読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

マリーゴールドの現実

「幻惑」から「現実」へ

新しいものはない。

 自分でも訳のわからないことを書いているものだ。なんか焦っていたのだろうか。いつものことだが。いつも焦っているのだろうか。いやむしろ、残念な思いを抱えて、それを一応はやり過ごしてから書く場合もあった。つまらねえブログだと自分でも思う。何もわかっちゃいないのだ。誰かわかっている人がいるのだろうか。それはともかく、私にはわからない。ある程度わかっている人々はいるのだろう。無論、人間は全知ではないから、鳩首してやってゆくものだろう。新しいものは何一つない。少なくとも本当にごくたまにしか新しいものはない。連続して本を出す人など、違ったことを書いているのだろうか。しかし、旧約聖書の昔から、新しいものは何もないと言われている。自然科学の分野では発見があるが、既にあるものの発見であって、なかったものの発見ではない。人間が知らなかっただけである。しかし、そういう発見が素晴らしいことなのだろう。社会科学の分野では、変化というものに敏感な気がする。しかし、変わらないものは変わらない。根底から覆されるというようなことはあまりないようである。人文科学の分野では、新しい切り口というものがある。自然には何一つとして同じものはない。クローンがいるとしても、違った状況を生きねばならない。同じ親から生まれてきた子供が、全然違うように、一卵性であっても、全く同じではないし、やはり違った状況を生きることになる。同じマラソン選手でも、順位が違うように。何一つとして同じものはないし、何一つとして新しいものもないのである。パソコンでさえ、同じ工場で生産されても、全く同じではない。個体に備わった出来というものがある。私のパソコンは出来があまりよろしくない。立ち上がりが遅いのである。聞くところによると、どの地域で作られたものが出来が良い悪いということではなさそうである。やはり個体に備わった出来なのだそうである。今日は千文字あたりでお暇しようかと思っている。いつもは2千文字強なのだが、書くこともないのに2千文字という短文でも書き継ぐのは困難である。訳のわからないことを書くのは、そういうことも影響している。千文字でも危ういが。妄言を吐く私は、自分では普通だと思っているが、あらゆる意味で普通とは何かとうことで、普通の定義が危ういこともあって、まあ、とろいということで、普通ではないかもしれない。妄言は消し去りたい気もするが、キャッシュされるだろう。ここまでお付き合いくださってありがとうございました。ではまた。

卑近なところから世界まで

 やはり人というものは、下品なものが好きのようである。私が下品な表現をすると、読者は増える。しかし近しくしていた人は去って行く。ブログは本音を書いても良さそうなところだが、自分ではあまり本音は残したくない。しかし人は本音が好きである。ああ、そうだ、私は下品なものである。だから私の本音は下品である。だが私のブログなんかほとんど読まれないに等しい。70歳までしか生きないつもりだから、その先、生きるようだったらどうしようか。自殺も考える不届きものである。最近の自殺者は、二万人代である。随分減ったものである。一万人近くは減っている。いいことのように思えるが、本当だろうか。どうも安倍政権は私の書くことを気にするようだ。障害者施設法の改悪を書いたら、それに反応した。過重労働を書いたらそれにも反応した。他にもあったが忘れた。いちいち覚えてられるかい。こちとら政治家のような暇な精神はしておらん。彼らは忙しそうにしているが、本当は暇なのである。国会中継をたまたま見ていると、視聴者を気にする、というか、私が見ていることを気にしている。しかもバカにしてやがる。そういうお前さんらがおバカさんなんだ。そんな暇があったら、審議に熱中しろい。あくびの出るのは仕方ないが、その分その直後ぐらいは気をひきしめよ。だべりやがって。真面目なのは安倍さんと蓮舫さんぐらいじゃないか。質問者は、私が見ているのを察すると、いつも予定を変更する。なんか都合でも悪いのか。麻生さんは、ここで言わなかったら誤解されるのでと、えらい勢いで僅かの時間で喋る。この人は遊びたいのを我慢して、仕方なく椅子に腰掛けているといった風情である。でもこの人が首相だったときには、ホテルのバーで飲みながら人々と歓談するという親睦を図ったが、それは私がホテルのバーで飲む人々をよく書くからだったが、彼はそれでそれが国民一般だと読み違えたらしい。そんな贅沢は一般国民はしないらしい。私もホテルのバーで飲んだのは一度きりである。もちろん私は支払わなかったが。自分の銭では行けない。しかしあれはいい試みだと私は思った。麻生さんは、ホテルのバーで歓談し続ければよかったのに。やはり一般のバーよりはホテルのバーは清潔感がある。それがよかったのにである。国民も度量が狭い。この人は頭がいいのか悪いのかわからない。多分いいのだろう。それが報道される場面に出てこないだけであろう。なにを隠そう、私は麻生さんのファンなのである。次期首相には歳を取り過ぎているかもしれない。やはり小泉ジュニアか誰かになるだろうか。民進党は論外である。こういうことを言うと安倍さんの嫉妬を買うからやめておこう。TPPは本当に保護主義から遠いのだろうか。先進国の有利になるだけではないだろうか。もちろん自分の生活が危うくなることを感じながら書いている。日本人にとってはいいかもしれないが、世界のバランスで考えたら、TPPでは生きられない人々も多くいるようだ。これはアメリカのような超大国が不参加だから言っているのではない。彼らはシャープまで取り込もうとしている。あまりの無節操である。それにしても今からは新しい時代が始まるのだろう。今までの枠では収まりきれない状況になるのかもしれない。先を読みながら、善意の外交をして行くべきだろうか。日米同盟は今までのようなわけには行かないかもしれない。しかし、日米間が一番いい次期だったはずのオバマ政権のもとで、アメリカの本土防衛が叫ばれた。日本は守られているという意識を変える必要があるかもしれない。トランプ大統領ではそれは望めないだろうし。ただ彼はビジネスでは日本を無視するわけには行かないだろう。軍備には持論がないから、核充実を図ろうとするようなことを言ったのかもしれない。しかし核軍備はもう古い。それは過去の軍備だ。今からはもっと違った構図が出来上がるだろう。沖縄も長い目で見て、負担は軽減される方向に行くかもしれない。アメリカは日本を守らないなら、去っていただくしかないからである。中国との諍いの道具にされては真っ平である。中国は現に領土を拡大している。もともとあんなに大きな国土の国なのに。もっと内陸部の充実を図ったり、人権問題や差別をなくす方向に気を使えば世界から尊敬されるだろうに。香港や台湾を締め付けるだけでは、問題は片付かない。鄧小平はもっと賢かった。近来、中国の政治家は道を誤っている気がする。今のところ、核軍備していない国が圧倒的に多いのである。もっと減らす方向で行くべきである。日本が軍備をアメリカに頼らないとしたら、それ相応の自衛はしなければならなくなるかもしれないが、核軍備はしないほうが世界とのバランス上もいいだろう。日本が核軍備したら、中国を刺激するだろう。日本の軍備は、既にそれ相当なものである。アメリカの核の傘のもとにいると、思い込んでいるだけで、核の傘というものがいかばかりのものであるか、今だって十分にわかっているのではないか。今から自分の国に目が行くようになれば、自国の足で立つことが求められるようになるかもしれない。もちろん、援助はなされるにしても。やはりイギリスは新しいのかもしれない。それそうとうの苦難を予測しての出たとこ勝負であろうか。EUというものもその圏外のものにとっては、あまり意味のないものである。今からの世界の動きは見ものである。どう変わってゆくのか。ここまでお付き合いくださってありがとうございました。

行き着くところは神様、

 今年も末ごろにあるだろう教会のバザーに出す服を、早々とクリーニングしてしまった。痩せていた頃に買ったはずのレインコートが、太っている今もブカブカである。ピージャケットは小さすぎる。姉からもらった、上等のジャケットもなぜか大きく感じる。それを着たらまるで男みたく見える。以前はそう見えなかったのだが、髪を短くした今はそう見える。髪を伸ばす予定はないし、この3つはバザーに出そうと思っている。レインコートはクリーニングに出す上で、撥水加工もしてもらっている。ニタニユリエである。いずれも良い品だが、合わなくなっているので、お譲りしようと思っている。男みたく見えるというのは、そのジャケットを着たときばかりではない。どんな服を着ていても、去年の4月ごろインタビューを受けたときに、写真が必要だったのだが、私が構えると、「どうも、ボーイッシュに見える」と文芸ジャーナリストはのたまわる。2度目にお会いしたときには、少しでも女らしく見えるようにと、赤い服を着た。それでも白黒写真だと思っていたら、カラー写真だった。書斎が一番いいのだがとおっしゃったが、私の部屋は書斎と呼ぶには、貫禄がない。それにうっすらと埃が積もっているし、何せ4畳半なので、ところ狭しである。この中に約1500冊の本があり、タンスがあり、もちろん机と椅子もある。低いおんぼろソファまである。汚いのは私の部屋だけではない。築45年の我が家はどこも汚い。自室にたどり着くまで、汚い廊下と階段を通ることになる。いつもはそんな家にしがみついている私であるが、見られたくないばかりに遠藤周作記念文学館まで、わざわざ行った。スコセッシ監督による「沈黙」が映画化されたとの情報が流れたのは、そのちょっと後である。遠藤周作の記念の年だったらしく、もうすぐ記念の行事がある様子だった。私がカトリックであることを知ったその御仁は、遠藤周作についての何かを聞き出したい様子でもあったが、私はあまり興味はないとの一点張りで通した。実際、あまり興味はない。スコセッシ監督が映画化されたのでまた多く読まれるかもしれないが、私はその機運にも乗らないだろう。しかし、遠藤周作という人は好きだった。テレビを通してしか知らない、いや一度、母校であった彼の講演会を聴きに行ったことがある。彼は「一応売れているのに、自分がその土地に行って何か喋ると、途端に売れなくなる」とか言っていた。私はその講演会に遅れ気味に行ったのだったが、私が席を探している様子を見て、にんまり笑ったような気がした。その人がもういないのだ。しかし、彼は死んでしまってはいないようだ。彼の存在感はしかとある。彼の文学館は外海地区に寂しく建っている。風に吹かれている。それでいいのだろう。私はカトリックとは無縁のものを書き続けるかもしれないだろうが、ふざけた小説まがいである。

 今度の文学賞に落選して、自分で梗概を書いたものはなくなった。書くべきものも書かなかった気もするが。ともかく落選した。勝負は2か月後である。私は自分で書いたものの梗概が書けない。そんなに短くできるものならば、長く書く必要もないではないか。私は本能的に書いているので、なおさら梗概は書けない。私は着地点を知らないまま書くのが好きである。それから調べないで書くのが好きである。ただのデタラメかもしれないが、最低限しか調べない。事実とは異なったことを書いているかもしれない。しかし私の作はもともと創作である。人様にお尋ねして書いても良かったものを、その労を取らないで書いたこともある。ただのズボラである。しかし、自分自身の身に起こったことは、ちゃんと裏を取ってある。私にしかわからないが。それにしても、こんな私のような小さな存在が大きな企業に影響を及ぼす。なんだか空恐ろしような気もする。ペンの力はやはり大きなものらしい。ペンの力は書いたものの力によるものだろう。ペンそのものに力があるのではないからには。私にも力があるのだろうか。波紋なら何回も投げかけた。しかし文学として評価されることはなかった。私は直木三十五賞が欲しい。芥川賞は年寄りの私には向かないような気がする。それに内容的にも、向かないような気がする。なにを寝ぼけた戯言をと思われるかもしれない。賞には無縁の私である。今、朝日新聞では吉田修一氏の小説が連載されている。この方とは同郷である。同じ新聞の同じシリーズに載った。しかし私はこの方のような才能もなければ、探索力もない。私は図書館学を学んだが、図書館でうまく資料を探せない。私の探そうとするものは特殊なせいか、ヒットしないのである。キーワードで探して借りて読んでも、すかされる。やはり人様とのつながりも必要なのだろう。本ばかりが相手ではない。取材するにはある程度の、認知度がなければならないかもしれないが、私の場合、教会の神父様にお尋ねすれば良かったものを、それさえしなかった。そのことを知っておられるような神父様がまだお一人いらっしゃる。いずれお尋ねしたい気がしている。だがだいぶあとになるだろう。30年ぐらい前まではラテン語でミサがなされていたようであるが、地域と時代によって異なるそうである。その違いが知りたい。長崎で当たり前でも、全国ではどうだか知らない。私の家はもともと仏教なので、その辺り訊く人がいない。先祖代々の信者さんが多いこの地域で私は異色の存在だが、結婚のために、それを通して洗礼に至る方も多いようである。最近はあまりそういう方も見かけないが、結婚講座は開かれている。2、3か月後にはなにが待ち受けているのだろうか。私には縁の薄い事柄ばかりだが、世間では日常的に起こっていることである。異宗婚というものは寂しいものである。私は結婚していないが、私の家族は同じ宗教ではない。それでもぶつかることはないが、一人で教会へ向かうのは寂しいものである。カトリックの方はよくご一家で信仰を持たれる。それがいいあり方のような気がする。無論、信教の自由があるので、他宗教の人と結婚しても、家族の中で信仰が違っても構わないのだが。私は神棚の水も変えれば、仏壇にご飯も供える。さすがにお参りはしないが。しかし親戚の仏壇にはお参りする。それは日本の風習だからである。ご都合主義かもしれないが、自分では柔軟性があると思っている。信仰は秘められた中にあり、公にされる。ここまでお付き合いくださってありがとうございました。

痛し痒し

 10月も書かず、11月になってしまった。今、特に暇なわけではない。また特に忙しかったので書かなかったわけではない。人にはいろいろと、事情があって書けないことがある。私など文学賞に応募している者は、余計なことは書けないという心理が働く。しかし去年、応募して落選したあとの記述が、今回の賞が決まる前に出てきた。もちろん不満足な雰囲気で書いている。確かに自分の力量のなさも書いてはいるのだが。なにかの力が働いて、あるいはその力の前には無力で、決めるべきことも公正には決まらないといったようなことを書いている。選者からしてみたら、怒り心頭かもしれない。しかし、日本は言論の自由のある国である。正しいことばかりが云々されるわけではない。人の思い違い、考え違いの言論もありうるのだ。むしろそっちの方が多かろう。そして文学を多少かじっている者として考えるに、真実は砂金のように稀少なものであると考えられる。事実はたくさんある。事実で成り立っている世の中である。私が文学賞について考えたことは、稀少なことだろうか。否、むしろ、落選した人は皆と言っていいほどそう考えるのではないだろうか。でも、大賞以外は望まないので、佳作などにさえ選ばれないのがありがたい。はした金で著作権を取られるのはまっぴらゴメンである。こちとら、しばらくしたら、出版でもしようかと考えている。しかし、今までのままでは到底、作品になりえていない。大幅に書き直して臨むつもりである。そうは言い条、皆さんの中には私の書いた作品を読まれた方もいらっしゃるだろう。私はこの国では珍しいクリスチャンである。しかもクリスチャンであることが、この国では珍しくはない地方の住人である。この地方では新しくクリスチャンになる方は珍しい。むしろ東京方面では年間何十人と洗礼を受けられるそうである。しかし、その方々のいかばかりの人々が根付いているだろうか。よっぽどのことがない限り、毎週主日のミサ、礼拝に行く人々はどれくらいだろうか。それはともかく、私はこの国では珍しいクリスチャンなのだが、その者が、何か書いている。当然いろいろと書くものの内容は精査される。しかし、今のところ、教会を離れていた時期が長かったので、その間、書いたものでは、これぐらいの宗教批判は、、と考えたことはあった。キリスト教にだけではない。宗教一般についてである。私はキリスト者であるが、もちろん他の宗教を否定しない。否定しないどころか仲良くやってゆきたい。ところが教会に帰ってみると、今まで平気で書いていた事柄に、平気ではおられなくなってきている。以前は肝が座っていたと言えるが、今の私はご都合主義に近い。いや、ご都合主義ではないが、常に、バランスを考えている。こんなことがあっていいものだろうか。しかし教会人たちは必ずしも護教論を望んではいない。文学にしかできないことがあるからだ。神様は何もかもを覆っておられるかもしれないが、小さな人間の限界をご存知である。人間の限界を書くときに文学は生きてくる。しかし今の私にはできていないだろう。最近まで私はほぼ創作が多かった。最近は限りなく自分に近いものを書いている。私小説とは言い難いが。そんな中、自分の信仰に根ざした何か深いものが書けるかというと、そうはゆかない。私はおちゃらけているのだ。真面目に書こうとするとずれて行く自分がある。私には遠藤周作の世界は書けない。三浦綾子の世界も書けない。私は私であることしかできない。しかし学ぶべき所は多くある。実のところ宗教性はあまりもたせたくないという気すらあるのだが、ちょこちょこ神様は顔を出す。それも、書かないで表すという深遠なものではない。むしろマンガチックに出てくる。それが私だろうか。そうかもしれないが、期待されるようには書けない。期待は裏切られるだろう。あまりにも愚かな私なので、一般の人々にも受け入れられはしない。しかし私は自分を書く場合には、「愚か」ということを主眼にしている。立派な自分でない限り、そうならざるを得ない。無論その中には、不信仰も入っている。罪も入っている。背教もある。占いなどにかまけていたりする。それに私は「性」を抜きにはなかなか書けない。自分が性にこだわっているからである。性と宗教を結びつけるのは、綱渡りのようである。それからお金の問題。私は一文無しであるが、お金に対する強い願望がある。神に仕えるか、マモンに使えるか、もちろん予想に反して、神に仕える。だが、お金に対する願望が強いことは紛れもない事実なのだ。私はこれを引っ込めようとは考えていない。なにせ愚かな私であるからには。マンゾーニは嫌いではないが、彼の護教的な所は一般信者として楽しめるものの、一文学をする者としては、眉をひそめざるを得ない。しかし彼の描写は優れている。描写力が可笑しいくらいにある。では二千文字になるのでこの辺りで失礼いたします。お付き合いくださってありがとうございました。

アーメン

 私にはわからないことが多い。当たり前かもしれないが、つくづくそう思う。このブログのアクセス解析の部分だけでも謎である。9月の11日から12日にかけて4という数の方が読んでおられるようだが、単なる4人なのか、何かの単位なのかわからない。無料ブログなので、詳しいことはわからない。私にはこういう基本的なこともわからない。案外、4人なのかもしれない。でもこの間、コンマ5だったか、あったような気がする。とすると違うのかもしれない。どうであれ、無料で済ませていただいているので、詳しいことはわからない。以前「マリーゴールドの幻惑」を書いていたときには、思っていたより多くの人々が読んでいてくださったようだが、世界中で読まれているというようなことを言う人々もいたが、グーグルやフェイスブックの翻訳があの程度なのを思うと、私の日本語が、理解できるように翻訳されているものか、甚だ疑わしい。それとも世界に散らばっている、日本語ユーザーの方の間ででも読まれていたのだろうか。「幻惑」時代はいささか子供じみていたが、いまも大して変わらないながら、読み続けていてくださる方もおられるのだろうか。

 私のパソコンが覗かれていることは、薄々感じるが、こういったブログやフェイスブックなどが覗かれるのは当たり前だが、個人的なメッセージもフェイスブックの人々や広告関係の人々は覗いているのだろうなと思う。広告業界はあざとい印象を受けるが、それも仕事だろう。しかし、個人的なメッセージやら他の書きものに記したことで、広告が出てくるのはなんだかうんざりする。パソコンがパーソナルでないことは、常識かもしれないが、私ぐらいの考えることはよっぽど一般的なのか知らないが、私の書いたものはすぐに知られてしまうような気がする。それともただの偶然だろうか。私がモンキーズの「デイドリーム」を口ずさんでいると、ある番組のテーマ曲になった。かと思うと昨日、投稿した小説の中には神戸が出てくるが、出てくると言っても実際には行ったことはないのだが、今日のその番組は神戸からだった。関連付けるのも馬鹿らしいかもしれないが、私はネット上で作品を公開したことになっているのだろうか。それにしてもできの悪い作ばかりだった。それは認める。しかし今後、ネット上で公開されていることになっていたら、私の行く先は困難である。

 PCデポさんの噂を聞く昨今であるが、実際の文言は読んでいない。又聞きぐらいの形で目に入ってくる。しかしよく考えてみるとPCデポさんを揶揄したのは私かもしれない。あんまりお金がかかるから、ぶつくさ言っていたのである。打倒PCデポとか書いたような気もする。いやはや世間というものは狭いものである。PCデポさんには近々行くことになっている。私のような老嬢には、丁寧な受け答えであるが、一旦家を出たら、何を言われているかわからない雰囲気は確かにある。私にはわからないことが多いのである。パソコン関係はその最たるものである。感覚で使っているだけなので、何にもわかっちゃいない。それで馬鹿にされているかどうか知らないが、あまり私に惑わされないでいただきたい。

 私はアップルもあんまり信用するまいと思っている。美しいかもしれないが、静かかもしれないが、高いことは高い。私はMacBook ProiPad miniを持っている。姉にはG4を譲った。G4はともかく、MacBook Proは冬は冷たい。とても冷たい。夏でも打ち間違いは多いが、冬、指先の出る手袋をして打っていると、尚更である。アップルが今度、何年か後に、金属からプラスチックなどに外部を変えたら、このMacBook Proがポンコツになったときにも、アップルを使い続ける可能性はある。だが、ここ数年はこれを使わねばならない。冬、寒すぎるから、今度買うときにも金属だったら他社のを買う可能性もある。私は何と言ってもアップルのパソコンは静かなのが気に入っている。ウィンドウズは唸っている。それでせき立てられるような気分になる。逆にウィンドウズから唸りが消えたら、買うかもしれない。どうか、切磋琢磨して良い製品を作っていただきたい。

 切磋琢磨といえば、私どももそうしなければならない。同人誌の同人の方々とも言えるし、お顔や名も知らぬ競争相手の人々とも切磋琢磨しなければならない。私はよく何かし終わってホッとしたときにブログを書いたりする。それで昨日あたりここを訪れた人が4人いらしたのだろうか。私の行動パターンは読まれているのだろうか。13日の今日は0だった。このブログもいつごろ、陽の目を見るだろうか。陽の目を見るといっても高々4人である。一つの番組を作るには相当な時間がかかるだろう。昨日、読んで、今日、放送というわけには行かないだろう。でも私はずっと人の目が気になっている。他の局でも私が江ノ島を登場させたら、江ノ島が出てくる。また、アーメンコーナーが持たれたりした。アーメンコーナーと言うのはほんのちょっとした時間というぐらいのものである。これはダンテの「神曲」に端を発している。日常的にアーメンという言葉は西洋では使われているが、アーメンという短い言葉の合間というような意味で、短い時間を表す言葉なのである。それは「マリーゴールドの幻惑」を書いていたときに記した。

 でも人々の影響し合ったりするのは、楽しいことである。私は三谷幸喜氏からもマークされているような気がする。大演出家だから、私のようなのが隅っこで、こんなことを書いていることなど、気にはなさらないだろう。影響し合うのは楽しいことである。そして、私が考えるようなことは、大概、誰か考えている。何回となくパラダイムは転換したのだろう。しかし、プラトンは滅びない、アリストテレスも滅びない。偉大な先人たちには敵わないかもしれないが、新しさも追い求めず、着々と書いてゆきたい。新しいと思った瞬間、古びるものだ。文学でできること、それだけを思って書いてゆきたい。ここまでお付き合い下さってありがとうございます。

言葉、もろもろ

 昔の作品を見返すと、いやあ、ひどいものである。よくあんなものをいけしゃあしゃあと投稿していたものだと思う。あれで昔は自信満々だった。今もさほどに上達はしていないが、もうちょっと謙虚にはなってきた。今は自信もなく、これだけしか書けないから仕方ねえ、と思って投稿する。私に文筆の才がないのは、これを読まれても明らかだろうが、ここも楽しみながらも、一種、義務感で書いていることは、いつか書いた。最近、読書ができない。たて続けに投稿していたからでもあるが、少し時間があると、ぼんやりしていることが多い。いかにも休憩である。しかし書かれる方々は、書くためには必ず読書が必要なことを言われるのは共通している。私はインプットが足りない。最近変わってきたのは、古典的名作は読めなくなっても、同人の方の原稿や、刷り上がった冊子なら読めるようになってきた。多分、古典的名作も読みはするだろうが、角田光代さんの読書量、読書範囲の多さ広さに驚いたりする。最近「罪と罰」を読まないで「罪と罰」を論じる、という企画があったが、ご活躍中の作家さんたちでも「罪と罰」を読んでおられない方がいらっしゃるのだと、少し胸をなでおろした。「罪と罰」なら私は読んでいるが、「失われた時を求めて」は読んでいない。「消え去ったアルベルチーヌ」を読んだだけである。大体、私はロシヤ文学ならある程度読めるが、フランス文学は苦手である。作家になろうとする人で「失われた時を求めて」を読んでいないということは、ありえないことのようである。私はカフカの顰に倣って、分かち書きをしなかったりすることも多い。今日もそうなりつつある。よろしくないところは真似て、読書せよなどの正当な意見には従わない。私の脳は、読む脳も、書く脳も同じのようである。書いたら休まねばならない。その疲れは読むことでは癒されない。多くの作家さんたちは、休むために読まれるのではなく、書く上での必要もあって読まれるのだろうが、私に限って言えば、昔から読書は私の休息だった。だから今の私は変質してしまっているのだろう。しかしよく考えてみると、私が書くのは自分が癒されるためのようでもある。書くことは、言葉を用いるので、脳のイカれた私は、書くことによって自分を治療しているのかもしれない。休息するために人々はいろいろな活動をする。スポーツ然り、音楽然り。身体などを動かすことによって、人は休息する。あるいはその観戦、鑑賞などによって休息する。やはり私は特別ではないようだ。書くことによっても、読むことによっても癒されてきたのだろう。人がさまざまの職業で疲れて帰ってきながらも、それが原動力にもなって誇りを持つように、仕事によって人は生かされているのだろう。人が病気になったりして仕事ができなくなると、初めは嘆くことだろう。しかし、私ども人間は、人様の仕事を観たり聴いたりするだけでも癒される。それがスポーツ、芸術の役割でもあろうか。また病みながらそういう活動をする人々もいる。書くことと読むことの間のように、あまりそこには界はないのかもしれない。人間らしい文化的生活を送ることは、日本国の憲法で最低限守られるはずなのだが、この日本でもそれは完全にはなされてはいないだろう。しかし、私ども人間には「夢想」という逃げ道がある。夢想することによって、人はしばし楽しむことができる。なにかの罪を犯して、刑務所に入っている人々にも、夢想することぐらいは許されている。そして読書も、書くことも許されている。もう刑が実行されてしまったが、永山則夫という死刑囚がいた。彼は獄中から本を出した。話題性ばかりでもなく、よく読まれたようである。私は「無知の涙」も読んでいないが、彼は自分の犯した犯罪で傷つけた人々をも自分をも、図らずも癒していたに違いない。癒しなどという言葉が当てはまるかどうかわからないが、言葉を用いることで、人は自分のことをよりはっきりと知ることができるようになる。大きな罪を犯した人は、なかなかそれを口の言葉に言い表すことができないものだが、言葉にすると救われるということは実際あるのだ。裁判で被告席に座り、罪状を聞き、罪を認めるということは、いかにも人間的なことである。そこまでは行かなくても、人間はある種の罪を犯す。なかなか言葉にはできないものだ。また、あまりにも大きな苦痛を味わった人々もそれを口にすることは難しいもののようである。しかし長い時間が経った後、それを口の言葉にすることによって、自他を癒すことができる。言葉の力というものは、あだやおろそかにはできない。言葉一つで人を殺すこともできるかもしれない。そういう側面も、言葉にはある。諸刃の剣である。どうか私の言葉が、人を生かすことができるよう。慰めとなることができるよう。言葉と心は一つことかもしれない。三重苦を負ったヘレン・ケラーはやはり言葉の力を得ることで生きた人だろう。私の夢想はきりがないが、夢想する権利ぐらいは行使してもいいだろう。ここまでお付き合いくださってありがとうございました。

評判の悪い私、

 ある県へ家族旅行してきた。私と姉の仲の悪いのは知られているようで、いろいろ憶測された。しかし母の評は違っている。母は姉と私は絆が強いという。母にはあと二人の妹がいるが、彼女らと仲は良くても、姉と私のような絆の強さではないという。よく考えていただきたい。仲がいいとか悪いとか、他人事として言っておられるようだが、自分の兄弟姉妹との関係は考えたことがあるのだろうか。人の心の機微というものは、経験しないとなかなかわからないものだが、私は他人事として勝手な噂話はしたくないと考えている。特に姉は怖い人と思われているようだが、そんなでもないことは、食事処のお店の方にはお分かりになったことだろう。姉は情に熱い人である。確かに怒りっぽいが、私との凸凹関係である。兄弟姉妹というのはそのようなことはざらではないだろうか。「沈黙は金なり」という言葉は、黙っていることではなくて、憶測でものを言ったり、自慢話に浮かれたり、とそういったことをしないということだろう。

 やはり私の小説の評判は悪かった。投稿先を間違ったろうか。あれは十分、純文学系でも行ける作品だったが、エンタメ系に投稿した。エンタメ系とうってあるのだから、それに応えねばならなかったのだが、私の間違いだったらしい。エンタメ系というのは切ったり張ったりのどんちゃん劇だけなのだろうか。主催者の意図も確かめないで、と思われるかもしれないが、自分なりの考えでエンタメ系という言葉を捉えて、投稿した。しかしやはり間違いだったようだ。普通の結婚をしていないというだけでも十分にエンタメ系ではないかと思ったが、それも間違いだったようだ。祭りの要素も取り入れたが、それも間違いだったようだ。その県の地名や、特色や、食べ物も取り入れたが、どうもうまくいかなかったようだ。やはりよそ者にすぎないか。私は人様にある程度知られているので、偏見を持たれているのではないだろうか。

 しかし今回行った県が特別なわけではない。わが故郷であるこの地でもそうだ。いろんな人がいる。それにしても姉に対する偏見はやめにしていただきたい。兄弟姉妹喧嘩はやるものである。姉は姉だから妹としての私に高圧的なだけで、それ以上でもそれ以下でもない。歳上というだけで高圧的なのは人間社会一般である。特に日本はそうである。そういう文化ではないか。自分たちのことは棚に上げて人のことをあれこれ言うのはやめてもらいたい。姉に対していろいろ言う権限のあるのは、母と私だけである。もちろん仕事場での評価などは私どもの知るところではないが、いろんな人に取り巻かれていることだろう。姉は結婚している人とも結婚していない人ともうまくやっているようである。もちろん最初から偏見を持つ人には受け入れられないかもしれないが、普通に付き合えば分かる人にはわかるようである。誰にでも欠点はあるから、批判されるかもしれないが、自分のことはわかっているのかと言い返してやりたい。

 上記に自慢話はしないと書いたが、実は私は自慢話を聞くのがそんなに嫌ではない。自慢話はうまくいった経験であるから、本質的に面白いのである。何度も聞くのは確かに辟易だが。しかし世の中から自慢話と噂話がなくなったら、人々はそれこそ沈黙せざるを得ないであろう。姉と私のことも噂話の一環であろうから、さほどに気にしてはいないが、そういう親父やギャルや若者はこちらから無視している。つまり私どもは誇り高いのである。いちいちやり返したりはしない。それは内輪揉めだけである。それは大事な存在なので、無視しないのである。姉は時々、私を無視するが、それは大事に思っていないからではない。その無視は内輪だからの無視である。人様を無視するのは、悪口を言われているときだけだろう。若いころ無視するなどということはできないと思っていたが、この歳になるとできるようになるものである。

 このブログも確かに起承転結はないかもしれないが、書かないよりはマシだろうか。いや書かないほうが利口なのかもしれない。しかし私はパソコンユーザであるからには、それなりのことはしたいと思っている。ブログの一つぐらい書かないと、物書きとしてもどうかなと思う。私が素人だからそう思うのかもしれないが。プロは文章をタダで書いたりしないものかもしれない。ここは無料ブログなのだが、大概の人はお金を支払って書いておられるのだろう。そこまでするプロがいるだろうか。仲間内でしか見ることのできないものはあるのかもしれないが、私はそういうものは認めない。第一、風通しが悪い。私はある作家のファンサイトからも排斥された。そこはごますり輩の巣窟だったが、私はパンチの効いたことを書いていた。それで締め出された。そういえば作家の他に、芸能人のブログというものがある。私は見たことはないが、案外読まれているようだ。私は無関心だが。このブログはどういう立ち位置なのだろうか。私は芸能人じゃないとずっと言ってきたが、私を芸能人のように言う人がいる。一銭も稼いでいないのに、芸能人呼ばわりするなと言いたい。第一私には芸がない。二千字を越したのでここで終わることとしたい。お付き合いくださってありがとうございます。