マリーゴールドの現実

「幻惑」から「現実」へ

第九条

 「日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」これは「日本国憲法」の第二章 戦争の放棄の第九条です。今現在、自衛隊は事実上軍です。ただ日本は法治国家であるという側面がありますから、今まで様々の「解釈」によって、やりくりして参りました。日本国憲法は、その中で硬性憲法でありますから、土壇場に立たされた時には、話を速くする為に「解釈」によって切り抜けて参りました。日本は勿論日本一国で成り立ってはおりません。具体的には東アジア諸国との軋轢がありますが、それは日本が戦争責任を認める認めないということとはまた違った位相で現実しております。日本が先制することはあり得ないとしてもあちらからやってくることはゼロではないでしょう。また日本が戦争の糸口を暗につけることも避けねばなりません。現政権は「積極的平和主義」を打ち出しておりますが、日本の政治家が靖国神社を参拝すると、必ず反発があります。これは日本国民の多くの人々も不安視する所であると思います。韓国はキリスト教徒の多い国ですから、神道が胡散臭い目で見られるのも、中国が日本の歴史認識をそこに原因すると感じるのも、皆国体が違うからではないかということが言えましょう。日本の政治家は戦没者を称える為に靖国神社を参拝している訳ではありません。

 例えばアメリカ合衆国は9.11でアルカイダからテロリズムが行われた時に、ブッシュ政権は犠牲者に寄り添ってイラクと戦争を起こしました。それは宗教とはまた別次元ながら、イスラム圏の政治の実情を見るとキリスト教国とは随分違った、あまり自由のない国柄が多いということと結びつけられ勝ちです。そんな中でアメリカは自国民の為に楔を打つことになったのです。当時自由の国アメリカも言論統制がある程度なされました。また誰でも第三者としてなら戦争は忌み嫌いますから、いろんなことが言えます。ブッシュ政権は多くのリベラルな国民から忌み嫌われました。しかし自国民が犠牲になった国の政権が犠牲者を放っておけるでしょうか。しかしブッシュさんほど期待されて大統領になった人もおりませんでした。9.11はアメリカにとって悪夢でした。わたくしは政権の動向に反対するなと言っている訳ではありません。反対する勢力があってこそ、バランスというものがあり得るからです。アメリカという国はある程度それに成功しておりました。

 日本は法治国家ですから、新しい局面に立たされた時に即時に対応することが難しい国であります。法律を変えて対応しなければならないという手間隙のかかる国です。しかも憲法に至っては硬性ですから、自国民の生命と財産とを守る為にもいちいち法律と対峙しなければなりません。それは大事なことですから当たり前ですが、対応の遅れを無力と感じずにおれないながらそういうのも酷な気が致します。「積極的平和主義」を掲げているのですから、不戦の誓いを致すことは間違いないでしょう。靖国神社参拝問題は、その文脈で語られるべきことですが、国民にもなかなか理解されないですし、外国にも誤解されやすいのは、神道という一宗教が中身のない宗教であると酷評されながらも守って来たことは、国民国家というパラダイムで語られることかもしれませんが、日本という国の国体はどういったものかという時に、神道という宗教が日本国の礎であるという観点からして相応しいのではないかと思われます。日本には「古事記」という神話があります。単純に神話とはいえないかもしれませんが、国の成り立ちが書かれているということからしましても、やはり神道の系譜はそこにあると考えられます。神話があるということは素晴らしいことです。神話の世界ですから一宗教には収まらないのですが、関わりが深いということは言えるでしょうか。

 そんな中で他宗教から様々に言われながら靖国はまさに慰霊を行って来ました。それは今上天皇が祭司として慰霊を行うことと機を一にしております。日本という国の瑕疵かもしれませんが、天皇制というものが敗戦後も残されたことによって、日本は国民国家としての纏まりを保って参りました。日本人の心のうちに深く根ざす天皇尊崇の念や日本独特の行事など、日本人自身が意識するしないに関わらず抱いている心象であります。日本という国を外国の方にも良く知って頂きたいと思うのですが、靖国で行われていることは、戦没者を称えているのではなくて、慰霊して不戦の誓いを新たにする為なのです。それでも日本は一国で成り立ってはおりませんから、当然外国との立場の違いから来る軋轢は避けられません。それでもわたくし共はやはり日本人なのです。二度にわたる大戦を経験した世界が、それぞれの国体で向き合って来た事実があります。これらの戦争も「解釈」は随分変わって参りました。しかし新しい歴史認識というものも更なることではないでしょうか。当時の日本の政治家達も世界大戦の犠牲者であるということも言えるかもしれません。勿論合祀問題です。あのようにならざるを得なかった立場というものがあったともいえるのではないでしょうか。当然のことながらその流れから、南京虐殺はなかったとか慰安婦問題もなかったなどという訳ではありません。そう言う人もたまにおりますが、それも一応は謝罪し賠償して参りました。しかし日本人の犠牲者の慰霊とともに不戦の誓いをすることは矛盾しないと思われます。それはやはり国家だからです。この大法人を認めて頂かねばなりません。日本人の政治家は個人的には他宗教者でも、靖国への参拝は義務と感じて来ました。反対する人の存在は必要です。しかしながらやはり理解するということも必要です。これは所謂保守の立場かもしれませんが、やはり大人にならねばならないと感じます。

 その上でやはり九条の精神は保ちながら、制度を変える必要は世界情勢などから鑑みても、やむを得ないのではないかと思われます。現実はもう日本の新しい憲法が制定されてからすぐに変わりました。ドイツの憲法は日本のような訳には行きませんでした。日本の憲法は一種の理想主義から来ていることは常識ですが、そのためにアメリカの核の傘の元にあることも現実です。日本は恵まれた立場であるとともに、屈辱的でもあります。この不整合性はどうにかなるものでしょうか。なるかもしれません。勇気が必要であるかもしれません。しかし現実と妥協することも必要かもしれません。わたくしもよく分かりません。「積極的平和主義」と唱えるのも無駄ではないと思います。初めて日本がお母さんの庇護の元から這い出始めたようでもあります。外国という人の中に自分の足で立ち入り始めたと言えるのではないでしょうか。現政権にはそういった気概が感じられます。民間ではとうの昔から活発に行き交っていたかもしれませんが、やはり国家となるとそう簡単には参りません。仲の悪い兄弟も親友にも劣らないかもしれません。東アジアの方々ともアメリカの人々とも上手くやって行きたいものです。ロシアにも東アジアの部分があります。お互いに信頼出来るようになると良いのですが。日本人にはロシア文学をこよなく愛する人々が多くいます。こういう時こそ「キリスト者らしくしましょうよ」ですが、あのこってりした人々の書いたものを、淡白な日本人が愛するのですから、理解し合えるのではないかと思います。

 ここまでお付き合い頂きましてありがとうございます。今日はこの辺りで。