過去一時期あったが、今はもうない。その方のブログの配信は、私のメールボックスではなぜか迷惑メールに割り振られていた。ブログは短いのがいいのかもしれない。長々書いても、中身薄だったら、読む気もしないだろう。あるいは濃すぎてしんどくなる場合もある。

 頻度の問題もあろうか。書き始めた頃は私も頻回書いていたが、今は何か月かに一度といった具合である。2千字は長すぎるだろうか。千字ぐらいのことも増えてきた。今の時代読むものが多すぎるから、長いものは斜め読みされる運命にある。読んでもらいたかったら、短めを心がけるのが賢いのかもしれない。ブログの長さとは全く関係ないのだが、最近私の小説まがいは、短めになってきている。そういう時期であるとしか言いようがないのであるが、世に出るわけではないので、そう書いてもしょうがないのだが。

 まがりなりにも世に出ているのは「西九州文学」に掲載されているものだけだが、今までこちらはおろそかにしてきた。これからは本腰を入れねばならない。私の人生も残された時間はあとわずかである。しかし私はどうも中途半端にやって行きそうな気がする。「女性の薄幸」という原爆を扱った作があるのだが、これは端的に私の立ち位置を示している。私は社会性というものにあまり重きを置かないところがある。原爆を扱っても戦争の政治性は問わない。むしろその中でロマンチシズムを追い求める。

 痴情のもつれと言ってしまえば簡単だが、原爆を受けた人々を美化しないで、そこでもあえて痴情のもつれを書く。だからと言って貶めているわけでもない。そこに生きる人の背筋の通ったところは書いているつもりだ。原爆を受けた人々は、特別な人々ではない。長崎では浦上のカトリック者が多かったということもあり、神意を問いたい気がするものだが、私は地上のことにする。原爆を受けてしまったが、その地点からどう生きるのか、私の作中人物は愚かすぎるだろうか。そうとも言い切れない気はするが。

 ここまでお付き合いくださってありがとうございます。