マリーゴールドの現実

「幻惑」から「現実」へ

哀悼

 津島佑子さんが、お亡くなりになったそうである。まだ60歳代のようである。早い死である。お悔やみ申し上げる。

 津島佑子さんが選考委員をなさっている文学賞に初めて応募した。彼女が読まれるような段階まで、愚策が残っているかはわからないが、なんだか肩透かしを食らったようで残念である。それにしても、彼女は読むことがおできになったのだろうか。去年の11月末日が締め切りだった。それから現在まで三か月もなかったのである。

 ご存知の通り、太宰治の娘さんである。何年か前NHKであっていた「ブックレビュー」に出演なさっていたのを拝見したのが、最後だった。誇り高そうな方だった。今思い出したが、その後何かの番組でも拝見した覚えがある。「斜陽」のお母様、ではなく、正妻のお子であられるわけだが、ご自分のお母様が太宰の最愛の人だったと、残った書簡を証拠に、そう言っておられた。「シーシュポスの神話」を書いた人は、太宰に倣って正妻をないがしろにして、愛人のかたを大事にしたが、津島家では太宰の心は正妻にあったということだったのだろう。そう言ったことにこだわり続けるのは、母親、父親、夫を愛しているからだろう。もっとも太宰が共に入水自殺を図ったのは「斜陽」のかたでもないが。

 遺体の上がらないのを目論んで、玉川上水に入水したわけだが、皮肉なことに太宰と愛人の遺体は上がった。遺体は綺麗な顔をしていたと、三羽烏の一人は書いている。

 私はどうも間が悪い。選考委員の方が亡くなってしまうとは。もっとも、津島佑子さんが目を通されたかはわからないし、そう考えるのは無理かもしれない。目を通されたにしても愚策がお目に止まるとは限らないが。私は土曜日の早朝にこれを書いているが、津島佑子さんの亡くなられたのを知ったのは19日の金曜日の夜だった。私は新聞をほとんど読まないので、家人がその記事を読んで教えてくれた。家人は私がその文学賞に応募したことは知らないと思うが。

 祖父が貴族院議員、伯父が貴族院議員、親戚が国会議員津島佑子さんは、どのように育たれたのだろうか。そんな華々しい親戚があり、一方無頼派の作家である太宰治を父とする彼女は。彼女の小さな時に逝ってしまった父親を、彼太宰治の兄である人は薬物中毒になっていた彼を迷惑な弟と、感じていただろうか。太宰の中期の安定した時期に結婚もしてうまくいっていたようだったが、彼は「桜桃記」を書く。ちなんで彼の命日は桜桃忌と呼ばれ、お墓は多くのファンで溢れるようだ。津島佑子さんにしてみれば、不本意な忌号かもしれない。

 津島佑子さんと私は出会わなかったが、彼女の「山猿〜」という作品は、どうも私のことではないかという疑念がある。読んではいないのだが、ちょうどブックレビューで取り上げられていた。その話される内容からして、そう感じたのだったが、思い過ごしかもしれないが、もしそうだったら津島佑子さんは私のことを少しはご存知だったかもしれない。

 それはともかく文学賞はどうなるのだろうか。津島佑子さんが欠けたまま選考されるのだろうか。初めて応募したのにその年にお亡くなりになるとは。太宰治のことをちらりと書いた。誇り高い津島佑子さんが、どう思われるかわからなかったが、今、思い出したが、太宰治は中期の安定した時期、甲府に住んでいたのだった。それで山梨だったのだ。今頃気がついた。というのも私には山梨といえば個人的に強烈な印象のある地であって、しかも甲府の方面ではなくて、韮崎、甲斐駒のあたりなので、甲府津島佑子さんが縁だったことを失念していた。

 甲府の郷土料理のなんとかいう、すいとんのような食べ物はいただけない。あれは不味かった。あんな不味い料理の店が出ているのは信じがたい。それはリンガーハットのちゃんぽんのキャベツが芯ばかりなのとは似ていないが、不味いという面では変わらない。私の味覚は異常なのだろうか。ここ長崎でもリンガーハットではなかったが、昔からある中華料理店のちゃんぽんがあまりに不味かったのと似ている。あんな不味いちゃんぽんを食べたのは初めてだった。

 津島佑子さんのご冥福をお祈りいたします。つまらないことを書き綴ったが、なかなか難しい立場を生きてこられた津島佑子さんは、ご自分のお仕事ではね返してこられたのだろうか。いつまでもお母様のことを思われるお姿を思い出す。ここまでお付き合いくださってありがとうございました。

信仰と文学と護教論

 前回の元旦に書いた状況と今の状況は何一つ変わっていない。だから今書くべきかどうか迷った。しかしここはもともと、自分自身について語るところではなかったはずだったのだ。「マリーゴールドの現実」に成ってから、自分を語ってばかりである。こんなのは自分でも嫌である。

 最近「文學界」の2月号が来た。4月の初めに来る5月号には新人賞に輝いた人の作品が載る。3月の初めに来る4月号では予選通過者の氏名、作品名などが載るらしい。だから2月にはほぼ予選通過者はわかるのではないだろうか。この1月14日現在でも、もうわかっているかもしれない。

 しょぼくれている自分が見えるようだ。だが運動はするだろうし、朝ご飯も作って食べるだろう。昼ご飯も、夕ご飯も規則的に食べるだろう。こういうとき、家族がいるというのはありがたい。すっからかんでも、物事は動く。動かしてもらう。自分だけではなく、他者の命がかかっているということは、強いことだ。ゴミ集めをしながら、ああ、もうとか思いながらもやり通すだろう。ポットにお水を注ぎながら、ああ、もうと思いながらもやり通すだろう。

 だから私には活計がない。あと一年我慢できるだろうか。もう来年度の作品は3作目を作っている段階だ。推敲作品も入れれば4作目ということになろうか。準備はいいのだが、雑である。そして、真実な部分を削除したりしている。

 「パンセ」で有名なパスカルは坊さんだが、「パンセ」も護教論だという人々もいる。彼はジャンセニストだが、厳格さで有名な派である。その彼の「パンセ」をなんの疑いもなく読んだ少女時代だった。疑うということは知らずに、ただ読めないなと思うと自分の頭が悪いのだと思った。しかし「パンセ」は読めた。今は人口に膾炙している「人間は考える葦である。しかし云々」ぐらいしか覚えていない。読み返すということは殆どやらない私である。暗記するほど読み込むという人の気が知れない。そうはいっても、読み方が遅いので、冊数も読んではいない。のちに誰かの評論で、「パンセ」が護教論だと書いているのを読んで、そんなに簡単に片付けてもいいのだろうかと、素朴に思った。読んでいたときには、宗教のことは一切考えなかったからである。私はただ人間というものを考えにおいて読んだ。それは私が当時仏教徒だったからかもしれない。神という観点がなかったのかもしれない。カトリック者となった今でも、私の語り口は神観点ではない。育ちというものは争えない。自分では神観点で書き出したはずだが、そうではなくなっていることがままあった。いつの間にか登場人物の観点になっていたりする。今では始めから神観点は捨てている。

 私は護教論だけは書きたくないという思いは持っている。それは私が真面目な信者ではないということに関係するが、信仰心があまりに単純だからでもある。「パンセ」のような奥深さは持ち合わせない私であるから、すぐに護教論であることを見破られるだろう。それなりに教えは護りたい。しかし私に残っている無頼漢じみたもの、不良の部分、そういったものが、自分の単純さをどうにもできないで、ただ自分自身で唖然としている。しかも、私は神様も護りたいが、教会というこの世の国、この世の国というのは神に反するという意味ではなくて、この世での神の姿とでも言おうか、そういった方法のようなものをも弁護したいところがある。多くのカトリック圏の作家が神は信じても、教会は敵に回したのとは違うかもしれない。坊さんたちをないがしろにするところは、まま見かけられる。私はむしろ科学者で信仰者である人々の信仰心に近いところがあるかもしれない。信仰について言は弄さないかもしれないが、単純に信じているというあり方である。言は弄さないと書いたとき、自分を恥じた。私は言葉をよく、もてあそぶからだ。そういえばパスカルも科学者でもある。気圧の単位に名前が残っているぐらいだ。子どもの頃「パンセ」を読んだときには宗教臭さを感じなかった。宗教など意識もしていなかっただけかもしれない。日本人がビートルズを受け入れるようなものかもしれない。いいものはいい、それだけだ。モーツァルトはいい、それだけだ。

 この文章は一体どこを目指しているのだろうか。闇雲に書き始めたが、護教論という言葉を自分でレッテル張りしながら、自分に嫌気がさしている。それにしても私は多重人格者であるから、多様性のある人物たちを書けるのではないだろうか。一人の中での多様性もさることながら、いろいろな人物を書き分けること、そういった試練を乗り切りたい。そしてそういったことは昔からなされてきた。教会なんて胡散臭いと言って切り捨てるのは簡単だが、ボロボロの教会に敢えて居続けることは、案外、立派なことではないだろうか。教会はボロクソな扱いのされかたである。それは文学者だけではなくて、どこにもいる信徒のだれかれにも見受けられる態度である。

 キリストの神秘体とはよく言われることだが、教会はその具現化したものである。教会にはさまざまの役目を負っている人々が集っている。身体の他の部分が尊いとか卑しいとかは言えない。プロテスタントの教会堂には祈りには行かないが、カトリックの教会堂には祈りに行くのはなぜだろうか考えた人がいた。それは、御聖体が安置されているからだろうと、その人は結論付けた。そうかもしれないが、祈りは生活に根ざしたものでありながらも、そこから遠くありもしなければならない。そこが聖なる場であるからには、生活とも切り離せないのだが、キリストが祈るときには扉を閉め、一人で祈るように言われたことと、関係がありそうだ。実際には扉が現にあるかどうかどうでも良いのだが、そういった意識を持つということは大事なことのようだ。または聖なるところなど存在しないという側面もある。それも理がある。私たちはそういったデリケートな問題を、バランス良く運んで行かねばならない。なんといっても人の救いがかかっている。それが大事なことかもしれない。きりがないのでここまでとする。お付き合いくださってありがとうございます。

元旦から揺らぐ

 元旦に計を立てたことなどない。それだけ漫然と過ごしてきたということかもしれない。この文章でもそのようなことは考えにない。元旦とは限らず、計画を立てることはよくある。しかしいつものことながら、計画倒れである。三日坊主という言葉があるが、まさにそれである。計画とはちょっと違って、定期購入というものをしている。向こうからやってきてくれるものだが、これもよく期日を伸ばす。ただ雑誌の購読などは毎月やってくる。しかしそのおかげで、少しは文字を読む。大学生だった頃とは違って、本もひと月に一冊ぐらいしか読まないので、それぐらいは縛りをかけねばならない。そういうのが二か所あるが、どちらも文芸誌である。その二冊は性格を異にしている。片方はやや商業化された文芸誌であり、もう一方はほぼ書きたい人が読む文芸誌である。前者は文藝春秋社、後者は大阪文学学校のである。後者のは季刊誌しか読まない。他の八冊はあまり読み込まない。私は読むのが遅いので、あまり大量には読めないからだ。それに集中力もなくて、いつの間にか字面だけ読んでいたり、読み始めたかと思うとすぐにパタリと本を閉じるということを繰り返す。私の人生はそのような読み方に象徴されている。本を読むという最低限のことは、連綿と続いているが、途中でパタパタ休みが入ったり、上の空だったりする。それに長い間、本を読むこと自体、殆どできない時期も長かった。それが少し回復してきたのがこの十年ほどである。子供の頃読んだ本の影響というものは読む方向性を決定づけている。なんでも読めるということは私の場合ない。おのずと読むものは幅が狭くなっている。子供の頃、川端康成の「千羽鶴」が読めなかった。「千羽鶴」はご存知の通り短い作品である。難解でもない。しかし日常的にロシア文学などを読んでいた若かった頃には、どうしても読めなかった。ロシア文学は若者の文学である。「千羽鶴」は少し頽廃の様子がある。私が受け付けなかったのはそういうところである。そういえば同じロシア文学でも、また同じ作家でも、読めなかったものがあった。「千羽鶴」も「悪霊」も近年読みおおせた。「悪霊」は途中で何度もパタパタ閉じたが、なんとか読んだ。「千羽鶴」は一気に読んだ。読めなかったものが読めたときには達成感がある。少しだけ人間の幅が広がったような気がする。キリスト教的価値観で貫かれながら、ギリシャローマ神話の素養がないとなかなか読めないゲーテに関しては、無知からくる狭量さで読めなかった。私はよく字面だけ読んでいることがありながら、内容が理解できないと殆ど読めないたちである。わからないながら読むだけは読むということができない。多少はわからなくても読むが、自分なりに許せるものでなければならなかった。一応、過去形である。最近は歳をとったせいか、読み始めたらなんとか読んでしまう。人との付き合い方もそんなものだろうか。私が選ぶというより、出会った人々に、付き合ってもらっているというというのが正しいが、読書傾向から察するに、大概の人とときどき衝突しながらでもやって行けるということなのかもしれない。無論、私の知人たちは頽廃的なわけではない。昔からの友人たちも、最近出会った人々も、読んではいなかった本のように、読んでいた本も含めて、やはり他者である。他者というものを意識すると、途端に固くなる私だから、本との出会いもままならなかった。人との出会いは察するに余りある。歳はとってもまだまだごつごつしている私は、高校生ぐらいの精神年齢かもしれないが、普通は高校生にもなると、もう大人の部分が出てくる。やっとそれに近づいたのかもしれない。そういえば、若者の若者らしい頽廃を自分自身が、なしてきていた。頽廃にもいろいろあるのだろうか。時期がちょっとずれただけで、大きく人生を左右する時期であるから、自分自身を慈しんでやらねばならない。自分の歩いて来た道を肯定してあげようか。否定してもいいのだが、同じことである。自分自身を愛するがゆえである。自分が受け入れられるようになれば、どうにかなるかという展望がある。自分がいかに無知であるか、つくづくと感じる昨今だ。若い頃はそれなりに物知りだと思っていた。しかし今は全くそう思わない。それは人様から見たら明らかではあるが、なにせ以前は人々を「幻惑」していたものである。うまく人を騙していたのかもしれない。いや人々は騙されはしない、私は孤独だったのだから。自分自身を愛することができるようになったら、ものごとの始まりのような気がする。いや、私はまだまだ自分が受け入れられない。人様の愛も受け入れることができない。大きな口を叩いた。今そのことで日々すったもんだしている。私もまだまだ成長期らしい。揺らぎそのものの中にいる自分を発見する。愛の対象の焦点は定まっているのだが。

夢想する私

 夢想するということは、悲しくも楽しいことである。夢想するのは満たされていないからで、悲願の要素がある。そして願っていることを手に入れた状態を想像して楽しむのである。寒い冬には暖かい着物や、寝具に包まれることを願う。今、持っている古びたものには飽きたりてはいない。本を読んでは知識のなさを省みて、この本を読んでいたら、と残念がる。そして本ぐらいだったら、図書館に行ったり、本屋さんに行ったりして調達して、暇があったら読むこともできようか。寝具はありあわせのもので、どうにか暖かくしているが、服となると経済力がよく現れるところではないだろうか。日本の地方のお年寄りは、皆似たり寄ったりの、地味な服装をしている。日本のお年寄りはさほど豊かではないのだろうか。それとも、戦後の貧しい時期を通過しているから、贅沢はできないのだろうか。お年寄りは身綺麗にすることを願ってはならないのだろうか。先日亡くなられた平良とみさんの生前の録画を見て思ったことは、ピンクの口紅がよくお似合いで色っぽいなという感慨である。素敵だなと思った。私のよく見かけるご老人たちには夢想するということがないのだろうか。私自身、初老の年代に入って、美しくありたいという願いは強まる一方である。若い頃はかえって構わなかった。服装には少し気を使ったが、肌の手入れなどには無頓着だった。私は学生の頃はまだお化粧はしなかったし、基礎化粧もほとんどしなかった。今とは時代が違うのかもしれない。私の若い頃には今のように何から何まで揃ってはいなかった。私はニキビ肌だったので、母が洗顔クリームのいいのを買ってくれたりもした。でも手入れはしなかった。初老のこの歳になると、かえって肌を気にしたりする。気にする暇があるだけだろうか。その割にはマメに洗顔しないし、基礎化粧もさほど行き届いてはいないのだが。お化粧は外出するときだけするし、服装も外出するときだけまともに考える。ただ私の外出先は飾り立てて行くほどもないところであるのは、普通だろうか。まあ、おかしくない程度に考えるだけである。慎ましく暮らしたいとは思うものの、このような調度品に囲まれて暮らせたらいいなと、カタログを見ては嘆息する。家よりも劣悪な住環境の方は案外いらっしゃるだろうが、築45年の家には不満も多い。3階建てのビルなので平家の広い家を夢想したりする。「本朝文粋」に家の図面を引くのが趣味の男が出てくるが、私も実際、図にしたりしていた時期があった。そういえば高校生の頃までの私は、性欲の充足に満足できない状況に明け暮れていた。性に対して知らない夢想をしていた。それが大きかったようだ。この歳になると性欲はほぼなくなるし、他の所有欲や何かが出てくる。あんな暖かそうな寝具に包まれて眠りたいとか、こんな素敵な服が着たいだとか、こんな部屋でこんな調度品に囲まれて過ごしたいだとか、そのような低級な夢想にあふれている。実際は買えないことが多いし、代替品はボロでもある。同じことなのか知らないが贅沢に暮らすというより、美的に暮らしたいと思う。いらないものは全部捨てたい気がする。少ない品数で、あっさりと過ごしたい気がする。45年も経つと余計なものがたくさんある。我が家の食器棚には使わないお皿や器がたくさんある。もっとスリムに暮らしたい。冷蔵庫の中だってもっとすっきりしないものだろうか。カタログを見てはこれが欲しい、あれが欲しいと思っていたが、それがならないとなると、余計なものは捨てて、身軽に過ごしたいという欲求が高まる。そのように夢想する。廊下に積まれている不要な品々はなくなり、収納庫にきっちりと収まり、無駄のない生活。家族の中でそれにほぼ成功しているのは私だけである。その私でもまだ捨てたいものはある。着ることのない服をまだ持っている。いつか着ることのできる体型になるかもしれないという思いでとっているものもある。この歳になってはほぼ無理であろうことはわかっている。だから次の機会には手放そうと思っている。来年の末の話である。グレードアップしたものを持ちたいという欲、叶わないならもっとすっきりと過ごしたいという真っ当な欲。夢想の種はあれこれある。そして何と言っても、この歳になってもできる仕事で稼ぎたいという不遜といってもいい欲がある。しかし現今、私のようなふらふらしたものには与えられそうもない仕事である。夢想と欲は切り離せないだろう。しかし夢想は欲とは違って、楽しいものである。夢想は夢想に過ぎず、それ自体人畜無害だが、夢想に浸って半日を潰すという時間の無駄をもたらす。夢想は日常的になると困る。夢想はお祭りのようでなければならない。普段はちまちまと暮らさねばならない。その暮らしをもうちょっと美的にしたいという欲とも夢想ともつかないものは、捨てることしかないような気がする。しかしそれがまた贅沢であるとも言える。捨てるということは贅沢なのではないか。だから、捨てるというより、お譲りしたいという気がする。私の夢想などごくつまらないものだが、理性と情緒の織りなす祈りにおいてはもっと真っ当なことを祈っている。世界の平和や人々の幸福などなどである。人間の精神生活にも様々な局面がある。この小説を読んでいないのが悔やまれる、あのエッセーを読んでいないのが悔しい、今からでも読もうかなどと思う。だがもう初老の域である。万巻の書がある中でどれから先に読むべきだろうか。残された時間はあまりない。読んだからといってどうなるか。私の望む職業には欠かせないことであるが、読む順序には序列がつけられるだろう。しかし夢想を捨てるわけにはゆかない。夢想は我慢することをもたらし、その前に豊かな気持ちに少しなりと浸ることができる。ままならない世において、人間が人間らしくある満たされなさの良き発露ではないだろうか。夢想はなんでも実現してしまっているという非人間的状態から人を救い出すものなのだと思う。人間には100%はないのだろう。してみれば、夢想だにしないことが起きる可能性はいつも残されているのだろう。冒頭お年寄りの身だしなみのようなことを書いたが、それだって夢想することさえしなくなったら、平良とみさんのようではあり得ないのだろう。噂話に明け暮れて、自分ではよくしようとはしないならば、無駄に歳を重ねることになる。夢想する暇があったら実現のための努力はするべきかもしれないが。噂話も情報交換であるが、なんでも洗練されたものとそうではないものがある。やはり上質を求めるのは人間の性だろうか。陶潜のような人間は貧しい中でもその情緒と知性を開いていたのだろうか。逆よりはいいかもしれない。おそらく私は貧乏とは切っても切れない仲なのだろう。人一倍、富への執着はありそうだが、貧乏に生きている。神様は良きにしてくださる。時期が来たらそうされるだろうか。いい人間になりたいと夢想することはあまりないような気がする。そのような殊勝なことはない。私は知られているようで知られていない、知られていないようで知られている。私自身がどうにかなるというより、人様に委ねるべき問題かもしれない。ここまでお付き合いくださってありがとうございます。

余計な事柄

 暖房を切るのを忘れて眠ってしまった。なんとも言い難い罪悪感にとらわれる。無駄にエネルギーを使ってしまったという公共心と、無駄なお金をかけてしまったという残念さとが押し寄せてくる。しかし今も暖房を切ることなく、これを書いている。寝起きにブログを書くのは初めてではないだろうか。19度に設定しているので、さほど暖かくない。エアコンはスースーする。エアコンなので火事になったりする心配はないが、一冬に2、3回はこういうことがある。そういえば昨晩は、胃が痛んで調子が悪かった。胃薬を飲んでうだうだした挙句であった。

 カレンダーを新しくした。旧年、つまり今年の12月からのっているものである。手帳も新しいのを用意している。だがまだ1か月あるので手帳は古いのを使っている。新しいのにも最低限の予定は書き込んだ。私のようなものでも手帳は必要である。学生時代、手帳をつける習慣はなかった。手帳をこまめにつける友人がいた。私は当時は書きつけなくても覚えていたし、さほど予定らしい予定もなかった。手帳をつける友人は、予定の多い人だった。そして成績の良い優等生だった。私は手帳に何か書き付けることがあるという事態を羨んだ。私の学生時代は惨憺たるものだった。

 キリスト者の学生の集会に行き、教会に行くぐらいしか学校以外では用事がなかった。当時は柄にもなく福音派の教会に行っていた。全く柄にもない。しかし教会生活は楽しかった。けれども芸術や特に文学の話ができないのはつまらなかった。その教会の牧師さんがそういう方面に明るくないということもあったが、教会自体が芸術には重きを置いていなかった。それは私にとって半分しか生きていないことになる。本好きの私には本の話をする人がいなかった。残念なことだった。今は私はカトリック者だが、当時の教会の一部の人ともまだおつきあいさせていただいている。そしてその方が愚作を読んでくださる方のお一人である。その方はこの地の路面電車の始発からほぼ終点に近いところまで出勤されていた方で、その間本を読んでおられたようだ。途中で職場の移転で近くなり、あまり本を読む時間がなくなったそうだ。それで小説は一年に一回愚作を読むだけになられたという。その方はよく本を読まれる方であるが、本のことは教会では話されなかった。医師でいらっしゃるので理系だが、さすがにお勉強されていて、愚策の評に「古今和歌集」の仮名序を引いてくださったことがある。教会では話す内容が限られている。そういうものだ。特に政治の話はしない。それは日本の教会の美徳でもあろうか。アメリカでは福音派ティーパーティーの政治活動の話があったぐらいだ。

 日本のプロテスタント教会では政治色は好まれない。政治のことは個人的な問題とされていた。カトリック教会ではそういうわけではない。しかし創価学会公明党のような間柄ではない。当たり前だが。

 もう私の歳では老境に入り、私より若い世代の人が政治家になったりしておられるようだ。甲子園を見ていた時、高校生のお兄さんたちが、と見ていたのがもう随分私より若い世代で、それは甲子園に限らず、どんな世界も私より若い世代が頑張っている。人生も秋となった私であるが、これまでのんびりと過ごしてきたが、ただのんびりしていたわけではない。この瞼の奥に焼き付いていることはある。この2、3年でどうにかしたいと思っている。私は長らく休んできたが、ある意味休みながらもやってきたことはあるので、どうにかならないかと思っている。勇気を奮ってやってゆきたい。どうも私は余計とされているものを好み、それを生業としたいとさえ思っている。しかし一人ではどうにもならない。基本的に一人だが、人間を書くからには一人では済まされない。関係性の中で起きることだからだ。人間は完全に一人ということはあり得ない。人付き合いの悪い私であっても、人様に厄介になっている。ここまでお付き合いくださってありがとうございます。

人間的な、

 私はお年寄りが案外好きである。過去知り合ったお年寄りの方が、ご病気になられて、手紙でも書いてくれと頼まれたので、かなり頻繁に出した。すると、あまりに多すぎたせいか、あちらは負担に思われたようで、不快の印象が伝わってきた。また別の方にお年賀を出したら、お年を召されすぎていて、お返事を書くことができないから、手紙は勘弁してくれと、お電話でわざわざご挨拶をいただいたこともある。もしかしたら不快だったのではなくて、ただ単にお返事できないことで、恐縮されていたのかもしれない。でも壮年世代でも人によってはあまりに頻繁に遣るのは憚られる。その場合は内容も重要である。こちらが良かれと思ってしていたことも、特にメールで遣り取りしていた場合、多分メール代金が高くついたせいか、あるときプツンと返事がこなくなったりする。勝手だなあと思ったが、私のメール代はそのとき家人に依っていたので、家人に睨まれてから初めて、メール代が嵩んでいたことに気づいた。彼女はその後ショートメールをごくたまに送ってくる。また、鬱っぽい友人にやっと連絡がとれたかと思うと、こちらの不注意で怒らせてしまったりした。私より若い人とは交信することはない。一人、一、二歳若い人がいるが、彼女とは固定電話で話し、手紙のやり取りになったりする。携帯電話での交信は避けられているようである。そういえば、私の愛する人は私より歳下のようだ。私がメッセージを送るのみで、返事は来ない。が、受け取られてはいるようだ。このように書いてくるとみなさんは私が胡散臭いものに思われてこられるだろう。実際、前述の人々には胡散臭がられているのだろう。だから私は胡散臭い奴なのだろう。私が宣伝するのは効果がないかもしれない。しかし、使徒たちは漁師だったりした。職業に貴賤はあるから、彼らは賤しい仕事をしていたことになる。だからキリストも敢えて彼らを選ばれたのだ。「わたしはあなたがたを人間をとる漁師にしよう」と仰ったその修辞は効果的だが、本当のところ彼らはそんなに頭の悪い人々だったのだろうか。弟子たちの愚かさは聖書に散見されるが、それは如実に人間的である。特別のことではない。ヘブライでは、ほぼ100パーセントの識字率であった。それは聖書に書かれてある。安息日には順番に〈任意にだったか〉地域の男たちが、聖書を朗読する。キリストもその文脈で聖書を読まれた。おまけに説教までなさった。そうすると、この人はどこでそのような知恵を身につけたのだろうか、この人はマリアとヨゼフの子ではないか、などと言い、キリストは、預言者は故郷では受け入れられない、と言われたのだった。しかし、それは説教についてであって、朗読なら誰でもしたのだった。ペトロやヨハネがご自分についてくる力量はあるかどうかは見極められただろう。ただ、彼らが人間的であることは見越しておられただろう。王位につかれたら自分たちを右と左に置いてくださいと、ヨハネとヤコブは言った。キリストがどのような国の王なのか、そのときには分かっていなかったのだ。しかし後から分かることもキリストは見越しておられた。弟子になりたいという人は断り、弟子になれと言われた人はついてこなかったりした。単純な描写に万感の思いを汲みとることができる。白髪は歳の冠という言葉がある。老人の知恵を重んじ、若い人の純真をたたえる場面である。一夫多妻制の世の中だった。私がなぜこんな書き方をするのか、聖書を読まれた方ならお分かりになるだろう。私は不親切だからわざわざ書かないが、聖書の「知恵の書」や「コヘレト」などをお読みになるといいだろうか。人が歳をとって弱ってゆかれるのは、はたから見ていて悲しいことだ。どうしてできないのかと思っても、しょうがないのだ。歳をとるということは、様々の能力が衰える。しかし、白髪は歳の冠と言われるように、素晴らしい側面もある。それが牛歩のようであっても立派なものだろう。お歳を召された方々の素晴らしさは、弱さと威厳が入り混じっている。歳を理由に勘弁してくれるように言うのは、パウロに始まったことでもないだろう。パウロこそ優れた人だったが、初めは迫害する人だったのだ。彼は復活したイエスに出会った人であるが、パリサイ人中のパリサイ人だった。よくパウロはイエスの教えからずれていっていると言われるが、パウロという人を通して伝えられるのならば、パウロという人の人格が用いられないはずがない。もう聖霊の時代になっていたのだ。キリストの人としてのご人格とは違って当然かもしれない。イエスは大食らいの大酒のみと称された。一方パウロは禁欲的である。どちらも結婚はしなかった。いろいろ取り沙汰はされているようだが、私は伝統的な立場に立つ。ホモセクシャルな人もごくたまにおられるかもしれないが、そうではなく、生涯を独身で働かれる人々が現実におられることを考え合わせると、ましてやキリストはと思う。キリストは歳をとる前に死なれたので、歳をとるとまた違った教えになったかもしれないと聞いたこともあるが、私にはよくわからない。ただ、私の主治医などは、ご自分の歳とった父親についてとてもよく理解があられると思う。これもまた人間的な想像力の賜物だろうか。ここまでお付き合いくださってありがとうございます。

お詫び

 突然、google+を止めて、申し訳ないと思っている。自分がそういう目にあって初めて気づいた。すみませんでした。悪い意味での自尊心のなさが、人様からのご好意を踏みにじる結果をもたらしたのかもしれない。自分のことはわからないものだ。私もある人が、突然止められて、がっくりきたのだった。やはりたかがSNS、されどSNSである。なんの予告もなく、突然止めるのはどうかな、である。予告らしきものはしていたと言えばしていたが、あるときパッと止めた。ご厚情を受けながら裏切った形になったことを、申し訳なく思います。果たしてご厚情をいただいていたのだろうか。私は知人友人が極端に少ない。それでSNSのような場でも知らない方々がほとんどである。私は腹を割って話すということがない。現実に存じ上げている方からは「もうちょっと胸襟を開いてくれたらね」と言われたことがある。コミュニケーション力ゼロに近い私だから、知り合って間もないお年上の方からそう言われたことは、なにかこそばゆいような思いがしたが、普通人はそうするものなのだろうかと、自分の常識との違いを思い知ったことだった。

 良き知人友人は数は少なくてもいるのだが、それに一地方都市ではあるが、この地ではそうそうたるメンバーの同人誌にも会員として、書き手として加わっているが、この人々は何処の馬の骨ともわからない私のようなものを受け入れてくださった。またカトリック教会でも、私のようなものでも受け入れられている。教会関係ではこの地の教会は大きいので、特別に親しい人はほとんどいないが、今、病の床に臥しておられるシスターと神父様のおかげで、カトリック者になることができた。わたしがいいものだったからではもちろんなく、小さなものだったからである。私を助けてくださった方々は、ことごとくお歳を召されて弱ってきておられる。私は最近、自分の顔を見て、つくづく歳をとったなと思う。私より歳上の恩人達が、お歳なわけである。でもまだまだ皆さん頑張ってくださると信じている。

 私がしていただいたように、人様にしてあげられるだろうか。どうも自信がない。けれども、最近は悪い意味での自尊心のなさから解放されつつある。自分自身を見たらみすぼらしいかもしれないが、こんな私でも受け入れられている事実をお伝えしたくて、人様をお誘いしようという気がしている。そして、私ではなくて背後におられる大いなる方を知っていただきたいのだ。どうも、私はお金には縁がなさそうだが、家族間でいろいろと助けられている。ささやかなお金は入ってくる。お金がなかろうが、あろうが、私は書くことは止めないと思うが、この世界は締め切りあってしかるべきもののようで、私のように用意の良すぎるものはどうもいけないようだ。でも人はそれぞれだ。人様のケースが自分に当てはまるかどうかはわからない。

 google+を止めたことから話は逸れたが、承認餓鬼道は自己評価が低く自尊心高いものが陥るから、人から認められれば自尊心に満足が行くから釣り合い取れるかも、という文言もあったが、私は自尊心が低いのではなくて、自己評価が低いのだろうか。そうかもしれない。それとも自己評価が高すぎるのだろうか。でも自尊心は高いとは思えない。卑屈だから自尊心が高いのだろうか。どっちにしても笑える文言だが、自分を笑えるようになったらそれはそれでいいだろう。あっさり承認はいただけなかったが、さもありなんである。やはり、SNSとはいえ実際に知っている人、信用の置ける人としか付き合わないのが普通かもしれない。私などは実際に知っている人からも、承認がいただけなかったりするのだから。よっぽど信用のないものなのだろう。でもそうとばかりも言えないところはある。メッセージは受けとられているからだ。

 google+が懐かしい気もする。だがもうこうなった以上、過去のことは過去のことなのだ。google+でメールをくださっていた方々、申し訳有りません。でも日に何通と送ってくる人が、あるとき不意に「お久しぶりです」などとのたまうこともあった。だからgoogleはわからないのだ。こうやって恥をさらす私は馬鹿者かもしれないが、フェイスブックの基本情報を見ると、ブログのことも書いてある。私が書いたという記憶はうっすらとある。2014年の1月以降のことのようだ。新しいブログを書き始めたのがこの頃だからだ。2013年のことはよくわからない。2013年のことはなにもかもわからない。そんな中で始めたgoogle+だったが、いろいろとありがとうございました。行き届かないもので、申し訳ありませんでした。ここまでおつきあいくださってありがとうございました。