マリーゴールドの現実

「幻惑」から「現実」へ

Twitterくささ

 Twitterなんてあぶくなどやるものかと思っていたけれど、なんの拍子か、つい手を出してしまった。無論、無名人なので、私のつぶやきはあっという間にかき消されてしまう。ホームを見ていると、だんだん眠くなってくる。知らないことが多いからでもある。こういう先端を行くところを追っていると、自分の卑小さが思い知らされる。ある有名な画家がフォロー0というのがおかしかった。フォロワーはさすがに多かったが。突飛だが、五木寛之氏はこういうのはなさらないようなきがするが、どうだろうか。何かネットとは無縁でいらっしゃるような気がしたりしているが、そんなことはあり得ないだろうか。先日たまたまラジオをつけると、五木寛之氏の番組があっていた。藤圭子についての番組だった。私は演歌は嫌いだが、ごくたまに気になる歌はある。藤圭子はもう他界されたが、音楽関係者をはじめとして文化人の面々が、彼女について言葉を献じておられるようだった。音楽として個人的に聴く気はしないが、五木氏がまとめておられる文脈で、合間合間に聴くと面白かった。宇多田ヒカルのお母様なのだよなとか、私などはつい思ってしまうが、五木氏はそのようなことはおっしゃらない。電撃結婚、電撃離婚については軽く触れられただけだったが、私はこのことは彼女にとっては大きなことだったと思う。どうしても当人同士のことではなかったように思われたからだったが、あれはどう考えてもいびつな結婚だった。芸能界というところが個人の域を超えてきて、なだれ込んでくる、そういう気がした。デリケートなことだからあっさり済ませられたのだろうが、彼女も触れられたくない部分だろうか。私がほじくり返すのもなんなので、これ以上書かないが、人の浮沈というものはわからないものである。盛者必衰の理であるかもしれないが、歳をとるごとに円熟する人もいるにはいるが、衰えを醸しながら変化してゆく。一人の人の中でも、あの能力は衰えたが、この能力は伸びているというふうに複雑ではあるが、やはり人も無常の風に吹かれるのだろう。それにしても、何か制作するということは、自分の力を超えたものが働く瞬間を感じることもあるが、私なんぞの作でそう言うのは笑止かもしれない。書いているときは苦しいが、書いた後もまた怪しゅうこそ物狂おしけれであって、スッキリするものではない。悩みは尽きないが、嬉しい瞬間がないとも言えない。ブログだってつぶやきのようなものだが、ブログのように長めに書くのも下手だし、Twitterでつぶやくのも下手だが、時間ばかり取られるこういうものに手を出してしまう自分が信じられない。スマホは絶対にやらない。と思う。ではまた。