マリーゴールドの現実

「幻惑」から「現実」へ

回復

 人はなにか病気上がりだとか、問題の起こったあととか、そのときの状態から回復できるものかどうか、とても望めないようなものです。そのときにはずっとこのままなのではないのかと絶望の淵に座り込んだりします。光の射さない暗闇に佇んでいるようにも思えます。でもあるとき気付いたら、出来なかったことが出来るようになったいたり、痛みが和らいでいたりするものです。実に薄皮が一枚一枚剥がれて行くように、少しずつの変化であるようです。時間が経つということは、遅く感じますが、確実に過ぎて行きます。そして確実に変化して行き、回復もその中にあります。

 でも完全に元のようになんにも痛まないとか、問題が無いということはないのかもしれません。ある程度回復しても、確実に時間は経っており、老化という時間の経過もあります。歳を取ったらどこか痛まないということはないと、よくご老人はおっしゃいます。わたくしの母親は八十を超えておりますが、元気なようでもどうかしたら、肩は完全に痛まないということはないようなことを言います。その言葉を聞くまでは、ちっとも痛まないのだろうと思っておりました。でもやはり口にしないだけで、どこか痛んでいたのだということを知りました。そう云えば、目も術後、思わしくなかったりしておりました。幸い新たな治療で良くなりましたが、それでも目薬はいつも差しております。涙が出るのもどうにかならないものかと言っておりました。歳を取ると、お年寄りは何にも仰らなくても黙って痛みに耐えておられるのかもしれません。自分の身にそのようなことは訪れないようであって、想像もつきませんが、いつか自分もそうなって行くことは避けられません。

 若いものに取っては死も未知ですが、老いも未知です。老いというものはからだが重く、硬くなって行くものですが、若い人々が老人の体験をするべく身体に錘をつけて動いてみたりしますが、驚きの声を聞きます。わたくしはまだ老人という域ではありませんが、病後、身体が重く硬くなりました。そのことをとても気にかけておりました。過去形ではありませんが、少しは回復してきました。まだまだ思うようには行きませんが、出来なかったことが出来るようになってきたことは確かです。この地点から眺め返すと、やはり人間には回復力があるのだという希望がわいてきます。それでも、肩の痛みが完全に良くなるものかどうか危ぶんでおります。また身体の重さが完全に軽くなって意識しなくなるほどになるものかどうか分りません。若い人ならともかく、わたくしも初老の域です。良くなっても、同時に老化ということも考えに入れなければなりません。

 人からはバカにされるかもしれませんが、わたくしはサプリメントに案外頼ります。しかも、身体といっても美容の方も意識しております。そしてサプリメントは一定の効果があると思っております。サプリメントを摂っても摂らなくても、効果があったかどうかは、本当のところ分りません。でもサプリメントを摂ったからその程度で済んだのかもしれないし、今があるのじゃないかとも思われます。そしてまだまだ回復はなっておりませんので、これからもいろいろと試して行くことでしょう。健康と美容の二本立てで行くつもりです。

 歳を取ると痩せるか太るかどちらかのようですが、どうもわたくしは太りやすいようです。太ると身体は重くなりますし膝などの関節を痛めやすくなります。運動も出来る限りは致したいと思っておりますが、サプリメントにも期待しております。普通だったら、考えられない効果を狙って摂ったり致します。代謝を促進したい為にアミノ酸の多いサプリメントを摂ったり致します。目のカスミにブルーベリーを摂ったり致しますが、効くようになるのも時間がかかります。最低二か月は摂ってみなければ分らないかもしれません。メーカーを変えたりも致しました。最近はパソコンに向かっている時間を少なめにしておりますので、そのせいもあるかもしれませんが、カスミは大部よくなってきました。数日前から目の働きに特化したものを呑み始めましたが、あまり変わらないようだと、元の目のカスミのためと美容成分の入った方に戻すかもしれません。それでもカスミは大分緩和されてきておりました。そっちの方が安価ですし。

 回復していることが明らかになってくるにつれ、嬉しさはあるものですが、このどっち付かずの年齢であるために、どこまで良くなって行くものか半信半疑の気分でおります。最近摂り始めた健康成分は、最低三か月は試してみようと思っております。今までも何らかの健康成分は摂っておりましたが、それはアミノ酸の多く含まれている食品ばかりでした。今頃摂り始めたものは、少しだけリーズナブルです。メーカーも変えてみたりしました。本当のことを申し上げると、痩せる効果を狙っております。歳が歳なだけに、難しいかもしれませんが、三か月は様子をみようと思っております。これから先の季節、運動もいいかもしれませんが、怠け者のわたくしは、サプリメントを大いに活用致します。暑い盛りにきつい運動をしておりました。今のところはストレッチ運動です。怠け者とは言え、ストレッチ運動はちゃんとやっております。効果のほどはあるような、ないようなですが。きつい運動をしていた頃、丁度血圧が低かったので、余計にきつかったかもしれません。今は血圧も正常に戻り始めており、季節も良くなってきましたので、ちょっとはきつい運動もするかもしれません。

 回復と題しましたからには、回復を願って参りたいと思います。去年と比べたら、今年はうんと良くなっております。まだまだ回復するかもしれません。肩の痛みも完治することを願いたいと思います。五十肩ではないですし、出来なかったことが出来るようになってきました。人間どういうことに遭遇するか分らないものだと、肩が痛むと思わされますが、少しずつ良くなって行っていることは確かなので、あまり悲観せずに行きたいと思います。肩の痛みが酷かった頃、家族の愛情を多く受けました。痛みにも、良いことがついてくることもあります。痛みには愛が一番です。なにか痛んでいる人がいれば、愛情をもって応えたいものです。愛情こそ回復を早めてくれるものでではないでしょうか。或は確実にしてくれるものではないでしょうか。ここまでお付き合いくださって有り難うございました。それではまた次回。

待宵草

 何事か実現しないものかと心待ちにしているときには実現しないもののようです。焦るのを止めて気を長く持った方が精神衛生上もいいし、冷静になれて賢く振る舞うことができるでしょう。心待ちにしているときには自分が見えていなかったりするものです。気を長く持つと言っても諦める訳ではないし、現実が見えてきて実現させる為にはどうしたらいいか見えてくると思います。一歩一歩進むとはこのことでしょうか。「見つけるのを止めたとき、見つかることもよくある話で♪」とあるのに似ています。

 背中にデキモノがしました。それを切ってもらいました。血膿はまだ出てきますが、三、四日病院に行くと診察の間隔が大分空くようになってきました。普段は家族に血膿を出してもらい、消毒して絆創膏を貼ってもらいます。背中なので自分ではできないのです。こういうときに家族などがいるということは本当に有り難いことです。家族の有り難さを知ったのも、家族を疑い不信感を持った経験があるから、寧ろ何かの折にふっと分ってくる感じがしました。作用反作用はセットになっているようです。

 また自分の考えだけではなくて人様の助言を聴いてみることもいいのではないでしょうか。そういうときにはどこか間違っているような気がするものですが、自分の感覚だけでは万全ではありません。自分の考えだけの方が万全感はあるものですが、自己過信もあり得ます。騙されたと思って人様の助言に耳を傾ける必要が出てくる場合もありましょう。いやいやながらでもその方がいい場合もあります。自分を信じるのもいいことですが、自分で完結することはあまりないものですから、やはり他者の目も必要でしょう。

 自分一人になっても生きて行けるようになることは出来た方がいいです。しかしその裏腹に人と共に生きて行けることが人間には求められていることではないでしょうか。自立と共存は表裏一体でしょう。個人的にはわたくしはまだ自立しているとは言えません。でも人様の助言を聴く用意はできております。それで半分は達成できているような気が致します。多分、今度も大幅に譲歩する必要が出てくるのではないかという事案が控えております。

 案外一発で良いということになるかもしれませんが、小さな字の間違いとか表現を変えるとか、その程度に治まりそうな気が致します。いや多分、大幅譲歩でしょう。あまり時間はありません。どの程度書き直せるものか分りません。枚数に制限がありますので大幅譲歩となるとかなり難しい作業になります。まず全体が認めてもらえるかどうかも分りません。何故今なのかとよくいわれます。しかし今がそのときだからということもありましょう。

 永遠に今は今なのです。ですからどこかで区切りを付ける必要があります。人間は人間以外の動物にも及ばないくらい不完全です。人間以外の動物は本能に従っていればまず間違いはないでしょう。生き死にはあるにしても。でも人間は本能だけで生きている訳ではありませんので、いろいろ考えねばなりません。そうすると間違いも起こる訳で、間違うことにも必然性はありますが、それを何度となく繰り返しながら、どうにかなって行くものなのかもしれません。

 人間の属性をみると、やはり自立と共存が必要でしょう。昔からよく言われるように人間は社会的動物なのですから。そのお陰で人間は地球上にこんなにもはびこってしまいました。人間以外の動物にはお気の毒ですが、その昔人間は将来立錐の余地もなくはびこるだろうという予測もありました。それは大袈裟というものでしょうが、そういうときには神様が、人間を減らしてくださるでしょう。社会的な背景で少子化が進んだり致します。こんなところでも人間の社会性は発揮されるのですね。

 できればそのような不幸なあり方はなくなる方が良いのかもしれませんが、女性が結婚してからずっと妊娠と出産を繰り返すのは却って人間的ではないかもしれません。わたくしは避妊や堕胎を勧めている訳ではありません。堕胎をすると人間の女性は大きなショックを受けます。それは自然と社会性の入り交じった経験だからでしょうか。母はわたくしを生んだあとに避妊の手術を致しました。堕胎の経験もあるようです。堕胎の経験は不幸ですが、経済的理由やら教育の問題で現代社会では避妊は必要事項ではないかと思います。

 アフリカの難民キャンプでは子供は次々と生まれて次々に死んで行きます。ああいった事態を目にしますと、神様はいらっしゃるのかと思ったりします。人間的ではない生のありようが同じ地球の上であっているのですから。このようなことがなくなることが実現しないものかとも思います。でも焼け石に水のような状態が続いています。社会的動物である人間が、それらしく生きることができるようであって欲しいものです。人間には教育が必要です。

 教育があると光源氏のような場合も出て来るかもしれませんが、光源氏もそれ故に苦しみました。須磨明石では流浪の身となって罪滅ぼしをします。しかも政治的な要素がなきにしもあらずではありますが、自ら遠流の身となりました。そこで明石の女御と出会いは致します。女御の父親に頼まれたとはいえ、そんなところでも女人を頂いたのは彼の知性にも依るのでしょう。歌詠みに必読の書と言われるだけの作品だけはあります。

 わたくしも自分の光源氏を待っております。心待ちにしております。でも気を長く持つことに致しました。もっと若かった頃自分に恋愛を禁じてきた分、今は却ってある一人の人を待ち望んでおりますが、一向に相手は気付きません。相手のペースにあわせるのが必須なそうです。だからわたくしも気を長く持つことにしました。その間もっと自分を立て直して、きちんとなるように努力致そうと思っております。これはポーズではありませんよ。実際現実をみると自分が今どれくらい回復しているか自分で分りそうなものですから。

 ここまでお付き合いくださってありがとう存じます。今日はこの辺で失礼致します。

たとえば、君がいるだけで♪

 例えば、「万歳君を好きで良かった」という歌があるが、これを聴いたときに人は心の中でどのような立ち位置で聴くだろうか。男と女とではまた違うだろうが、わたくしが女なので女の立場から言うと「君」を自分のことのように感じるだろうか、それとも誰か他の人を思い浮かべるだろうか、一般的な女性を思い浮かべるだろうか。歌というものは感情移入して聞くのが普通だと思うが、この歌を作った人は有名だが自分とは何んの関わりも持たない。しかし「君」と歌われるときに自分のことのように思わない人というのは珍しいのではないだろうか。世の中で一番ブスだと自認している人ならともかく、そういう人もまた少ない。大概歌というものは自分の歌になってしまう。たとえその人が恋愛経験がなかったり、少なかったとしても。人の心の中には誰かに恋した、好きになったということはあるだろう。また自分以外の意識している同性のことを考えるという場合もあり得る。一般的に感じるということはまずないように思われる。それをするのは学者くらいであろうか。しかし学者も人の子、人を好きになったことがないと研究もできないだろう。

 おすぎとピーコという双子の方達がいらした。どちらがどちらかわたくしに区別はつかないが、そのどちらかが、わたくしが恋をしていた最中に失恋していたようだった。失恋というと嫌なことに感じるが、わたくしにはそのじっと耐えている姿が美しく思われた。人を好きになったらその好意を裏切られることがある。多くの人が経験することだろう。誰も一番好きな人が自分に振り向いてくれるとは限らない。大概人は失恋を経験する。わたくしも失恋ならば何回かした。あまり深追いはしない質だし、それに何か言い交わした訳でもなかったので、本当の失恋とはいえないかもしれないが、多くの人が経験する淡い恋心を断つのをじっと耐えるということはあった。恋愛している人も美しいが、わたくしは失恋している人の姿も美しいと感じる。

 学生時代、客員でいらしていた日本中古文学の先生が言っておられたが、わたしは文学を研究しているから、この人は今恋愛しているかどうかということはすぐに分ると言われた。しかし恋愛の効用は文学研究に留まらない。科学の研究者でも人妻と恋愛して揉まれながら研究していたという方もいらっしゃる。効用と言うと人聞きは悪いが、実際恋愛は発奮材料にもなるし、もっと不健康にも怪しい思いを抱きながら何かをすることによって名作は産まれたりする。ショパンだって身体の不調がありながらもサンドと恋愛していたときに数多くの名作を残した。作中人物ながらホームズだってある事件に関係した一人のご婦人を心の中に生涯大切にしまっておいた。あのホームズがである。そのような秘かな思いが何とも人間のかわゆい所である。だが人を好きになるならば努力をしなければならない。その人に振り向いてもらいたい好きになってもらいたいと思うならば、少しでも自分んを良くしなければならない。それは例えば何かを勉強するということや、生活態度を変えるとか、身綺麗にするとか、性格さえ改変しようとする人さえいる。

 努力だけでも結果にそれほど現れなくても、努力していることだけは分るものである。わたくしは一度自分では身綺麗にしていたつもりが人様から見るとそう見えなかったらしくてえっ、それで、といった眼を向けられたことがあった。でもわたくしはその頃わたくしより10歳年上の人に恋していたので少々のグレイヘアはいいかなと思っていた。しかしそう見ない人もいらっしゃった。それから失恋したのでグレイへあのままだったが、近年また恋をし始めたので今は自分で染めている。あまり良く染まらないのだが、回数が少ないこともあるかもしれない。結婚した方でも髪を染めるのが似合っている人もいる。グレイヘアで素敵な人もいる。熟年の恋ならばグレイヘアでもいいかもしれないが、それは相手による。相手がグレイヘアよりも染めた髪がいいならば染めるだろう。染めなくても平気或は染めない髪が似合っている人ならばそれでもいいだろう。

 わたくしの今恋している方はグレイヘアはあまりお好きではないようだ。だから回数は少なくても染めている。えっ、それでといった顔をした張本人だからである。つまり以前恋をしていたことを話して聴かせたその方を今恋しているからだ。わたくしよりも若いかもしれないその方のことをわたくしは今恋している。年下はあんなに嫌いだと言っていたこのわたくしがである。この恋は実るだろうか。実ったら最初で最後の本当に関係を持った恋愛になることだろう。今までは片思いばかりしてきた。或は恋を打ち明けなかった。いや、この前の人にはネット上でそういった気持ちを書き表したことはあったが、あくまでもネット上である。今回の方はネット上ではそうそう簡単には答えない人である。だがわたくしは一方通行であっても告白し続けている。殆ど他愛ない内容だが、ちゃんと愛しているとも書いた。それはGoogleの人しか知らないその方と二人だけの限定共有の場である。限定共有なっているということはやはりもう実っているのだろうか。そうかもしれない。ブログは書いてみるものである。歳は下でもわたくしよりうんと大人になられたその方と二人暮らしができたらなあ。ここまでお付き合いくださっておりがとうございました。

 

 黒はご存知のように色ではない。モノクロの世界というものは色に騙されはしない。本当のものが見えるからである。顔に化粧をしてもそれでも隠せないものがある。しかしモノクロだからこそのよさもある。本当にいいものの場合である。文章にもそのようなことがいえるかもしれない。色彩表現は最小限に留めたいところである。そして色を感じさせるような表現も、文章の力以外の何者かに頼っているような気がする。絵のような文章ならば絵を描いた方が速い。ただ絵にもモノクロの場合があるだろう。それは敢えての挑戦なのだろうか。書道などはその点モノクロの世界であるから、色には頼らない。いくらカリグラフの世界がどの言語にあっても漢字圏のような芸術表現としてあるのはやはり文字の国だからこそだろう。わたくしに現代の書が分らないのは本当のものを見る力が欠けているからかもしれない。

 黒いものの中から例えばオレンジ色のものが出てくるような品物があるととてもいい具合にマッチするのではないだろうか。黒が苦手な人もオレンジ色が出てくるとホッとするのではないだろうか。そして普段はオレンジが隠れているところがまたいいのである。暖かいものは秘められているものである。取り出すたびににっこりと微笑みたくなるようである。そして黒はすべての色を混ぜ合わせるとできるものでもある。すべてを包含しているのである。だから黒は一色ではない。無色でもないが無色にはない存在感がある。

 黒は悪いもの代名詞としても使われる。黒白をつけるなどとい風に。悪役を引き受けている訳である。天使から悪魔へと転落したルシファーのイメージも黒である。わたくしは自分自身が悪魔のようであると思っている人の方がいいと思っている。それは自分がそうだからでもある。誰も自分が悪魔のようだとは認めたくはないものである。また自分を神だと思うのも案外きついことである。表裏一体といったところだろうか。自分が人を愛していると思うのは容易いことだが、自分が人から愛されていると思うのは難しいことである。また神から愛されていると思うのも案外難しい。黒にはそういった感情のうごめきがあるような気がする。あるいは理性の縛りがあるような気がする。黒は嘘をつかないが嘘を隠してもくれる。人間たるもの嘘をつかずには生きて行けないものであるが、そういった裏の側面をも代表してくれる。

 黒は闇のようでもある。その中で人は手探り状態である。闇に目が慣れてくると人はその中でも生きて行ける。光がなくても生きては行けるが、黒い闇があるからこそ、光の印象はいいのである。光つまり美、富、正義、そういったものがなくても、人は生きて行ける。希望さえあれば。希望は何色だろうか。光り輝くものだろうか。否、暗闇の中でこそこころの内で感じるものである。絶望の淵でこそ希望は感じるものである。見えはしないのである。クリアなのでもない。やはり黒い世界でこそ感じるものなのである。

 ところである人が黒はニューヨーカーの色だと言っていた。あの大都会の。やはりるつぼの中だから金ならぬ人の混ぜこぜであるから黒になるのかもしれない。思い返すと田舎で黒ずくめの人はあまり見かけないような気がする。黒はやはり都会の色である。そしてまた悪魔的である。シャープである。そしてたまに綺麗な色の服を着ている人々もまた都会にはいる。それは黒あっての色なのである。黒ずくめの人の恩義を受けている訳である。

 黒は目だたないようで目だち、目だつようで目だたない。オールマイティーである。たまに似合わない人もいるにはいるが、大概人を綺麗に見せてくれる。本当が見えるものでありながら、その人を引き立ててくれもするのである。しかしやはり老人は着ない方がよいだろう。若さあってのものである。つまるところやはり若さの美しさがないと着ることもできないかもしれない。或は非常に洗練された人であれば着ることはできるかもしれない。

 ここまでわたくしは黒を礼賛してきた。それはわたくしの愛する人が黒は自分の色でありながら、黒が大嫌いな人だからである。そういえば黒は喪でもある。下手に着ると喪中に見えてしまう。そういう訳で着こなすのは難しいのかもしれない。わたくしの愛する人は黒が嫌いなので、わたくしはできるだけ黒っぽいものは着ないことにした。プレゼントするものは黒の中に明るい暖色の入ったものを贈ることにしている。わたくしに経済力があってもなくてもちょうどいいくらいのお値段である。それが直接彼のもとに送られたら困るのであるが、どうもそうなりそうな気がする。わたくしのファンデーションもあるので尚のことである。しかしこのことはシナリオにはなかったかもしれないが、結局のところシナリオが実現するのに必要なことなのかもしれない。

月一

 月一のペースになって参りました。今後はもうちょっとインタバルが短くなるかもしれません。色々することが増えるかもしれないので、やはり難しいかもしれません。でもはてな市民でいられるくらいには書けるかもしれません。今はまだはてなの市民権はとってはいないかもしれません。まだちょっとしか書いてはおりませんので。前置きはこの辺にして。

 お金というものは魔性のものです。でもそれから解放されるということも出来ます。なくて元々と思えばいいのです。わたくしは今のところ貧乏人です。それなのにカード会社の宣伝がしつこく出て来ます。わたくしはセディナの方々にお世話になっておりますので、そこから変わろうとは思ってはいません。以前ちょっと乗り換えようと致しましたが出来ませんでした。お金があると思い込んでいたのでそうしたのです。でも障碍者年金生活者のわたくしをセディナは差別せずに入会させてくれました。障碍者差別撤廃法の出来るずっと前からです。そのお陰でパソコンんも持つことが出来ました。パソコンを持つようになったのは、一時疎遠になっていた人から障碍者は情報貧者になりやすいからという言葉を聞いたからです。そうでありながら自分でググルことの少ない者で、人様に頼りやすい者です。ググレカスという言葉はわたくしの為にあるようなものです。まだまだ紙媒体に頼りやすいものです。本も電子書籍は買いません。電子書店を利用したことはございます。子供の頃からずっと本屋さんに行って本の背表紙を眺めるのが好きでした。でも今は本屋さんにもめっきり行かなくなりました。持っていながら読んでいない本が多いからです。そして何か勉強している時には、図書館から借りることが多かったのです。

 誕生日を必ず祝ってくださる知人がいますが、一万円の図書カードを3枚ばかり頂きましたが、使い切れてはおりません。またあろうことか図書カードの使えない古本屋さんで目分量で使ったりしました。その古本屋さんはどこにも引き取り手のないような本を受け入れてくださるところです。またしてもあろうことか雑誌を引き取って頂いたことがあります。只ででもいいから引き取ってもらいたかったのですが、買い取ってくださいました。たまたまその一冊が芥川賞の受賞作が掲載されていた号でして引き取り甲斐もあったかもしれません。雑誌掲載と単行本とでは違ってくるところもあったりしますから。後々の研究文献としては価値があるかもしれません。でも正直のところ芥川賞は新人賞で登竜門ですから、大した作品ではないことも多いです。それで芥川賞受賞作なるものを初に読んだのでした。いや二度目です。もう一冊は「赤ずきんちゃん気をつけて」を単行本で読みました。言っちゃあ悪いですが実に駄作ばかりです。池澤夏樹さんが仰ってましたが、日本の近代文学は大嫌いで読まなかったと。わたくしも以前はそうでした。でも今頃の小説を読んでいると、まだ近代文学のほうが読み応えがあります。最近のは頭を使わずに読むようなものばかりです。その点近代文学は頭を使います。19世紀の世界文学も然りです。ドストエーフスキーやゲーテプルーストなどの新訳が出ているのは画期的なことですが、そのような文学作品が売れるということは、日本人もまだまだ頭を使って読みたいのが本音ではないでしょうか。

 「竹取物語」や「伊勢物語」や「源氏物語」では和歌が多く折り込まれております。それらは全部作者自身が詠んだもので立派なものです。わたくしには和歌の素養がないので、引用させて頂いて小説を書いたことが2度ばかりありましたが、それでも難しいと言われました。日本の古典は実に立派です。「源氏物語」に至っては現代語訳が幾つもあります。学者以外に歌人や作家が訳出しもしました。わたくしのパートナーになる人はお坊っちゃまなので和歌の素養があります。初恋の人もそうであったようです。彼らはわたくしの小説のファンでいてくれてるようです。初恋の人をモデルに書いていたときには、今のパートナーとなるべき人は全く興味ありませんと言いながら読んではいたようです。初恋の人をモデルにしなくなった作品からは、今現在よいと思われる作品が多少あります。処女作は別として。処女作は完成しておりませんでした。でも途中でアメリカの大学人に買われて行きました。2作目も似たようなことがありました。3作目は仕上げることが出来ましたが、ポルノめいたところがあったので知る人ぞ知る程度です。そう云えば3作目は今のパートナーとなるべき人の親子がモデルです。モーリャックの作品を下敷きにしながらですが。それを書き始めたときには初恋の人がやきもちを焼いておりました。

 今年は大村純忠公の記念の年だそうですが、以前彼の存在を借りて初恋の人を書きました。彼が奥さんをどんなにか愛していることかと、わたくしがやきもちを焼きながら書いておりました。それも和歌入りの作品でした。古今集から引用しました。綺麗には出来上がっておりません。それを原稿用紙で読まれたのは同人誌の同人の方だけです。ネット上で読まれた方は或はいらっしゃるかもしれません。わたくしの作品は最初からネット上で読まれていたようです。パートナーとなるべき人はネット上で読めるのにわざわざ紙媒体を買って読むなんてばからしいと言いましたが、こちらからすると損なことです。最近政府はネット上で読めるものにも課金するというようなことを言っておりましたが、如何なされるのでしょうか。「べき」には4種類の意味があることはご存知ですよね。どれを使っているかは考えてお読みください。わたくしは親切ではないでしょうか。太宰治森鴎外のことをどこかで親切だと書いていたようですが、鴎外は近代小説と言えるようなものでは揮いませんでした。逆に史伝では確固たる地位を占めています。彼の史伝は難しいです。親切ではないのかもしれません。でも読む人の身になってはいないなどと言えるでしょうか。読む人は書いている人から何事か学ぶものです。共感ばかりではなくて、教えられることも多いはずです。わたくしから教えられることはあまりないかもしれません。書く暇があったら誰でも書けるようなものしか書いてはいないと言われますから。それでも自分で読み返してみると、本当に自分が書いたのかと疑いたくなるようなことはこの身にも起きます。谷川俊太郎が言った意味でです。

 わたくしは妄想の固まりですが、その妄想力のお陰で書いているようにも感じます。従兄の精神科医にアンテナが多いと言われました。彼は本好きで、仕事が大変でも家に帰ったらちゃんと読書していました。音楽も好きで自宅に音響設備の整った部屋を持っておりました。カメラに凝ったり様々な物事に関心を持っています。そして名医です。長い間会ったこともなかったわたくしの病状を一発で言い当てました。今のパートナーになるべき人もわたくしのことを誰よりも理解してくれています。わたくしのことならなんだって知っていると豪語しました。知らないことが一つ二つありました。それは彼の所為ではありません。わたくしが他の方のことを考えて一言も申さなかっただけですから。

 多分わたくしはアンドロイドを用いることはないかもしれませんが、Google+もパソコンでのみやることになるでしょう。机に齧りついているばかりじゃ良くないと言われますが、アンテナは多くてもフットワークはそれほど良くはないので、あまり外にまでもって歩くことはないと思われます。わたくしは昭和時代に育った大人ですから、人様からのmailにすぐに返事しなくても平気です。向こうから来るのが遅いと気になります。自分勝手ですね。でも忘れた頃にやってくるのですよね、幸いも災いも人様からの連絡も。今日一カ所珍しく携帯電話でmailしなければなりません。電話でなくてよかったです。わたくしの電話代は高くつきます。mail代はあまりかかりません。家族がそのようにしてくれました。mailをよく使っているようだと思ってそうしてくれたようです。たまたま話の長い人に一度掛けたら、それは高くつきました。でもその話をしているときには楽しかった、そう思っております。まだお八つをとっていません。家は夕食が遅めなので、お八つも遅めで大丈夫ですが、何か頂くものがあったでしょうか。昨日家人が職場から貰って来たものがありますが、それにありつけるでしょうか。それがダメならあれでもいいや。あれってなんでしょうね。パートナーになるべき人には分かった模様です。何でも知っていますからね。

 今日は一日曇っておりました。もう大分寒さは遠のいたとはいえ、やはりシャワーでは寒いです。三寒四温の時期でしょうか。明日までは寒いようです。4月13日はご復活ですが、古い信者さん達はご復活が過ぎないと暖かくならないと仰っていました。ご復活の日取りはその年によって違いますが、大体そうなのでしょう。わたくしは無駄に長く書くようになりました。四百字詰めの原稿用紙にしてここまで9枚以上書きました。「マリーゴールドの幻惑」時代には3、4枚がせいぜいでした。それを4時間くらいかかって書いていたときもありました。今はせいぜい2時間強で書きます。下書きを書いてから書くという方もいらっしゃるようですが、わたくしはそのような真面目さは持ち合わせておりません。多分10枚近くで終わることと思いますが、早く書き終わったらお八つを頂きます。パラグラフのバランスもあまり良くないのですが、バランスも考えねばなりません。プロを目指しているのですからそれくらい致さねばなりません。書き終わりは丁度10枚くらいになると思います。それではここまでお付き合いくださってありがとうございました。

妄想

 病気であろうがなかろうが、人は妄想を抱く場合があります。十分に自分を疑うことが出来ながら妄想を抱くのです。それは他者の言動からそうなる場合が多いと思われます。説明不足など様々な要因があります。国会でも政府は十分な説明をしなければ、国民に妄想を抱かせてしまいます。ですから透明性や言論の自由は必要不可欠です。日本にはそれは今の所十分にあると思われます。また自分自身の際どい見解を説明すると、疑いの眼で見られたりもします。

 現NHK会長の籾井氏は批難の嵐に合っておられるようですが、籾井氏が会長に着任されてからはNHKは変わりました。良い方向です。夜の九時のニュースは以前は野球の話ばかりでしたが、今は違います。公共放送とは言いながら、政治経済の話をしないというのはやはりおかしなことでしょう。しかし今は違います。十分に実力がありながら上からの締め付けでものが言えないというのはマスコミにとっては生命線に関わります。

 籾井氏も言論の自由を享受されているようですが、逆に締め付けられておられるようです。確かに役職によっては言えないこともあるでしょうが、現首相が彼を押さえ込まなかったことは達見でした。それは内容の如何にもよりますが、やはりマスコミですからそこは下品に行かねばなりません。歴史認識の問題が大きいようですが、中国、韓国は自分の国の戦争を被害者の目でのみ見ておりますが、本当にそうでしょうか。それならば中国は少数民族問題を内政干渉だと言って現に有っていることへの批判を受け入れようとは致しませんのはいかがなものでしょうか。また各地の島々を自国の領土だと突然言い始めて、占有しようとしている行為は如何でしょうか。韓国に於いては現大統領は、彼の朴大統領の娘です。彼は独裁者でした。そして日本の裏側の政界と緊密でありながら、自国民には反日を掲げておりました。つまり煽動しておりました。その家庭で育たれた現大統領は、やはり最初から反日の態度を取っておられました。我が国の現首相が靖国を参拝する前からです。期を窺っていたとしか言えないような気が致します。韓国は文民政権になってからまだ年が浅いです。韓国が好戦的な国に移り行く気が致しますのはわたくしだけでしょうか。韓国には安倍さんの行動は好戦的に見えたかもしれませんが、それは前回でも書きましたので今は割愛致します。

 妄想というのはそのようなものです。ないことではなくてあることから来るものです。安倍さんの靖国参拝は現実です。しかしそれは上記しましたように説明が必要です。A級戦犯の孫だからと言って卑屈になってはいけません。そこは朴大統領を見習わねばなりません。わたくしのような昭和時代に育ったものでさえ、先の大戦は経済の問題であったことは習いました。つまり世界が不況とともにブロック経済化し日本はそのどこにも入れてもらえなかったということです。孤立した訳です。負けると分かりながら戦争に突入しました。日本が戦争に踏み切るのを連合国側は待っておりました。パールハーバーも事前に知られておりましたが、自国民を犠牲にしても戦争に踏み切らせたのは、何か理由があったからでしょう。アメリカは本土で戦争しない国です。朝鮮戦争は終結しておりませんが、北朝鮮の脅威の為に本土防衛し沖縄を犠牲にしようとしております。

 これは妄想でしょうか。わたくしはしっかりとそこの所は教育されて来ました。わたくしの育ちました所は被爆地ですが。被爆者にはカトリック者が多いのですが、彼らはその出来事の如何を神様に問うており決してアメリカを批難は致しませんが、原爆自体をどうにかしてもらいたいと望んでおります。それは日本人が忘れっぽいからではありません。彼らは未だに苦しんでおります。しかしアメリカに賠償を求めたことはありません。国に賠償を求めました。確かに国のトップは間違ったかもしれませんが、では何故一国を排除し、自国民を犠牲にしてまで戦争に踏み切るようなことが起こったのでしょうか。「パールハーバーを忘れるな」はダブルスタンダードです。つまるところ国民に妄想を抱かせたのです。日本でも幼い人々は妄想を持たされました。しかし成人していたものは負けると分かっていながら戦争に赴きました。それは自国の犠牲者であります。ですから自国の遣り方で慰霊するのです。

 その日本古来の一宗教が戦没者を慰霊するのは自然なことと思われます。長崎ではカトリック者が多かった為か、宗教色のない慰霊祭を執り行います。それは広島も宗教色はありません。しかし、長崎の平和祈念像がこれは日本人ではないなど酷評されながらも巨大な像でありますのは、大仏さんの系譜があると存じます。これは由緒正しいことです。

 これから先のことを考えて行きませんか。過去に目を向けるのもいいことですが、日本人の目の向け方は案外よろしいのではないかと存じます。韓国の方々に一言申し上げましょう。キリスト者ならば「赦し」ということが重要視されます。グロテスクな物言いかも知れません。しかし赦さなければ解放もされません。自らそのように国として態度を硬化させるのはいかがなものでしょうか。信教の自由のある法治国家ならば、キリスト教以外も認めねばならないでしょう。日本は高野談話を認めております。賠償も致しました。日本人は勤勉ですから戦後高度に成長して来ました。お金があるから毟り取ろうとするのは怠惰ではないでしょうか。先の大統領の下で韓国も経済が強くなりました。歓迎すべき所でした。彼は歴史認識も前向きな態度を取りました。しかし朴大統領は自国民の目をまた過去に向けようとしております。そして経済は停滞気味です。これはわたくしの妄想でしょうか。

 日本人には難しい立ち位置ながらお金を払ってでも戦争はしないという気概のある首相がおりました。ノーベル平和賞を受けました。しかしそれは国民の顰蹙を買いました。実に日本人は自分を疑うことの出来る国民なのです。賢い国というのはそういうものです。日本はもう戦争は致しません。靖国に参拝して自ら自国民からさえ顰蹙を買うことを知りながら参拝するのです。それは挑発でもなんでもありません。逆です。ですから時期を読みもします。それでも参拝せねばならない尊い命が眠っているのです。それこそ他意のないことで、誰にも実害を与えません。批判を浴びることを覚悟で参拝するにはそれなりの理由があることはお分かり頂けると存じます。どこの国にも極右と言われる存在はありますが、そのようなものとは関係ありません。

 どうぞ歴史は私情ではなくて、公民として習いましょう。教科書も選ぶ自由があると存じます。先日日本で地域の他の学校とは違う「公民」の教科書を使っていることが問題になりましたが、アメリカではもっと自由があるように感じます。そのような点は見倣うべきかもしれません。でも一人の人権も大切です。一人の人権は裁判という制度もございますし、有志を募れば人は助けてくれるでしょう。そのようなことが一人一人の歴史であり公の歴史を作って行きます。歴史は良い方向に向かうと信じます。それが歴史学者の見解でもあります。それではここまでお付き合い頂き有り難うございました。

第九条

 「日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」これは「日本国憲法」の第二章 戦争の放棄の第九条です。今現在、自衛隊は事実上軍です。ただ日本は法治国家であるという側面がありますから、今まで様々の「解釈」によって、やりくりして参りました。日本国憲法は、その中で硬性憲法でありますから、土壇場に立たされた時には、話を速くする為に「解釈」によって切り抜けて参りました。日本は勿論日本一国で成り立ってはおりません。具体的には東アジア諸国との軋轢がありますが、それは日本が戦争責任を認める認めないということとはまた違った位相で現実しております。日本が先制することはあり得ないとしてもあちらからやってくることはゼロではないでしょう。また日本が戦争の糸口を暗につけることも避けねばなりません。現政権は「積極的平和主義」を打ち出しておりますが、日本の政治家が靖国神社を参拝すると、必ず反発があります。これは日本国民の多くの人々も不安視する所であると思います。韓国はキリスト教徒の多い国ですから、神道が胡散臭い目で見られるのも、中国が日本の歴史認識をそこに原因すると感じるのも、皆国体が違うからではないかということが言えましょう。日本の政治家は戦没者を称える為に靖国神社を参拝している訳ではありません。

 例えばアメリカ合衆国は9.11でアルカイダからテロリズムが行われた時に、ブッシュ政権は犠牲者に寄り添ってイラクと戦争を起こしました。それは宗教とはまた別次元ながら、イスラム圏の政治の実情を見るとキリスト教国とは随分違った、あまり自由のない国柄が多いということと結びつけられ勝ちです。そんな中でアメリカは自国民の為に楔を打つことになったのです。当時自由の国アメリカも言論統制がある程度なされました。また誰でも第三者としてなら戦争は忌み嫌いますから、いろんなことが言えます。ブッシュ政権は多くのリベラルな国民から忌み嫌われました。しかし自国民が犠牲になった国の政権が犠牲者を放っておけるでしょうか。しかしブッシュさんほど期待されて大統領になった人もおりませんでした。9.11はアメリカにとって悪夢でした。わたくしは政権の動向に反対するなと言っている訳ではありません。反対する勢力があってこそ、バランスというものがあり得るからです。アメリカという国はある程度それに成功しておりました。

 日本は法治国家ですから、新しい局面に立たされた時に即時に対応することが難しい国であります。法律を変えて対応しなければならないという手間隙のかかる国です。しかも憲法に至っては硬性ですから、自国民の生命と財産とを守る為にもいちいち法律と対峙しなければなりません。それは大事なことですから当たり前ですが、対応の遅れを無力と感じずにおれないながらそういうのも酷な気が致します。「積極的平和主義」を掲げているのですから、不戦の誓いを致すことは間違いないでしょう。靖国神社参拝問題は、その文脈で語られるべきことですが、国民にもなかなか理解されないですし、外国にも誤解されやすいのは、神道という一宗教が中身のない宗教であると酷評されながらも守って来たことは、国民国家というパラダイムで語られることかもしれませんが、日本という国の国体はどういったものかという時に、神道という宗教が日本国の礎であるという観点からして相応しいのではないかと思われます。日本には「古事記」という神話があります。単純に神話とはいえないかもしれませんが、国の成り立ちが書かれているということからしましても、やはり神道の系譜はそこにあると考えられます。神話があるということは素晴らしいことです。神話の世界ですから一宗教には収まらないのですが、関わりが深いということは言えるでしょうか。

 そんな中で他宗教から様々に言われながら靖国はまさに慰霊を行って来ました。それは今上天皇が祭司として慰霊を行うことと機を一にしております。日本という国の瑕疵かもしれませんが、天皇制というものが敗戦後も残されたことによって、日本は国民国家としての纏まりを保って参りました。日本人の心のうちに深く根ざす天皇尊崇の念や日本独特の行事など、日本人自身が意識するしないに関わらず抱いている心象であります。日本という国を外国の方にも良く知って頂きたいと思うのですが、靖国で行われていることは、戦没者を称えているのではなくて、慰霊して不戦の誓いを新たにする為なのです。それでも日本は一国で成り立ってはおりませんから、当然外国との立場の違いから来る軋轢は避けられません。それでもわたくし共はやはり日本人なのです。二度にわたる大戦を経験した世界が、それぞれの国体で向き合って来た事実があります。これらの戦争も「解釈」は随分変わって参りました。しかし新しい歴史認識というものも更なることではないでしょうか。当時の日本の政治家達も世界大戦の犠牲者であるということも言えるかもしれません。勿論合祀問題です。あのようにならざるを得なかった立場というものがあったともいえるのではないでしょうか。当然のことながらその流れから、南京虐殺はなかったとか慰安婦問題もなかったなどという訳ではありません。そう言う人もたまにおりますが、それも一応は謝罪し賠償して参りました。しかし日本人の犠牲者の慰霊とともに不戦の誓いをすることは矛盾しないと思われます。それはやはり国家だからです。この大法人を認めて頂かねばなりません。日本人の政治家は個人的には他宗教者でも、靖国への参拝は義務と感じて来ました。反対する人の存在は必要です。しかしながらやはり理解するということも必要です。これは所謂保守の立場かもしれませんが、やはり大人にならねばならないと感じます。

 その上でやはり九条の精神は保ちながら、制度を変える必要は世界情勢などから鑑みても、やむを得ないのではないかと思われます。現実はもう日本の新しい憲法が制定されてからすぐに変わりました。ドイツの憲法は日本のような訳には行きませんでした。日本の憲法は一種の理想主義から来ていることは常識ですが、そのためにアメリカの核の傘の元にあることも現実です。日本は恵まれた立場であるとともに、屈辱的でもあります。この不整合性はどうにかなるものでしょうか。なるかもしれません。勇気が必要であるかもしれません。しかし現実と妥協することも必要かもしれません。わたくしもよく分かりません。「積極的平和主義」と唱えるのも無駄ではないと思います。初めて日本がお母さんの庇護の元から這い出始めたようでもあります。外国という人の中に自分の足で立ち入り始めたと言えるのではないでしょうか。現政権にはそういった気概が感じられます。民間ではとうの昔から活発に行き交っていたかもしれませんが、やはり国家となるとそう簡単には参りません。仲の悪い兄弟も親友にも劣らないかもしれません。東アジアの方々ともアメリカの人々とも上手くやって行きたいものです。ロシアにも東アジアの部分があります。お互いに信頼出来るようになると良いのですが。日本人にはロシア文学をこよなく愛する人々が多くいます。こういう時こそ「キリスト者らしくしましょうよ」ですが、あのこってりした人々の書いたものを、淡白な日本人が愛するのですから、理解し合えるのではないかと思います。

 ここまでお付き合い頂きましてありがとうございます。今日はこの辺りで。