マリーゴールドの現実

「幻惑」から「現実」へ

SNSの両義性

 二転三転するが、フェイスブックは続けることにした。それというもの、ネットはもともとあやふやなものでありながら、しっかりしているところはしっかりしているからだ。確かに開設した覚えはないが、2013年以後のことはなんとか記憶を辿ることができる。しかも、書き込んだことが微妙に違っていたことも覚えている。その頃は誰と繋がろうと思ってしたことではない。2014年になると繋がりたい人が出てきた。友達リクエストも送っているようだ。google +では、40人ばかりは私宛にメールを送ってくださる方々がいらっしった。フェイスブックではそのようなことはない。ただスレッドが立っているだけである。メッセージを送ったこともあったけれど、どんな風に届いているのかよくわからない。その後、フェイスブックからブラックベリーにお知らせが届くことはない。google +では、私はどうもセンターになっていたようだった。私はそれが負担になっていた。やはりネットは軽やかでないと続かない。ブログも、ときどきお人の書いたものも覗くことはあっても、一人でやっているから気が楽である。

 ブログも私の書いたものは話題にもならないようだが、結構読まれているかもしれない。マリーゴールド云々という文言で、0.33秒ごとに10数万件の検索数のトップにきている。トップ3は私のブログで占められている。学術論文が多く引用されているものほど、いい論文であるというのと似ている。ただ私のは学術ではないので、人々の慰めにでもなるといいなと思っている。今、今季初めての焼き芋屋さんの売り声がした。と思ったら、何かの軋む音だったようだ。家人の知人から梨が送られてきた。みずみずしく、美味しい梨である。もうそういう季節である。夏は確実に過ぎた。私の人生の夏も確実に過ぎた。今気づいたが、はてな今週のお題は「結婚を決めた理由」だと書いてある。今までの私には無縁のことである。人生の秋を迎えた者が、結婚についてなにがしかのことが言えるだろうか。普通なら孫の話をしてもおかしくない年齢である。家の親には孫がいない。子であるものが一人前ではないことで、親までが一人前扱いされない。それはとても心痛むことだが、こればかりはどうしようもない。最近まで人とのつながりを重視してこなかった。google+でお近づきになれた人々とも、私がやめたことによって、途切れてしまった。幾つものSNSを股に架けている人々もあったが。私はとてもそんなに行動的ではない。

 ネット上、行動的であるということは、リアルでも行動的であるようだ。「マリーゴールドの現実」では、私は今後結婚するかもしれないようなことを仄めかしてきたが、実はよく分からない。「マリーゴールドの幻惑」時代には考えの端にも入れていなかったことだった。考えたことはあったが、実現するとは思えなかったし、現に実現しなかった。その頃とは違った文脈で、今は可能かとも思えるが、こればかりは相手あってのことだからよくわからない。今まで、はてなのお題に付き合ったことはなかったが、今回初めて付き合ってしまった。500文字づつなら、2000字で4段階に分けることができる。いわゆる、起承転結である。3段目で話を転じようと思ったところで、こうなってしまった。行動的云々をしようと思っていた。書くことも行動であるから、結婚も十分に行動といえるだろう。私の結婚以外に2組のカップルを予定している。これは以前書いたかもしれない。全部で6人の私どもは相手のことを知っているようで知らない。知らないようで知っている。ネットも少し絡んでいる。ここで、これらは妄想かもしれないと書いたら、いかが思われるだろうか。

 そこでSNSであるが、これが案外、曲者だ。フェイスブックに誘うおうとしたら、その者は google+に行ってしまった。google+でも関われるようになったかと思ったら、負担に感じていたので、フェイスブックを覗くと、その人がいた。その人は今度は、驚いて逃げた。それで不承不承ながら、google +を続けた。その後、そこでの共有をやめてくれたので、心置きなくそこを退出することができた。フェイスブックも頓挫しかけたが、その人の存在があったので、続けることが可能になった。でもこのような一連のことは、頭の中をぐるぐるしているだけのことかもしれない。ところでフェイスブックで居住地などにチェックインの数が出てくるが、私はそれを気にし過ぎるきらいがある。google +のときも数にこだわった。貧乏くじを引いたと思っても、後々の幸運にもなる場合があるらしい。私を選んだ人は貧乏くじを引いたかもしれないが、後々の幸運につながるといいなと思っている。SNS上で書いたことが、確実に伝わってきていることを鑑みると、ひょっとして妄想ではないかもしれないと思い始めている。

 素直に起承転結とは行かないで破格とする。なんと、妄想だと思っていることが、真実だと思っている部分もあると伝えると、却って喜ばれたりもするようである。私は危ない橋を渡っているのだろうか。両義性あると言ったらいいか、興奮にも鎮静にも、幻惑にも現実にも、その両方に引っ張られながらおたおたと歩いている。去年の冬、来年も変わらないだろうかと思っていた。変わらないようで変わってきた。フェイスブックを長らく休んでいたようなその人は、最近動き始めた。私に見えないだけだろうか。そうかもしれない。しかしメッセージは伝わっているようだ。用件を書くと、反応がある。来年もこのまま冬を迎えるかもしれない。その可能性は大きい。しかし真実は小さなものであろうか。私はお付き合いということをしたことがない。その割には作品中にはよく書くが、自分に経験がなくても、本は読んできたし、テレビや映画も観てきた。ロマンチストなのかもしれないが、だから小説を書いているのだろう。私は結婚した男女の結婚生活を書いたことも何度かある。恋愛だけでなくである。想像は未経験だから想像と言えるのかもしれない。それが創造に成るにはなにがしかの感動が必要かもしれない。感動の種はあるようでなく、ないようである。日々の変化を微かに感じながら、生きてゆくのもまたいいかもしれない。ここまでお付き合い下さってありがとうございました。

インターネットはドストエフスキーを超えられるか

 google+だけではなく、フェイスブックもしばらくしたら、やめる方向で考えている。フェイスブック上で至らぬことを書いてしまったからでもあるが、どうもフェイスブックは自分で開設した覚えがないから、便乗は良くないだろうと思ってのことでもある。アカウントやパスワードを知らないから、消せないものもある。消せるもので消していないものもあるが、それはお礼のしるしである。基本情報を書き込んだ記憶はある。しかし私が書き込んだ通りではない部分もあったようである。しかしそれは、開設した人と直接関係はないかもしれない。私の思い違いかもしれない。基本情報を書いたということは開設したということなのだろうか。でもどうやってフェイスブックにたどり着いたのだろうか。今回開いてから初めて知った、自分のアドレスもあった。しかもそれは、フェイスブックというより私のブラックベリーの方に入ってくるアドレスである。@の後ろはfacebook.comとなっているが、ブラックベリーに入る。そういうものなのだろうか。私には訳がわからない。

 ブログを書いている人はフェイスブックTwitterやらをやっている人が多いようだ。私のようにパソコンに疎い人はあまりいないようだ。私は最低限のことしかできない。ここも、案外読まれているようでありながら、SNSでとり上げられることもないようだ。0なのだ。私はどうも蚊帳の外にされているようだ。私は人付き合いが悪いから、友人知人が滅法少ない。そう言いながらお年を召した知人が多いから、パソコンでやりとりすることはない。携帯でごくたまに電話したりメールしたりするぐらいである。そういえばパソコンユーザーもいらっしゃるから、以前、ブログ読みましたと言ってくださった方もあった。私は人に気を置かせるから、パソコンで付き合ってくれる人はいない。「マリーゴールドの幻惑」はとても恥ずかしいものだった。それに「マリーゴールドの現実」はもっと恥ずかしい。なにやら妄言ばかりである。

 学生時代の友人は、忙しい人だったりする。また、主婦の友人は遠くに住んでいるから、年賀状や暑中お見舞いでの繋がりだ。暑中お見舞いで、作品の講評をしてくれたりする。それに、ある遠くの知人とは携帯のショートメールのやり取りをするぐらいだ。先日彼女からメールがあったとき、電話をすればよかったのかもしれない。私はショートメールでお返事した。2、3回、やりとりした。やはり時間はありそうだったので、電話の方がよかったかもしれない。でも私は電話にはあまり自信がない。うまいことしゃべれないからだ。でもメールも時間がかかる。若い人のように片手でメールを打つことなどできない。私はまだガラケーを使っている。スマホに切り替える予定はない。世の中から携帯が消えたら、そのときには考えるかもしれない。あと二人とは絶交状態だ。

 フェイスブックで至らぬことを書いたのは、絶交している二人のうち一人についてである。詫状を出さねばならない。彼女は怒るだろう。今よりもっと疎遠になるかもしれない。しかしけじめはつけねばならない。このように現実で繋がりがあるまたは絶交しているという仲はありながら、パソコン上で付き合いはしない。若しくはネット上で繋がることはない。私のような寂しい者は、SNSで付き合ってくれる人も滅多にいない。知らない人に友達になってくれとリクエストしたって、そう簡単に認められるわけがない。やはり実際会ったことのある人と、本当の友人関係の人のみとやりとりする人が多いのだろう。私のフェイスブック上の起点になっている所へのチェックインは減ってきているようだ。考えてみると当たり前だが。

 私は人への尊敬の念が足りないのかもしれない。もちろん私自身、尊敬されるような者ではない。私の知人友人は立派な人々である。それでも私はシニカルな思いを持ったりする。それに私はネットで人との繋がりをそれほど求めてはいない。ある数少ない人々との交信を望んでいる。しかし、その人々とは交信できないのだ。リアルと携帯メールの狭間で揺れ動く私であるが、私は旧世代に属するのかもしれない。私の親は80歳代で、携帯電話を操るが、それも子供がいるからできるのだ。そばに子供がいなければ、80歳代で携帯を扱うのは難しだろう。情報貧者にならないように、パソコンを使ってきた者であるが、それでも私は情報貧者である。今の所、世の中で起きていることは、テレビ、ラジオで知っている。ネットとさほどのスピードの違いはない。放送局は放送局でネットを取り込んでいる。ネットも放送局は無視できないだろう。私はお金を払ってまで、通信社や新聞社の読者にはなれないので、読めるところは限られている。ほんのさわりの部分だけ読める。

 一体、google+フェイスブックにそれほどの期待がかけられるものだろうか。それもまた人の営みの一つであろうが、私にとってはやはりそれほどの期待は持てないもののようである。私にとってネットはドストエフスキー以上のものではない。このところ「悪霊」を読んでいて、昨日読了したのだが、ネットに書き込んで危機を知らせても、死んで行かれる方々はいらっしゃる。いや「悪霊」の中身を知っている人にはお分かりだろうが、ネットがあろうがなかろうが、知られるものは知られるし、口外してしまうことはあり得るのだ。始め、ドストエフスキーの作品の中身は、現代だったら即、DNA鑑定でもって、あるいは科学技術によってすぐに判明するだろうがなどと感じて読んでしまうが、あの時代だって、判明することは判明するという宿命にある。ネットや防犯カメラがどれほどの犯罪の抑止につながるだろうか。起こるものは起こる。やはりインターネットが軍事から生まれたものであるだけに、と言ってもインターネットは最初の民生のものの技術だと言われていたが、その後やはり軍事のものだったことは知られている。軍事は技術の温床だ。なんだか悲しい。私などはインターネットの本質は知らないが、その恩恵には浴している。このようなものを書いては、恥を書き散らしているが、なんのために書いているのだろうか。私の中ではある思いはあるが、それを書くほどのことはない。

 ここまでお付き合いくださってありがとうございます。

書くしかない

 気になっている人の意向が知れないということは、悲しいことである。おそらく皆さんは、そんなことは簡単なことだと思われるだろう。直接、会って聞けばいいじゃないかと思われるかもしれない。しかし世の中には、面と向かっては言えないことが多くあるものだ。その人情の機微をお感じになられるだろうか。特に私は引っ込み思案である。

 そういえば、最近私はgoogle +というSNSを止めて、フェイスブックに切り替えた。ここはいつでも止められるなと思う。開設したのは、私自身ではないし、人が開設したものの上に便乗しただけであるから。「⚪️⚪️さんはフェイスブックに登録されています」という言葉が不意に出てきて、その⚪️⚪️さんは私の名前なのであるが、いつの間にかフェイスブックに登録したことになっていた。だからいつでも止められる。SNSというものは軽やかでありたいものだ。1日に30分ぐらいで済ませたいものだ。バスに乗っても電車に乗っても歩いていても、スマホに夢中な人はいるものだが、私はその気が知れない。私の場合はパソコン一本槍なのだが、携帯電話から写真をパソコンに送るのには、お金がかかる。気になっている人のためだけに、今まで1日に2時間ぐらいは時間を割いてきた。しかしそれも終わった。以前携帯電話から送っていた写真を、プロフィール写真にした。google+と同じものだ。呆れられるだろうか。私は平気である。大体、私はSNSがどうやってお金儲けができているのかさえ知らない。

 ネットというものは不確かなようで、雄弁でもある。雄弁さに頼って現実世界では言えないことも、書き込んだりする。つまり、面と向かっては言えないようなことも、SNSを通じて伝えることができるというのである。暴言はいけないが。しかし、インターネット上でストーカーまがいをやらかすことはあり得る。私自身がであるが、人様からそのようなことをされたことはない。ネットというものは通じていないようで通じていることがある。私がSNSが負担に感じていることを察した気になる人は、即刻共有を止めてくれた。気になる人の共有あったればこそのそれであったから、私は今まで引きずってきた。私は書けば長々なる者だから、何十行と書いては毎日2、3回は送信していた。

 気になる人の共有がやんだので、即刻google+を止めたが、フェイスブックは気になる人の箇所を見ることができるので、そちらにした。しかし、交信はない。だから、気になる人の意向が知れずに、悲しいのである。フェイスブックの私の箇所には誰一人書き込みはしない。一人で書いているだけの寂しいものである。しかし73800人ほどの人がチェックインしている。あまりに馬鹿げているから、言葉の一つもないのだろうか。大体、知り合いが殆どいない状態だから、当たり前だろうか。

 お恥ずかしい話であるが、私は大概のことについてお金がどれくらいかかるかということが気になる。いつも経済が逼迫している状態なので、お金の問題は切実なのである。今まで家族にしか借金したことはないが、お金を貸してもらえるほどの者でもない。昨晩も、同人の人からお電話を頂いたときに、いつもの考え方の癖で、お金のかかるかからないの問題じゃないのに、そう受けっとってしまい、恥をかいた。

 経済は逼迫し、投稿作品も選に漏れるだろうと予測される。おまけに失恋までしそうである。文学賞の世界もやはりコネなのか。この間、同人の人がそう言っていた。私は今までコネというコネがなかったために、仕事も見つからなかった。なんにしてもコネはない。実力があったら怖いものはないさあ、と言えるといいのだが。今期はともかく、この数年芥川賞は不振だった。これが芥川賞かというのが案外あった。私は文藝春秋で2、3読んだだけであるし、1作以外は読み通しもしていない。いや、読んでいないから言いようもないのだが。

 人様の作品がなかなか読めないということは、自分に過信があるからであろうか。謙虚になって読むことが必要だ。やはり人様の作品からは何か教えてもらうという態度が必要なのだろう。最も私に欠けていることである。私のような小人に限って、そういうものだろう。そして、自分に正直ではないから、恋もできない。それに、もうそういう歳でもない。知人は、幾つになってもときめきがあるというのはいいことだと言ってくれたが。結婚詐欺のような経験を何度も繰り返しながら、それでもその人が慕われる。それが嘘でなければいいのだがと思っているものの、非現実的ではある。

 今から、11月、12月というのは長い日々になることだろう。私は文学賞の選に漏れるだろう。神様にしかコネがない。神様の喜ばれないようなものを書いた。所詮、無理である。ああ、無い無い尽くしは本当だ。何もないから書くしかないし、失恋したら書くしかない。失恋と言っても、皆さんはどのようなものを想像なさるだろうか。多分、泥沼のような恋愛模様を想像されるのではないだろうか。私の恋愛はネット上にしかないのである。面と向かっては何一つ言えない。いや、言ってきた。書いてきた。気持ちは表してきた。やはり実らぬ恋なのだろう。ああ、悲しい。いつも知らんぷりされるということは、やはり相手にその気がないからだろう。私は女一人で右往左往している女なのだろう。最前線じゃないか。書くことはたっぷりあるようだ。私は8月生まれで、ペリドットが誕生石である。その言葉は「夫婦の幸福」と言うそうだ。一番私から遠いものである。一人前にはなれない私だが、現今、未婚率が高くなってきている。自治体では婚活を促進したりもしているようだが、やめてもらいたい。私の書く小説の、シェアを奪わないでもらいたい。結婚できない人の増加は、私の仲間の増加であり、私の小説の読み手の増加につながるかもしれない。しかし、地方の一同人誌では目にも止まらないだろうか。選に漏れても、漏れなくても、結婚してもしないでも、私は書くしかない。自分を引き摺り出すようにして書くように、指導していただいた。今こそその時なのかもしれない。いつもなにがしかの不安定の中に自分を追い込むことが必要なのかもしれない。それしかない。ここまでお付き合いくださってありがとうございました。

小さな頭

 結婚するときに、離婚を予測して結婚するものだろうか。今の時代、案外そういうこともありうるかもしれない。私自身だって、今から結婚となると、自分はともかく、相手に嫌われるかもしれないという不安がないこともない。それで離婚するかもしれないという怖れはある。嫌われないようにしようとする努力も、一旦なにか起こったら、報われないかもしれない。しかし私だったら限りなく寛大な人と結婚したい。寛大な人は、過去に傷を持つことが多い。となると、離婚の経験という痛い傷も役立つだろうか。誰も相手を、取っ替え引っ替えしようなどとは思わないだろう。結婚は人生の墓場というシニカルな言葉もあるが、結婚は入り口だとも言われる。

 それにしてもたとえ教会が離婚を認めなくても、民法上の離婚は多くなった。こんなに離婚者が多いとなると、教会へ行ける人も、少なくなるだろうか。キリストは使徒たちに権限を与えた。滅多に変えられるものでもないかもしれないが、新約聖書の時代はもとより、旧約の時代から、ヘブライでも離婚は多かったようである。のちの中世などは離婚は認められなかったろうから、もっと歪な形で家族は成り立っていただろう。結婚は自分以外の他人と暮らしを共にすることだから、自己中心では、できかねるかもしれないが、自分を殺してしまうこともできないだろう。泥沼のような関係を持ち続けるのは厳しいだろう。宗教が政治を牛耳っていた時代は終わったようだが、ドストエフスキーの予言も虚しく、バチカンは健在である。イタリアの一大司教区に成り下がってはいない。それに、現世の王国というようでもないようだ。

 キリストが三つの誘惑を受けたとき、現世の王国を退けたが、バチカンはまさに体の一部として機能しているに過ぎないだろう。人の体でいうならば頭だろうか、それともハートだろうか。魂の部分に訴える一機関であるに過ぎないだろう。教会では頭かもしれないが、世界にはキリスト教カトリックが全体ではない。それ以外の宗教を信じている人々もまた多い。バチカンは世界最大の共同体の頭ではあるけれど、世界全体とはゆかない。アメリカの大統領であっても教皇を重んじるかもしれないが、大概プロテスタントである。(ケネディーさんはカトリックだったが)

 バチカン市国が最小の国なのか、マルタが最小の国なのか、私はよく知らないくらいである。その私がカトリックである。バチカンには失礼だが、バチカンが禁じようが、人々は先へ行く。人は罪深い。禁じられても、その禁じられたことをやってしまう。信者になる前の罪と、信者になってからの罪は違うのだろうか。あのソロモンでさえ、後半生は乱れたものだった。ダビデも信仰は貫いたが、大きな罪を犯した。その個人的罪だけではなく、戦争をして人の血を流したので、神殿造りを許可されなかった。子のソロモンには神殿造りを任されたが、彼はダビデと違って堕落した。人の一生は分からないものである。

 なんと言っても人のすることである。どこかに穴はあるだろう。一点の曇りもない人がいようか。聖人と言われる人々がどうなのか知らないが、カトリックの私がいうのもなんだが、聖人や福者に選ぶということは、なんだか無駄な気がする。列聖などに一生懸命なのは、いかにも宗教の範囲であろうか。それならそれでも構いはしないが。重要なこととは思われない。それよりも信者ならば、弱っている人に寄り添い、苦楽をともにすることの方が意義があると思う。それに他宗教の人々と、あるいは無宗教の人々と、うまくやってゆきたい気がする。人は多様に存在する。そのことが大切である。信仰を共にする人々とは無論うまくやってゆきたい。

 キリスト教圏は比較的豊かである。他宗教の人々は、その信仰がプリミティブな価値を有しているが故に、貧しい側面があるかもしれないが、キリスト教圏のように合理化され、隠れたもののないような世界が人間的かというと、必ずしもそうでもないかもしれない。それに経済的優位から、人を食い物にするのはよろしくないだろう。合理的ということはいい面もあるが、合理で割り切れないものがあるのが人間というものだ。宗教的であるが故に経済では遅れをとることもありうる。バチカンが比較的小さな存在であることは、ヨーロッパ世界に経済的優位を与えたかもしれない。しかしながら西洋人はバチカンに敬意を表する。だが敬意だけである。

 今、ギリシャが危ない。ギリシャは古代後、小さな存在だったが、精神的にはヨーロッパ世界に影響を与え続けた。つまり、ギリシャ哲学、ギリシャ悲劇、ヒストリアなどなどである。近代以来列強が支配した植民地は、未だに貧しい。入り組んでいるので一概に言えないが、ヨーロッパ人や、混血、ネイティブ、など、身分が分かれている。ここに差別が温存されている。それが、キリスト教のもたらしたものだろうか。単純には言えないが、飴と鞭はあったことである。日本もまたそれに習って、植民地化を推し進めた。真似をしないでもいいところである。日本人はいかにも日本人である。周りを海に取り囲まれた島国である。どこか甘い。国境沿いの紛争などあまり経験のない国である。

 日本人はヨーロッパに追随する必要があるだろうか。仲良くやってゆきたいものだが、それは世界の多様な人々とともに歩むという中で、日本人にキリスト教徒が少ないことから、独自な道があるかもしれない。それにしても明治政府の要人にはキリスト者が多かったということは事実である。新し物好きということかもしれなかったが、彼らの子孫も代を重ねた。彼らは優秀であることが多い。それにしても日本の教会はこれから先どうなってゆくのだろうか。善意だけではどうにもならないが、善意がなければことは進まない。私は教会の中でも小さな存在である。足を引っ張るほうかもしれない。自分の生活に汲々としながらも、全世界のことも頭に入れている。つまり祈ることしかできないのだが、祈りは基本だろう。今はそれだけである。何か進展があればいいのだが。八百万の神々の国日本では、他宗教者とのいざこざは少ないと言えるだろうが、他宗教者と面と向かったこともないのかもしれない。新興宗教の事件はあったが。何が正しく、何が正しくないのかは明言できない。日本の古い話でラフカディオ・ハーンの残してくれた「常識」という話は印象的である。そういうことだと思う。ここまでお付き合いくださってありがとうございました。

井の中の蛙的

 英語ができないということは、パソコンをする上で、とても障害になります。文法もですが、語彙力がないということは響きます。私の場合、ごく基本的な語彙力にも欠けているので、それはそれは、不自由です。一々、なにそれ、という感じでドギマギしてしまいます。疎いということは、まっこと不自由です。普通知らないもの、未知のものを探索するため、つまり疎いから、冒険もあるのでしょうが、私はパソコンの前で疎いがゆえに、冒険心をなくします。パソコンという機械を前にすると、これを壊さないようにしないと、このプログラミングを壊さないようにしないとという気が働いてしまうのです。それと言いますのも、約2年前は、分からないながらも、勘を働かせて、いろいろやってみた挙句、パソコン内を、めちゃくちゃにしてしまった経験がありますから。修理に大分かかりました。今回また壊してしまいました。しかし、今回のは冒険心のゆえではありませんでした。いわば不測の事態でした。

 こんなにパソコンを扱うのに不向きな私が、パソコンにお金をつぎ込まねばならなくなるのは、必至でしょうか。英語ができない上に、機械音痴であります。しかも人には不測の事態もありうる。ここはやはり、疎いという言葉の語感からくる、とろさ、なまくらさ、そういうものが不測の事態を呼び起こした感があります。不測にもかかわらずです。グーグルの翻訳は見ないほうがマシな気がしますが、ネット上に以前だったら、私にも解せる英文があったのですが、最近ではついぞお目にかかれません。いろんな分野の英語がありましょうが、私にも分かる英語というのは、とても分かり易かったということかもしれません。私は漱石の英訳された「こころ」を読もうとして1ページ目から落ちこぼれた経験がありますが、日本語の方は読んでいたので、大丈夫かなと思っていましたら、全く歯が立ちませんでした。漱石を翻訳で読む人には、漱石はあまり評価されない傾向にあるそうですが、あんなにテリブルな英語だと、さもありなんといった気がします。いや、テリブルなのは私の英語ですが、漱石の英訳をしようとまで思った人は、漱石の作品を愛してやまないのでしょうが、難解この上ない訳になっています。漱石の独特の文体は、日本語で読むに、しくはないのでしょう。

 最近家人に、ブックカバーをもらいました。文庫本サイズです。それをつけて読むのに今、4冊目です。ドストエフスキーの「悪霊」を読み始めました。これは何十年も前に買っていたものですが、当時はなぜか読めずにうっちゃってしまいました。今読み始めると題名のおどろおどろしさにもかかわらず、ドストエフスキーには珍しく軽妙なタッチで描かれた作品で、江川卓訳です。お読みになっておられる方は多いと思いますが、自分に何か拘りがあったせいか、全然違った印象を持っておりました。まさにドストエフスキーは、良き翻訳者に恵まれ、軽妙なタッチを損なわずに、翻訳されたものを楽しむことができます。世界の広範な地域の作品の翻訳が多くある日本で、読むことができるというのは幸いなことです。しかしなぜドストエフスキーカトリックを目の敵にするのでしょうか。これが疑問でした。ある司教様に聞くと、ちょっと教えていただきました。それはカトリックの組織としての官僚的なところとか、そういったところをやり玉に挙げているようです。実際読み始めたばかりの「悪霊」にも早速そのようなところは出てきました。バチカンは近いうちにイタリアの一大司教区になりさがるだろうとか、書いてありました。そんなところも日本人に受けるのかもしれませんが、ロシアを愛してやまないドストエフスキーにしてみれば、ロシア正教を愛するのは当然です。宗教的な要のところは、情報の坩堝ですから、バチカンに情報が集まるのは当たり前で、日本でも仏教や、神道の指導的立場の人々は情報が豊富です。

 私の昔の知人に、神学校で勉強した経験のある人がおられましたが、テレビなど全然見なかったそうですが、もの凄い情報が集まってきていたと言われました。昔の宣教師は手紙というか文書というか豊富に書きましたから、つまり報告でしょうか、世界中から宣教師たちを通して情報が集まるわけです。天正少年使節団については世界で知られていたわけですし、26聖人殉教についても世界で知られていたわけです。明治に入ってからのキリシタン弾圧についても、世界で知られていたのでした。彼らの犠牲の上に今の日本人は、信教の自由を手に入れたのでした。それは日本政府が世界の言論に抗することができなくなって、しかたなしに信教の自由を認めることになったのでした。日本の常識は世界の非常識、ということは今に始まったことではありませんでした。私は先祖伝来の信者ではありませんが、たまたまそういう地域に住んでおり、今はカトリックです。今度の集団的自衛権の問題は複雑です。この地域は原爆を受けた地域でもあります。私の両親は戦後この地に住み始めました。日本はこれによって、より自立しますが、それによって担うものも増えるでしょう。日本は米国の核の傘のもと守られているのですから、自立した防衛能力はありません。あくまでも比較的にということですが、イランの態度が軟化したのは、この法案と無関係ではないかもしれません。その認識がないと、ただ核廃絶を闇雲に言っても、あまり意味がないような気がします。そういう運動は長い目で見ると非常に意義のあることと思われますが、今現在は日本は米国の核の傘のもと守られているという事実があるのですから、今の政権が目指しているものは、9条を守りながら、より防衛能力を高めるという方向性でしょう。日本人にとっては、はなはだ皮肉ではありますが、それが現実でしょうか。私自身はむしろ改憲したほうがいいのではないかと思っていますが、安倍さんは9条は守りたいようです。つまり恒久平和を求める点では、なんら変わりはないものと思われます。しかし防衛の諸相は変わりゆく可能性はあります。なにせアーミテージのような人がいるわけですから、日本はより自立した国として、どのように対するのか、アメリカがオバマさん路線で行くならば、対話で解決という方向も考えられますが、アメリカの人々はどう考えているのでしょうか。日本としてはアメリカが対話路線で行ってくれるとありがたいのですが、なにせ日本の行く末はアメリカが大きく負っているのですから。とにかく今の所、日本は軍事にさほどお金をつぎ込まなくてもやってこれたわけですが、日本のGNP費は大したものですし、1%はとうに越していますが、中国ほどの軍事費もかからないでしょうか。平和の恩恵の中でぬくぬくとしてきた日本は、今から先も平和でありたいならば、変わってゆかざるをえないところもあるのではないでしょうか。

 英語のできない私は、外国の人と意思疎通ができませんが、代わりにやってくれる人々は多いですし、翻訳文化が進んでいる国ですから、外国の本もたくさん読めます。日本は自分の危機を認識したという点では、さほど平和ボケもしていなかったかもしれません。様々なご意見がおありでしょうが、私も久々に書いてみました。ここまでお付き合いくださってありがとうございました。

現実で繋がるということを目指して

 ソーシャルメディアをやっていると、止めてしまいたいときがときどき訪れる。このブログもその一つだが、以前「マリーゴールドの幻惑」を書いていたが、止めた。そしてまた今回の「マリーゴールドの現実」を書き始めた。他にももう一つだけソーシャルメディアを使っている。メディア上で存じ上げているだけであるのだが、砂を噛むような現実の中で、それらの人々の存在に、慰められたこともある。しかしわたくしは、それでも止めてしまいたいときがあって、実際ほぼ止めてしまったことがある。わたくしはTwitterFacebookなどのソーシャルメディアは用いない。Lineも用いない。Google+を使っているのみである。しかし、一つでもやっていると時間を喰う。ブログの更新は任意だが、G+は毎日やらないと気が済まなくなってくる。というのもメールを頂くので、一日でもやらないと、溜まってしまうからである。いちいち、不在時のお知らせなどするほど忙しくはないし、かと言って、半日家を空けるだけでも、メールは溜まっている。そのメールに勇気づけられたことはたくさんあるのだが、溜まると機械的になってしまう。

 ネットというものは不確かなものである。わたくしは高々、二、三名の人と交信したいがために、G+を始めた。そのために多くの人々を犠牲にしてきた。申し訳ない話である。しかしその二、三名の人々とは、限定公開ではお返事をもらえない。共有の印が残るのみである。一般公開の場では、お返事を頂いたことはある。仏教の絵巻物を通して諸国を渡り歩き、信仰を伝えてきた話がある。地獄に堕ちて、その地獄を遍歴すると、最後には極楽が待っているという話があった。つまり地獄と極楽は繋がっているというのである。わたくしは今、地獄を遍歴しているのだろうか。お返事がもらえない訳は、その人々は忙しい身であったり、ソーシャルメディアなど端なからやる気ないという人であったり、わたくしの勘違いであったりする可能性がある。ネットは不確かなものである。ソーシャルメディアでの繫がりを現実のものにしようとなさっている方々もいらっしゃる。それがソーシャルメディアの賢い使い方なのかもしれない。

 日本人も、フランス人やイタリア人のように、遊び好きになってきているのだから、そのような遊びがあってもいいのだろう。無論、日本人にも昔から遊び好きはいた。それは文化として残っている。ソーシャルメディアは文化と言ってしまえるだろうか。ネット上に写真や動画や文章が遣り取りされはするのだが。これこそまさに儚い文化現象のような気がする。それにわたくし自身は写真や動画はやらない。もっぱら文章のみである。他の方の写真付きスレッドを再共有することはあるのだが。わたくしは極楽にたどり着けるだろうか。つまりその二、三名の方々と現実にお付き合いができるようになるだろうか。一人の人は最近、連絡がついて別途、付き合いができそうなところまできた。もう一人の人は、現実では公的な繫がりしかない。私的には繫がりはない。もう一人の方は、直接繋がらなくてもよいのだが、返事ぐらいしてくれても良さそうなものである。

 人というものは思うようにはならないものである。しかし動くときにはあっという間に、状況が変わる。それはそれは目を見張るような出来事である。わたくしにもささやかな夢がある。わたくしも含めた四人のもの達が、それぞれカップルとして、四人で顔をあわせることである。この関係をもととして、他二組のカップルも加わればいいのだがと思っている。しかしわたくしは呆れるほどの恥ずかしい諸行をしてきた身である。だから現実感はあまりないかもしれない。ただわたくしの相手に予測している人は、わたくしのほぼ全てを知っている。その上でわたくしを相手にしてくれそうに思えるのだが、わたくしの勘違いかもしれない。それに最近連絡のついた人は、またしても絶交状を叩き付けてくるかもしれない。もう一人の人はこのチームのリーダー格なのだが、今のところ、さほどのリーダーシップは果たされていない。ヒントは頂いたが難し過ぎて分からない。つまりこのリーダーと最近、連絡のついた人が、カップルになってくれればなあと思っている。

 それから他二組のカップルは、わたくしの姉妹とその相手となる人であり、ご近所の早くに結婚されている夫妻とである。もうお子さんたちも社会人だろう。わたくしはこの方に恥ずかしいことをしたことがある。わたくしがまだまだ家族を信じきっていないときに、住所をお借りしたりしてご迷惑をかけた。これらの人々のお陰でわたくしは家族を信じ、他者を信じることを少しずつ覚えてきた。やはり歳のせいもあってか、最近は自分がいかに惚けたものであることか、分かりかけてきた。今まで、人様を疑ってきたが、自分の間違いだったことが判明し出した。まだまだ自分の間違いは、続出してきそうだ。そうなると、カップルも何もないかもしれないのだが。しかし今、一人の人とは連絡がつき、一人の人とは現実に公的には関係がある。もう一人は単独では連絡はつかなくても良い人である。皆どうして返事の一つもくれないのだろうか。いやくれている。しかし今一なのだ。今日は運命の分かれ道となる日かもしれない。現実は動き出している。

 ソーシャルメディアを個人的に使おうとした結果、多くの善男善女とネット上で繋がった。勝手にぶちこわしたりしてきたが、お赦しください。こんなわたくしでもよろしかったら、これからもよろしくお願い致します。

お金がないからには

 わたくしはテレビを殆ど視ません。それを利用して、治療のシナリオが組まれたことすらあります。つまり世の中のことをよく知らないので、それが利用された訳です。わたくし自身のことを、自分よりも他人の方がよく知っているように思われることがあります。でも噂話を信用してしまうのもどうかと思われます。世の中の人々は、わたくしにはお金があると思っているようですが、お金の入ってくる理由がありません。わたくしが大学予備校の国語教師をしていたときに、わたくしの授業は録音されていたように感じました。そこを去ってから、折に触れて録音された授業は人に聴かれたような気がします。でもそれだからと言って、それが収入に繋がるとは考えられません。また、わたくしが書いた小説が何者かによって、パソコン上から取り去られたことも多くありますが、それが出版されて売れているような気配もありません。なにか知らないうちに、お金儲けに繋がることがあったともあまり考えられません。

 根拠の薄い噂に振り回されて、預金通帳を穴のあくほど見つめたこともありました。お金が入ったら税務署から何か言ってくるでしょう。しかしわたくしにはそのようなこともありません。つまるところ、わたくしにはお金の入ってくる余地はないのです。分離課税という言葉を皆さんはご存知でしょう。誰の預金通帳にも記載されているそうです。わたくしは年間101万円未満の年金生活者ですが、その場合一切税金はかからないそうですが、銀行員さんは年金の利息にかかる税金が引かれているのだと説明されました。もしそうだとしたら、酷薄な国家です。というより、市でしょうか、県でしょうか。来期の市の予算は大幅にアップしました。通帳には一切利子が引かれた痕跡はありません。利息にかかった税金だから利息が記載されていない分、きっちり引かれているという訳でしょうか。利息と税金が相殺されているというのでしょうか。本来、課税対象者ではないわたくしから、微々たる利息が引かれているのでしょうか。酷薄なお上である。

 誰でもそうだそうです。誰の通帳にもそう記載されているそうです。本来、課税対象者ではないわたくしでさえ引かれているのですから、皆さんのはもっとでしょう。分離課税とは、ある所得を他の種類の所得と合算せず、分離して課税することをいう、とあります。わたくしの場合自分自身の知った限り、他の種類の所得はない訳ですが、つまり年金だけなのですから、合算も何もない訳です。それとも、わたくしが障碍者だから何も知らされていないのでしょうか。もしそうだとしたら、不正です。長崎市は昨日2月13日に予算を計上しました。今年度より43億円ものアップでした。わたくしの通帳にはよく見たら、利息は27円ありましたが、銀行員さんは、年金の利息に課税されて引かれているのだとおっしゃいました。分離課税の意味はそういうことだと言われました。年に2度、2月と8月に利息が入っているようですが、なぜ意味もなく、分離課税の言葉があるのか。

 もともとお金がないのならば、それですっきりもするが、噂話に耳を傾けていると、碌なことはない。お前さんにははなからお金はないのだよと、誰かはっきりと言ってくれないものだろうか。なぜわたくしのお金のことを人が知っているのだろうか。恐らく彼らも噂の虜なのだろうか。わたくしにはお金の入ってきそうなことがなくはないが、普通の感性からすると、ちょっと非常識だろう。なぜ作品が盗まれるのか。それは分らないが、どうも遠隔操作でそうされているのか、それとも、CDに焼き付けて去って行くのかよく分からない事態が起きている。それとも過去に拘泥せず、新しいものに向かうように、誰かが仕向けているのだろうか。

 わたくしは今度の入院前後では書く力が変わってしまったように感じている。この二、三年は模索状態だったように思える。お金があるようでないのは、わたくしに発奮を促すためであろうか。どうやってもお金は出てこない。わたくしにそれだけの働きがないことはいえるかもしれないが、善意で作品を取り去る人がいるだろうか。いたら名乗り出てもらいたいものだ。過去の作品に捕われずに、新しく書くことはわたくしにとって必要なことである。似たようなことは入院前にもあった。わたくしは処女作を含めて始めの三作を盗られた。おまけに、近作も盗られた。今回の入院後、また盗られたものがある。

 自分を救うために、どうすればよいか。わたくしには新しく書くことしか残されていない。嘆いてばかりはいられない。今まで書いても書いても、賞に応募しなかった。比較的短めであったこともいえるが、この2年間は学校生活に身を入れようと思っている。発表したら、チャンスはあるかもしれない。それにしても、稼ぐ当てのないものとしては、不遜に過ぎる遣り方かもしれないが、わたくしとしてはそれしかできないのであるから。