マリーゴールドの現実

「幻惑」から「現実」へ

書くことへの疑い

 「寂しさの徒然に」と題しようかと思ったが、徒然はともかく、寂しくはないなと思った。本来私は客観的には寂しいと思われる者である。だが今は寂しくない。寂しい時もあった。これから先寂しいと感じる時も来るだろう。だが今は寂しくない。客観的に見たら寂しいだろうにと思われるだろうが。「寂しさの徒然に」は井上陽水の歌の歌詞である。私はこの方のヤバさが好きである。ちょっと失礼な言い方かもしれないが。ロバート・キャンベルさんが井上陽水の歌詞を英訳しておられるという記事も見たことがある。リービ英雄が「万葉集」を英訳していたが、その新書は部屋のどこかにあるが、まともに目を通していない。私は日本語すらまともでないから、いわんや英語をやである。先日、面白そうな新書を3冊ばかり購入したが、それは机上にあるものの、読まれる気配は一向にない。私は読むべき本に囲まれているのだが、どれから手をつけるべきか迷っている。手をつけても読み通せないことは多い。

 私の書くものは炎上とは無縁だろう。よし炎上していたとしても、私は知らない。どこかで炎上していても知らないことが多い。パソコンを持っていても情報貧者である。それだけ頭が悪いということだろう。義務で読むべき文章は、なんとか読んだ。義務ではない文章は、面白そうでも読めない。面白そうでも、というところが肝腎である。本が多すぎるのである。それなのに自分も屋上屋を築くようなことをしている。こんなに本があってもしょうがないと思う。私のようなマイナーリーガーは思う、これ以上書いていいものかどうか。しかし書く。なんの意味があるのだろうか。あるいはメジャーの人でも思うことかもしれないが。いや、思わなければおかしいと思う。「ヨハネ伝」の終わりにはイエスのなさったことをすべて書くなら万巻の書があっても書き尽くせないだろう、というような文言がある。似て非なることだが、万巻の書を誰が読み通せるだろうか。読み通す人は世の中に3人ぐらいじゃないだろうか。

 知識の共有もできないで、どうするのだろうか。共有の意味が少しわかるようなことであるが。何十年来、読まなきゃと思っている書物はいくらもある。しかし、今はこれを読まねばならない。それは後でと、純粋に楽しみとしてある本は、先を越されてしまう。この分で行くと、いい本は読めずに終わるかもしれない。下手の横好き、私自身もそうだが、そういったつまらぬ作ばかりに目を通すことになるやもしれぬ。私のようなのが編集の片棒を担いでいるが、自分のも含めて、下手な作ばかりに目を通すことになるのかもしれない。人様にもそれを強要することになっているのかもしれない。しかしマイナーリーガーにもいいところはあるのである。自慢話は書きようによっては面白くもなる。佳い作というのは遠大なる自慢話ではないか、直接、間接はあるが。書くこと自体で自分の存在を確固たるものとしようという意図がある。

 詩は比較的短いからその欲求が少なく感じられる。度肝を抜くような詩だと、そうでもないかもしれないが。「詩」と言ったら聖書の詩篇だが、あれこそ有っていい詩である。150篇の中には終わりの方は神を讃える詩篇ばかりである。旧、新約聖書は、神について、イエスについて書かれてあるが、そしてその言葉自体が神なのだが、それこそ有っていい本である。私などはなくてもいいものを吐き出しているのかもしれない。ぽかんとして書いているのはどうかと思う。当たり前のように書いているのはどうかと思う。抗儒焚書を云々しているわけではない。書くことへのたゆたい、ためらい、そういったものがなければ、あまり意味はないかもしれない。それでも古代の作から現代の作に至るまで、新しいものはないと断言するのが聖書である。作だけではない、事象全てがそうなのだ。新しいものはないのである。それなのにまだ書くのである。虚無的なぐらいにそう書いてある。

 新約聖書の時代からも2千年が経った。古い書になった。中国などに比べたら、日本の歴史や文学の日は浅いが、それでもアメリカ文学などよりは長く、優れた作も多い。女性の書いた日記文学などは立派なものである。日記文学のはじめは紀貫之だが、その後の女流は目を見張るものがある。意識的に書いている。それが大切だと思う。「蜻蛉日記」「和泉式部日記」などは意識的である。「源氏物語」は筆が立つだけに、却って披露している感がある。「枕草子」になると書かれる意味はあっても、存在意義までは問わない気がする。あの立派な作品群を前にして、私ごときがまだ何か書くことがあるだろうか。私は書き続けて良いのだろうか。現実生活で私はいないように生きてきた。その私は書くことだけに意義を見出していたが、それも疑われるとなると、どうしたらいいものか迷ってしまう。私は庶民の書くものというつもりで書こうと試みた。私は社会性というものにも疑いを持ち始めてきた。社会性だけでは存在理由は問えない気がする。途中だがここまでお付き合いくださってありがとうございました。